090.紅茶と月光
「疲れた~!」
部屋に入るなり、心からの叫びとともにベッドに倒れ込んだ。
疲れの前には何人とも勝てない。制服にシワがつくのも厭わずにボフンと倒れると、ベッドのふわふわが身体を包み込む。
昼間干していたのだろうか。まだ若干感じる温もりと干した後の特有の匂いが鼻腔をくすぐりながら一気に身体を脱力させる。手足全てに重りを付けたかと思うほどの重力感。疲れ切って動きたくない。ベッドと一体化するように蕩けきっていると、ふと背中からジャケットが引っ張られた。
「ご主人さま、気持ちは分かりますが皺になると大変です。せめてジャケットは脱いでください」
「ふぁい……」
まるで母のように仕方ないと笑みを浮かべながらジャケットを奪い去るのは我が従者のシエル。手早くシワを伸ばしブラシで埃を叩きながら慣れた手つきでハンガーへとかける。
「ご主人さまも今日一日お疲れ様でした。お夕飯はとらずお休みになりますか?」
「シエルもお疲れ様。ご飯は……いや、食べるよ。でも今はちょっとだけ休憩……」
「ふふっ、そうですね。長旅の上に頭も働かせて、今日は大変でした」
「ホントだよ。後半なんて気合で立ってたんだから」
俺の言葉を受けてクスリと笑いながら椅子に腰掛けるシエル。なんだかんだ言って彼女も疲れているのだろう。
保管庫で今後の方針を決めてから暫く。俺達は村長の案内のもと、ゲストハウスへとたどり着いた。
たどり着いたそこはこの村一番の豪華な建物。ロビーに入った瞬間で迎えてくれたのは柔らかなカーペットに立派な調度品。窓際のカーテンはどこの匠が手掛けたのかと思うような、美しい花の刺繍まで施されている。
そんな豪華なロビーを抜けてやってきた個室。二人部屋のこの部屋は寮を思い出すが、王族の敷地内と村のゲストハウスを比べられるだけ相当なものだろう。
「これで王女二人が部屋に居たらまだ休まらなかっただろうな……」
椅子で休んでいたシエルが早々に立ち上がって飲み物を入れようとお湯を沸かす後ろ姿を見てふと呟く。そんな俺の声が聞こえたのだろう。背中越しにクスリと笑い声が聞こえてきた。
「エクレール様もラシェル様も、最後まで随分粘ってましたからね」
「ホントだよ……よく思ってくれるのはすごく嬉しいけど、受け入れてたら体力が持たなかっただろうな」
ゲストハウスでの部屋割り。
その決着は最後の最後まで決まらなかった。
両者ともに自らの望む結果を引き寄せようとあの手この手を使う二人の王女。最終的にラシェルが泣き落としを試みて目薬を落としたのには心底安堵した。
「エクレールって……意外と意地っ張りだよね」
「ですね。しかしそれが王女になるという事かもしれません」
「普段抑圧されているでしょうから」と付け足してコトンと近くのテーブルに置かれたカップ。そこから漂ってくる紅茶の香りが疲労感を軽減してくれる。
結局、部屋割りは俺とシエル、ラシェルとエクレールの二人部屋となった。レイコさんは個人部屋だ。
最後まで不満を漏らす二人だったが"主従"の関係ということでなんとか押し通せた。
「あの二人、今頃部屋で何してるんだろう?」
「どうでしょう。お二人もお疲れでしょうから。……もしかしたら二人してご主人さまの不満点を言い合ってるかもしれませんね」
「それだけは勘弁してほしいなぁ」
俺のここが気に入らないとか先日王と謁見した時の無礼さとか。色々と言われていないとも限らない。
あの二人に限ってそんなことはないと思うが、だがやっぱり、こうして落ち着くことを考えると……。
「なんだかんだ言って、やっぱりシエルと一緒にいるのが一番落ち着くよ」
身体を起こして紅茶を一口。口の中いっぱいに芳醇な香りがに広がる。
「ご主人さま……それって……」
「うん?」
不意に聞こえてきた声に顔を上げれば、椅子に腰掛け紅茶に口をつけていたシエルが驚いた様子でこちらを見ている。目は大きく丸く見開き、頬はほんのり赤く染まっている。それは驚きに加え、なにか別の感情が伴っているかのよう。
疲れと紅茶の安堵感で無意識に言葉が出てたかもしれない。直前の言動をすっかり忘れながら目を合わせると、彼女は目を一瞬閉じ、納得したかのように笑みを浮かべる。
「……そうですね。私もご主人さまをずっとお世話したく思います。5年後、10年後もこうしてお飲み物を淹れて差し上げたいです」
「シエルが嫌にならない限りは、10年も20年後もきっとこうしてるよ」
「ふふっ、でしたら100年後もきっとこうして一緒の時間を楽しんでいるのでしょうね」
100年は寿命的にも厳しいかなぁ。
だが無くもない未来かもしれない。二人して紅茶を傾けるゆったりとした時間。彼女が望む限りはずっと続くだろう。
そんな未来を予感させながら紅茶を楽しんでいると、コトリとカップを置いた彼女が少し真面目な表情でこちらを見る。
「それで……明日はどうなさるおつもりですか?」
未来のことより今のこと。
直近の気にしているであろう魔物被害について問われた俺は、何も無い天井を見上げる。
「正直、ボクにもどうするのかさっぱりわからない。エクレールは被害解決の何かあるのか……。でも嘘をつくとは思えないし、きっと策があるんだろうなって思うよ」
数十分前のエクレールの微笑みを思い出す。自信満々な表情、あの時の目はただの気休めを言っているようには見えなかった。
「エクレール様のことですから大丈夫だと信じてますが……。でもやっぱり魔物のことを考えると少し怖いです」
「シエル……」
「ご存知ですか?以前の私を含め城下町のスラムが一掃されない理由。王家なら街から追い出すことも簡単ですが、その場合殆どが外にいる獣や魔物にやられてしまいます。アレは貧困層に対する一種の救済措置なのです」
以前のシエル……俺の出会う前、スラムに居た時のこと。
その可能性には俺も薄々気がついていた。門から外に出たら平原。その上ドーベルマンのような魔物に追いかけられた記憶。現実問題いくら王家でもスラムの人全員を救うのは難しく、スラムの放置が精一杯なのだろう。
当時のことを思い出しているのか目を伏せ、声を震わせる彼女の肩にそっと手を添える。
「大丈夫だよ。シエルはボクが守るから」
「スタン様……」
その言葉にシエルの唇が僅かに震える。
窓の外からは夜の闇に浮かぶ月が俺達を優しく照らしてくれる。
自然と伸ばされた彼女の手を取り、ギュッと固く握りしめた。
相手は魔物。ならば俺一人でもやりようはある。
制御の効かないあの力。使ったら倒れるだろうが、それでもいざとなれば迷うわけにはいかないだろう。
だけど、それでも守りたい。
それはシエルだけではない。エクレールも、ラシェルも。
シエルもまた俺の手を強く握り返した。二人の視線が重なり、静かな夜の中で何かを確かめ合うように微笑み合う。
月の光が優しく部屋を照らす中、俺は守る覚悟を胸に未来を見据えるのであった。