「私の胸にご用はないですか? これで最後ですよ」
関ヶ原の戦いの時、おれたち三人は徳川軍の後ろのほうで戦見学をしていた。
殺し合いを間近で見たくはなかったし、万一の危険を考えたということもある。
四天王も「そうしたほうがようござるな」とうなずいていた。
戦場を見渡すと、あちこちに武士の集団ができていて、幟も立っていた。
この時代の武士たちにはどこに誰の軍がいるという見分けもつくのだろうが、おれにはさっぱり分からない。
だから小早川勢がそんな風に押してきたことも知らなかった。
気付けば徳川勢が敗走を始めており、そこからおれたちも逃げ出したのだ。
小早川は西軍を裏切らなかった。
しかし、史実は裏切った。
小早川秀秋になにがあったんだ?
「徳川家の傷は浅いものではない。当然ながら、戦に負けた責は問われることになる」
「それでおれが責を問われたということですか?」
「いや、違う。まさか主君に責を問うわけにはいくまい」
「でもさっき」
おれが徳川家を騙したと言ったじゃないか。それがクビの理由だと。
「それは違う」
「?」
「お主の言葉にまんまと乗せられたのは四天王だ。非は四天王にある」
「………」
おれは「まんまと乗せられた」という言い方に地味に傷ついていた。
「本多様が腹を切ると言い出した」
「え?」
「仕方あるまい。いくらたばかったとは言え、主君を殺めるわけにはいかぬ。もしそなたが生きておれば、改めて家康公として徳川家を盛り立てていくようにと本多様は言われた。ただし、お主の意見は聞くな、と」
きっつい言い方だな。
しかしその程度のことで済んだという考えかたもできる。
おそらく戦では何人もの死傷者が出たはずだ。
「それで本当に切腹したんですか?」
「いや。その時、一人のお方が現れ、その方が次の徳川家康公になりたいと申し出た」
「………」
まさかの展開だな、これは。
「その方いわく、いまの家康公すなわちお主と四天王との間にはわだかまりが生じてしまった。今後、主として仰ごうにも、どこかぎくしゃくしたものになるのは明らかだ、と。腹を切っても物事は解決しない。それよりも」
「それよりも?」
「家康公の行方が分からなくなっていることは全体の士気にも関わってくる上に、西軍を勢いづけることにもなる。幸いなことに、いま西軍は追って来てはいないが、かといって矛先を収めたわけでもない。いつ東進してくるかは分からぬ状況だ。いまなすべきことは家康公健在なりと周囲に知らしめることだ、と」
なるほど、それは理屈だ。
と言って、おれが家康として戻ったとしても四天王との信頼関係は崩壊しているわけだから、互いにやりにくい。
おれの「未来の知識」に頼りたくても、それを信じていいのかどうかという疑心暗鬼がつきまとう。
だったら、おれを切り捨て、新しい家康のもと徳川家の体勢を立て直したほうが早いということだ。
新しい家康を立てるには前任の家康が死んでからというルールはあったが、それはおれの願いによって例外的な措置を取ることになっていた。
それがあったから、今回の突発的な対応も受け入れやすい状態になっていたのだろう。
「分かりました」
決して徳川家を騙そうとしたわけではないが、それを口にしても弁解にしか聞こえないだろう。
だったら、潔く身を引くことにしよう。厄介事を引き起こさないようにしよう。
「あと一つだけ聞いていいですか?」
「構わん」
「おれが家康公ではなくなったことで、徳川家をたばかった罪になることはないんですか? もう主君じゃないから殺してもいいということになりそうですが」
おれがそう言うと、お萌がハッと顔をあげて小さく首を振った。
「なぜそんな余計なことを言うのですか」という顔だった。
でもおれは確かめておきたかったのだ。
おそらく、このあとおれは独りになる。
お萌とルエルは江戸へと引き上げることになるだろう。
おれは徳川家を騙したと思われているわけだから、ルエルの召喚魔法でもとの時代に戻してもらうのも絶望的だ。
となると、この時代で生きていくしかない。
この世界のことは右も左も分からないし、たいした技術も持っていないので、たぶん長生きはできない。
それでも、命を狙われながらビクビクと生きていくのだけは御免こうむりたかった。
その意味で、殺される可能性があるのかどうかは確認しておきたいことだったのだ。
「先ほども申したように、それはない。お主がたばかったのは家康公であった時。主君の罪は問えぬ」
「そうですか。安心しました」
お萌もホッとした顔になる。
優しい子だよな、と改めて思った。こんないい子に出会えただけで良しとしよう。
普通の人間にはできない経験もさせてもらったし、これはこれで満足していい人生だ。
「と言うより、お主は元の世界に戻してやれ、と殿はおっしゃっておる」
「はい?」
「勝手に呼び出しておいて勝手に放り出すのは徳川家の沽券に関わるというのが殿のご意見だ。そのお考えにしたがって、お主には元の世界に戻ってもらうことになった」
「マジすか?」
「マジだ」
半蔵さんは真面目な顔でうなずく。どこで覚えたんだろう、その言葉。
「それにお主は、家康公として長生きをした。これまでの家康公なら、とっくに命を落としていたはずだ。その点でも殿は一目置いておられる」
「はは、ありがとうございます」
おれは思わず頭を下げる。
予想もしなかった展開に胸が熱くなる思いだった。
お萌やルエルと別れるのはもちろん辛いが、それはもとより覚悟していたことだ。
ただ、その覚悟も「元の世界に戻れる」ことが前提だ。
さっきまでは「お萌やルエルと別れる」ことに加えて「元の世界にも戻れない」という絶望的な状況にいると思っていたので、半蔵さんの言葉はとてもありがたかった。
あまりの喜びに身を震わせていると、
「うれしそうですね」
どこか冷たい声でお萌が言った。見ると、涙目でおれを睨んでいる。
「え。あ、いや」
「向こうにお戻りになってもお元気で」
「えーと、お萌。なにか怒ってない?」
「怒ってなぞおりません。つーん」
お萌はそっぽを向く。
そこでおれは気付く。この話はお萌にとっても唐突なものだった。
お萌なりに突然の別れに対して思うところもあったはずだ。
しかし当のおれは特に抵抗することもなくその別れを受け入れ、さらには元の世界に戻れることに喜びを隠そうともしていない。
お萌にすれば「しょせんその程度のことでしたか」ということになるだろう。「つーん」と言いたくなるのも無理はない。
おれは「そうじゃないんだ」と言おうとして……やめた。
ここはお萌に嫌われておいたほうがいい。これ以上の未練を残さないためにも。
ただ、礼だけはちゃんと言っておきたかった。
「お萌。いままでありがとう」
「………」
お萌は無言でそっぽを向いたままだった。その横で半蔵さんが言った。
「ルエルは熱を出しているようだから、いまはここに置いていくが、熱が下がればお主を元の世界に戻してくれるだろう」
「はい」
「ルエルの迎えはあとで寄越す。しかしお萌はこのまま連れて行く。お萌の仕事はお主が家康公でなくなった時点で終わっているからな」
「201人目の家康公に仕えるんですか?」
おれの胸に謎の感情がよみがえる。
「それはない。聞いてなかったのか?」
「なにがです?」
「家康公に仕える者は一代限り。新たな家康公には新たな者が仕えることとなる」
「……そうだったんですか」
つまりお萌はおれ専属の世話係だったということになる。
おれは改めてお萌に礼を言う。
「ありがとう。おれはお萌に会えて良かったよ」
しばらくお萌は黙っていたが、やがて小さな声でおれを見た。
「私の胸にご用はないですか? これで最後ですよ」




