死ぬことが生きがいなのではないかと思えるくらいに
「なに!? 殿が死んだ?」
その知らせを聞いた時、本多忠勝は天を仰いでこう叫んだという。
「これで何人目じゃあ〜〜〜〜!」
……51人目だったそうだ。
少なくともその人数くらいまでは家臣たちは主君の死を嘆いていた。
これが60人目を過ぎたあたりから反応が変わり始めた。
「ほう、殿が死んだ? では、次の者を」
70人目になると、
「ん? 殿が? そっか。そんじゃ、いつものように」
80人目になった時は、
「ふーん。手はずは分かっておろうな」
90人目まで来た時は、
「むにゃむにゃ。なんじゃ、こんな時間に。ん? ああ、殿が死んだのか。明日でいいわ明日で」
で、記念すべき100人目では、
「あっそ」
の一言で済ませられるようになっていたという。
ここで言う「殿」とは「徳川家康」のことである。
歴史に名を残す戦国武将の中で徳川家康ほど数多く死んだ者はいない。
それはもう悲劇を通り越して喜劇としか言いようがないほどの死にっぷりだ。「受け狙い?」と言われても仕方のないほどだった。
家康を最初に殺したのは織田信長と言われている。
二人は幼なじみだったのだが、やんちゃ坊主で有名だった信長は日頃から家康を雑に扱っていた。
スズメバチの巣を採ってくるように命じたり、マムシと素手で戦わせたり、滝の上からダイブさせたり……と、ほとんどいじめだった。
そのいじめがエスカレートた結果、初代の家康は死んだ。
ある日、信長は冗談で家康の身体に石をくくりつけ、池の中に蹴り込んだ。
どぼーん!
……そのまま浮かんでこなかったらしい。
「あ、やべ!」
さすがの信長も焦った。
だがその一方で、
「これくらいのことで死ぬとは、はんっ! 所詮はそこまでの男よ!」
とうそぶいたそうだ。
徳川家康、享年七歳。
あまりに短い人生だった。
その遺体はいまも池の中で静かに眠っているというが、それがどこの池なのかを知る者はいない。信長もとうの昔に故人になっている。
だが、徳川家康の人生はそこで終わったわけではなかった。
むしろ、そこからが彼の長い人生の始まりだった。
家康を死に至らしめた信長は近所の子どもをつかまえて、こう決めつけた。
「今日からお前が家康な!」
そして、その子の両親にも脅しをかけて従わせた。
信長は領主の息子だったので、そんな横暴もまかり通ったのだ。
信長と家康は幼なじみだったが、そこには複雑な事情がある。
家康はもともと「人質」だった。
彼は6歳の時に戦国大名の今川義元のもとに人質として送られたのだが、その途中で何者かに誘拐され、巡り巡って織田家のもとにやって来た。
そこで信長と知り合ったわけである。
二人の年齢差は9歳。
幼なじみというには少し無理があり、その年齢差を考えると信長の家康に対する数々の仕打ちはいじめを通り越して虐待に近いものがあったと言えなくもない。
ともあれ、徳川家康は幼い頃に命を落とし、以後はずっと替え玉というのか影武者というのか、非オリジナルな人間がその名を継いできたことだけは間違いない。
その二番目の家康は近所の子どもだったわけだが、意外と織田家の人々にはばれなかったらしい。
家康の実家は弱小の豪族だったので、織田家のほとんどの人間が気にかけなかったことも影響していただろう。
もしかすると彼らはやんちゃ坊主の信長に手頃なペットを与えたという程度の認識しか持っていなかったかも知れない。
その二番目の家康もじきに死んだ。信長が懲りずにまたいじめを続けたからだ。
そして新たな家康が誕生し、じきにまた死に、さらに次の家康が誕生した。
彼もまた死んでしまい……と、そんなことが続くが、煩雑なので略す。
その後、織田家の人質から今川家の人質になったりといったことがあったものの、家康はようやく本来の徳川家に戻ることができた。
この時の年齢は、本物で換算して19歳になっていた。その時点ではすでに30人目の家康だったらしい。
徳川家としては見ず知らずの他人を若君として迎え入れることに抵抗があった。当然のことだが、そこは割り切るしかなかったようだ。
「実は私、徳川家康としては30人目でして……」
というあまりと言えばあまりな事実に衝撃を受けたということもあったし、脱力したということもあった。
それらが逆に開き直るきっかけにもなったらしい。
