093.洞と魔物と
「――――着きました」
再び魔物の下へ進み出してから数分。静かな、そして凛としたエクレールの声が響いた。
顔を上げると俺達の進路を遮るように肩ほどの高さの茂みが壁のように立ちはだかっていた。
森も深く入り込んだのかさっきと比べてもかなり薄暗い。覗き込むように茂みから顔をのぞかせると、向こう側にはぽっかり空間が出来ていた。
地面は雑草がほとんど生えていないただの土の地面。木漏れ日どころかまるで常に夜かと思うくらい暗い空間。
更に特筆すべきは広場のようなただっ広い空間の中央だろうか。グラウンドのような地面の中央に鎮座するのは高い"壁"。この小高い茂みの壁とは比べ物にならないくらい高い"壁"がそびえ立っていた。
「あれは……壁?」
「いえ、壁ではなく木です。とてもとても大きな……」
聞こえてきた声に"壁"の天辺を見ようと首を痛くするほど見上げると、巨大な枝と葉が空を覆い尽くしていた。まるで空を独占するかのような巨木。樹齢千年を軽く越えるであろうその姿は、自然が作り出した城壁のようだった。
日本でも滅多に見ることのない圧倒的な存在感に目を奪われていると、エクレールはすっと腕を上げて人差し指を一点に向ける。
「あそこです。"皆さま"どうやら魔物はあの穴に居ると言っておられます」
そう言って示したのは巨木の根本。昼だと言うのに暗い世界を目を凝らして覗き込むと、ようやく大きな穴が見えてきた。
木の根で区切られた大きな穴。樹洞や洞とも呼ばれる穴だ。しかしこれは巨木なだけにウロの入口もあまりに大きい。大人一人でさえ軽々入れるほどだろう。
見た目は完全にダンジョンの入口。その得体の知れなさにゴクリと喉を鳴らす。
「エクレール、"みんな"ってその足元でウロチョロしてる子達のことかしら?」
「えぇ。この子達が目撃情報を集めてくださいました」
ふとラシェルの疑問の声に目を向ければ、エクレールの足元にはネズミのような生き物が数匹忙しなく動き回っていた。彼女はそのうち一匹に手をかざすと、まるで長年連れ添ったペットのように飛び乗ってエクレールの撫でを大人しく受け入れている。
「へぇ……ラットなんて中々懐くものじゃないのに。便利ね、その能力」
「どんな動物でも言う事を聞いてくれるものではありませんよ。今回はこの子達が親切だったおかげです」
「親切ねぇ……」
そう言いながらラシェルはエクレールの手に乗るラットに指先を近づける。
きっと同じく頭を撫でようとしているのだろう。しかしその指先がラットの頭に触れようとした瞬間、器用に鼻先を動かしたラットはパンッ!とまるで人が手を跳ね除けるかのようにラシェルの指を弾く。
「…………」
突然の拒絶に目を丸くしたラシェルだったが、諦めまいと再び指を近づける。
それもまた弾かれ、三度近づけども跳ね除けられ、ついに諦めたのか手を引っ込めてプイッと顔を背けてしまった。
「……やっぱりラットは嫌いだわ。ウチのコーヒー豆を狙う厄介者だもの」
「それは……。今度お邪魔した時に犯人を説得してみますね」
ついに拗ねてしまったラシェルにエクレールも思わず苦笑い。
思い出すのはあの日アスカリッド王国のパーティーで連れ去られた倉庫。あそこはコーヒーが沢山保管されていた。穴なんて開けられちゃたまったものじゃないだろう。
被害阻止のためにも是非エクレールには頑張ってほしいところだと心のなかで応援していると、ふと俺の後ろに位置していたシエルが声を上げる。
「みなさまお静かに。穴からなにか出てきます」
「っ――――!!」
その声に揃って顔を上げて見れば、ガサゴソと暗闇から音が聞こえる。何がいるのだと息を潜めて見つめれば、次の瞬間にそれは姿を現した。
「クマ……?」
ウロから出てきた生物。それは間違いなくクマだった。
それもあまりにも大きな。丸々と太った体躯で4足歩行ながら遠目でも牛や馬さえ軽く凌駕していることがわかる。
見た目は日本のヒグマを更に巨大化させたもの。遠くからもわかる威圧感にゴクリと喉が鳴る。
「……間違いないわね。私の"目"で見てもアレは魔物。そもそもあんな巨大な獣がいるとは思えないわ」
ラシェルの言う"目"とは"祝福"のことだろう。
彼女もようやく目にした魔物の存在に怯えの色が混じっていた。
「ねぇあなた、本当にあんなのに立ち向かうの?今ならまだ諦めてレイコに頼めば済む話よ?」
ラシェルが俺を見る。目は不安、恐怖、諦め。そんな色が見え隠れしていた。
そんな彼女に俺は精一杯の笑顔を作ってみせる。
「……大丈夫」
笑顔は満足に作れただろうか。しかし内心では足が震えるほどの恐怖で染まっていた。
ラシェルと位置を交代する形で前へ出る。この茂みから出ればすぐに魔物は俺の存在を補足するだろう。たった一歩踏み出して命令するだけ。しかしその一歩がどうしても難しく、俺の足は動く命令を受け付けなかった。
「――――スタン様」
―――不意に、立ち止まった俺の肩に手が置かれていることに気がついた。
「スタン様、何があっても私がお助けします」
「スタン様、信じております」
「レイコさん……エクレール……」
見れば片側にはレイコさん、もう片側にはエクレールが手を乗せていた。
二人は励ますように笑顔を見せつけている。だがエクレールの震える手を見て彼女もまた本当に言いたいことを我慢しているのだと理解する。
「……行ってきます」
二人の王女に心配されて頑張らないわけにはいかなかった。
そのまま背中を押されるように力強い一歩を踏み出す。さほど引っかかることもなく素直に茂みを抜けて草の生えないぽっかり空いた空間に足を踏み入れると、クマの魔物と目が合った。
数分にも思えるような数秒の静寂が場を支配する。しかし次の瞬間――。
『グォォォォォ!!』
次の瞬間、敵の侵入とみなした魔物が咆哮を上げた。
空気は震え、巨木にいたであろう鳥が一斉に飛び立つ。だがそれで怯むわけにはいかなかった。
俺は竦む足を必死に耐え魔物を見続けると、突然魔物は地面を強く蹴り俺との距離を詰めようとする。
「っ……!」
眼の前で迫りくる巨大な魔物。
あまりの威圧に心臓が大きく脈打ち、頭が真っ白になった。こんな得体のしれない生き物に俺の力が本当に通用するのだろうか。
――――逃げ出したい。本心はずっとそう思いながら警鐘をけたたましく鳴らしている。
だが後ろにはみんながいる。エクレール、レイコさん、ラシェルそれにシエル。彼女たちを守るためにも、守る力をつけるためにも俺はその心を抑えて前を見据える。
「信じてください」そうエクレールが言っていたことを思い出す。「しっかり相手の目を見て言葉を届けること。それだけで祝福は応えてくれます」――――そう道中でレイコさんが教えてくれた。
更に彼女はこう言っていた。「祝福は水道のようです。蛇口のようにほんの少しだけ開いて僅かな水を出すイメージで」と。
俺は身体の力を脱力させ、向かってくる魔物を見続ける。
「っ……!駄目です!レイコ!行って!」
「まだです!」
「レイコ!」
「まだ待ってください!きっと……きっと彼ならっ……!」
後方からそんな声が聞こえてくる。
迫りくる魔物。大きい……近づいて見ると随分と大きい。立った状態なら5メートルはあるのではないだろうか。
そんなことを悠長に考えながら俺は静かに言い放つ。
『――――おすわり』
恐怖で乾いた喉から、それでも驚くほど澄んだ声が出た。
命令するように出た日本語。言葉を発した瞬間、眼の前の魔物の巨体はピタリと静止した。その場に腰を下ろした姿は、あまりの従順さに現実感を失わせるほどだった。
魔物から見て一歩程度の距離。5メートルほどもある巨体がその場に腰を下ろし完全に「おすわり」の耐性を取っている。
「止まった……本当に止まったのです……?」
見ていられなくなったのだろう。ゆっくりと目を開いて指の隙間から映った現実にエクレールは信じられないといった様子で声を震わせる。そんな彼女に振り返って俺は笑ってみせる。
「なんとか……ね」
「スタン様!?」
きっと俺も糸を張り詰めていたのだろう。