「こうなったら徳川家はその路線で行くしかない!」
毒を食らわば皿までという心境だ。
家康がオリジナルかどうかということにさえ目をつぶれば、徳川家は主君が健在ということになる。
家康は一人っ子だったということもあり、お家存続のためにはなりふり構ってはいられなかったのである。
その30人目の徳川家康も、しばらくして死んだ。環境の急激な変化に耐えられなかったようだ。
それを受けて31人目の家康が徳川家によって用意された。
この事実をもって「徳川家康」の路線は決定した。
たとえ何人死のうが、その名を継ぐ者がいる限り、家康は生き続ける……。
その決定を下したのは「徳川四天王」と呼ばれる家臣たちだ。
本多忠勝・酒井家次・榊原康政・井伊直政の4人である。
彼らは戦国時代から江戸幕府成立に至るまで徳川家の基礎固めをし、領地拡大に尽力し、徳川家康が戦国大名としてのしあがっていく過程において多大な貢献をしたと史実では伝えられているが、なんのことはない、実質は彼らが徳川家の実権を握っていたのである。
家康はあくまでもシンボル的な存在だった。
しかしそのシンボルは不条理なほどに脆い存在でもあった。
徳川家康に関する記録は数多く残されているが、そのいずれの場面においてもじつは彼は死んでいる。
例えば、桶狭間の合戦。
この時、徳川家は織田信長の敵方にまわったが、家康は戦開始早々、あっけなく死んでいる。恐怖で心臓が持たなかったらしい。
あるいは、三方ヶ原の合戦。
武田信玄との戦いだが、この時は相手の雑兵がたまたま投げた石に顔面を直撃されて死んでいる。
さらには本能寺の変。
この時期の家康は信長の建てた安土城に招待されていた。本能寺の変はその折りに起きたものだった。
この時、急いで自分の国に帰ろうとしたところ、途中の山道で転んで死んでいる。
もう一つ、小牧・長久手の戦い。
天下統一を果たす前の豊臣秀吉との戦いだが、この時は味方の矢を背中にくらって死んでいる。弓矢隊の前にうっかりと立ってしまったのだ。
戦の時だけではない。
平時においても家康は次々に死んでいる。
鷹狩りをしていた時に、舞い戻って来た鷹から頭部をつつかれて死んだことがある。
馬に乗ろうとして失敗し、転げ落ちて死んだことは3回ある。
名刀と呼ばれる刀を贈られた時に「どれどれ」と鞘から抜いた途端、手を滑らせておのれの頸動脈を切り裂いたこともあった。
もう、とにかく死ぬ。
息をしているだけで死に、息を止めればなお死ぬ。
死ぬことが生きがいなのではないかと思えるくらいに死んで死んで死にまくった。
もちろん記録にはそうしたことは記されていない。
しかし真実はいま言ったとおりなのである。
そんな家康のことを他の戦国武将たちが気付いていないはずはなかったが、黙殺していたようだ。
理由は二つある。
一つは「あいつら、どこまで行くんだろう?」という好奇心。
怖い物見たさと言っていいかも知れない。
例えるなら、だんだん配信内容が過激になっていくユーチューバーを見るような。
もう一つの理由は、そこにふれると徳川家を逆ギレさせてしまうかも知れないという危機感。
まわりはとっくに気付いているけれど、本人は気付かれているとは思っていないケースは日常でもよくあることだ。
例えば、ヅラの上司。
鬘を愛用している上司の髪型が変わった時には「散髪したんですね」というのが大人の対応で、バカ正直に「あ。部長、それって、おニューですね」と言う者はいない。
公然の秘密ではあれ、その秘密を暴かれた時の徳川家の怒りを考えると、穏やかにスルーしておいたほうがいいと周囲は判断した。
徳川家はすでに弱小の豪族ではなく、天下を狙うまでには強力になっていた。
天下統一はいったん豊臣秀吉に譲ったものの「次こそは」と虎視眈々と狙っているのがいまの徳川家なのだ。
さらに言えば、ここまで徳川家康を生み出してきたのだから天下を取るまでは止められないという意地もあった。
かくして徳川家康は、さながら不死鳥のごとく何度も死んでは生き返り、やがて江戸幕府を開くことになるのだが。
そこにふとしたことで関わりを持ったのが、この話の語り手であるおれ……200人目の徳川家康だ。
本名は夙川せつや。
21世紀、令和の日本から戦国時代末期の日本に召喚されてきた18歳の男子高校生である。