笑顔を見せた瞬間、まるで糸が切れるかのようにガクンと膝が折れ曲がる。
急に下る視界。また地面に倒れ込むのかと思いつつ重力に身を任せていると、一目散に茂みから飛び出したエクレールによってその身体が抱きとめられる。
「まったくもう……あんなに引きつけて……無茶しすぎですよ……」
「ごめん。ちょっと覚悟が足らなくて」
「本当に……無茶しすぎです……」
エクレールは小さく震える声でそう呟く。顔を伏せたままの彼女の手は、かすかにスタンの背中を撫でていた。
随分と心配をさせたことに頬をかいて言葉を出せずにいると、続々と茂みから他の面々も姿を現してくる。
「ホント、心臓に悪いのよ。貴方ってとびきりのエンターテイナーね。ホラー主演の適正あるんじゃない?」
「そんなつもりは無いんだけどなぁ」
「私はご主人さまのことを信じてましたよ。……ですが今回ばかりは心配かけすぎです!」
「シエルにまで言われるとは……。ごめんね」
あのシエルに怒られちゃ俺も謝罪する他無い。
珍しく膨れ面をみせる彼女に謝罪していると、ふと近づいてきたレイコさんが肩に触れてくる。
「スタン様、無事終わって安堵もいいですがそろそろ次の段階を」
「あぁ、そうだったね。”矛盾する命令”だっけ?」
今回ことに当たるに向け、俺は彼女と計画を立てていた。
最初の命令が成功したら様々な実験を行うという計画。それは俺の力を知ることにも直結するから断る理由もなく、促されるままに座り続けている魔物に向き直る。
「えっとそれじゃあ……『立ち上がれ』」
日本語で発した俺の命令とともに立ち上がる魔物。
流石は巨大魔物。5メートルもある巨体が立ち上がったら中々の光景だ。
「すごい……ご主人さまの命令を間違いなく聞いてます……」
「どうやら矛盾する内容は上書きされるみたいですね。それでは次……”複雑な命令”を」
レイコさんに言葉にコクリと頷いて打ち合わせ通りの言葉を発する。
『ウロの中から奪ったものをもってこい』
ノシ……ノシ……と。
3つ目の命令を受けた魔物は踵を返すように巨木の穴へと戻っていってしまった。
村とかウロとか言葉の意味を理解出来ない可能性もあったが、どうやら魔物はしっかりと意味を理解して実行に移しているみたいだ。しばらくその場で待っていると次戻ってきた魔物が加えていたのは一つの麻袋。それを俺達の前で離すとその中身が一斉に散らばっていく。
「こんなに……」
そこに転がるのは干し肉や果物ばかりだった。
どれも昨日保管庫で見たものばかり。この魔物が襲撃犯で間違いないようだ。
こんもりとした小さな山となっている奪われた食料を見ていると、不意に山の陰から銀色に光る何かを見つける。
「これは?」
そう言ってかき分け目に入ったのはここには似つかわしくないアクセサリーだった。
日の当たるところでは眩く輝くであろう銀色のネックレス。ラシェルに診てもらい何も無いことを確認し、そっと持ち上げる。
「ネックレスのようですね……。村で聞いてみましょうか」
「そうだね。でもその前に……レイコさん、あとはお願いできます?」
ネックレスはもちろん気になるが、それより先決なのは魔物のこと。
俺はもう無理だ。緊張のせいで立つことが出来ない。助けを求めるようにレイコさんを見上げると彼女は微笑みながら頷いてみせる。
「もちろんです。スタン様は十分すぎるほどの成果を見せてくださいましたし。……ですがここでは少々ショッキングな映像となりますので、しばし失礼いたします」
彼女がそう呟いた瞬間、彼女の姿が一瞬だけブレ、次の瞬間には既にそこにいなくなっていた。同時にあんなり存在感のあった魔物の巨体もいなくなっている。どうやら何処かへ連れ去ったようだ。
「これでひとまず……解決かな?」
その言葉とともに俺は地面に倒れ込む。
もう立てない。もう起こすことすらままならない。
だが魔物が消え去った後の空間には、静寂と安堵が広がっていた。枝葉の隙間から見える青空は、どこまでも穏やかで美しい。俺たちを労うかのように、自然はその姿を見せてくれている気がした。