085.後門の龍と虎
「……この2つの束になったスティックを混ぜれば合計10本になりますす。これを式として書くと――――」
教壇に立つ教員の解説とともに黒板へ数式を描いていく。
それはいつもの授業の風景。教室内は昼前の微睡みとともに穏やかな空気が流れていた。
空腹と眠気が襲ってくる、一日の中で一、二を争う過酷な時間。
周囲の生徒たちは眠気と無縁なのか真剣な表情で解説を頭に叩き込んでいる。
作法や歴史といったこの世界独自の授業なら俺も真剣に集中していただろう。しかし今やっている授業は算数。こればかりはただただ退屈だ。
難関高校を目指して勉強に励んできた俺にとって、今さら足し算引き算の学習を学ぶのはいささかしんどい。
わかりきった内容。ただ授業を邪魔したり抜け出すなどという外聞の悪いことも流石にできず、コックリといきそうな眠気に耐えながら授業を受けていた。
小学生レベルでも最初の授業である足し算引き算。
この学校に通う生徒たちはみな貴族。彼らの中には既にこれくらいの内容をマスターしている者いるだろう。
それを証明するようにこの時間は他の授業より一層緩い空気が流れており、視線を彷徨う生徒が多いように感じる。
チラチラと向けられる視線。その多くは教室の後ろ……俺の更に後方へ向けられていた
向けられる視線の先にいるのはこのクラスに混ざって授業を受ける王女様――エクレール。
彼女にとっては既知の内容であるはずなのに真剣な表情で授業を受けている。その姿が生徒たちの目を引いているようだ。
そしてもう一人視線が注がれる先がある。
それはエクレールと対を成す人物。俺の斜め後ろに座るラシェル王女。
これまた俺より後ろに座る彼女を見る視線が妙に鬱陶しく思いながら俺も様子を伺おうとすると、不意に肘が机の角にぶつかってペンを床に落としてしまった。
「おっと……」
小声を上げながら揺れる机を抑えると、コロコロ転がるペンは机から滑り落ちエクレールの椅子の足元でようやく止まる。
「あら」と声を上げたエクレールがペンに気づいて顔を上げる。俺と目が合うと彼女は柔らかく微笑みながらそっと口を動かした。
(任せてください)
エクレールからそう語るような視線が届く。
彼女は落ちたペンを拾おうと屈んで手を伸ばして――――
「はい、どうぞ」
しかし、伸ばしたエクレールの手がペンに届くことはなかった。
それより早く拾い上げた者……俺の斜め後ろ、エクレールの隣に座るラシェル王女が拾ったペンを片手で回しながら差し出してくる。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして。……フフン」
「っ……!」
ペンを渡した瞬間。
まさに口に出すように。鼻を鳴らして彼女が見下ろしたのはエクレール。
それは何らかの勝負で勝利したかのように勝ち誇った表情だった。
俺にはそれが何の意味を持つのか理解できなかった。
だが後ろのエクレールがムッと眉を吊り上げたことで一気に緊張が走る。
「えと、エクレール?」
「なんでもありませんわ。ささ、授業に集中しましょう?」
「う、うん……」
思わずか問いかけるもにこやかに答え強制的に俺の体は前へ向けられる。
しかし背中越しに感じるのは彼女の視線。コッソリ伺うように覗き見ると、頬を大きく膨らまして無言のまま俺を睨んでいる。
「そ、それでえっと……スティックを半分削るとぉ……」
教壇に立つは成人して間もないであろう新任教師。
エクレールの視線に当てられてかその声はビクビクと震えている。
だがエクレールの視線はあくまで俺である。俺は理不尽な怒りの視線をぶつけられながら、針の筵のような授業時間を過ごしていった。
*****
昼休み。それは午後の授業に向けた英気を養う至福の時間。
美味しい昼食を食べて寝たり会話に花咲かせたりして僅かなひと時を楽しむ。
そんな時間に、今日も今日とて俺達は食堂に集まっていた。すっかり定位置となった隅の席。もうすっかり慣れた同級生や先輩方の視線を受けながら、この国の王女様共々お昼を食べる。
しかし今日ばかりはいつもと比べ様相が違っていた。
まずメンバーが一人多い。シエルにマティ、エクレールといったいつものメンバーに加え、今日はさらにラシェルという新顔が俺の正面に座っている。
ラシェル……隣のアスカリッド王国の王女様。
一週間限定ではあるが親善も兼ねてこの学校にやってきた留学生。
彼女の顔は隣国であるウチでも有名で、二人も王女様がいるという事実に周りの視線はいつもより多く俺達に向けられている。
視線を向けるのは当然のことだろう。だって彼女は今――――
「――――はいっ、スタン。あ~ん!」
「えぇっと…………」
彼女は今、俺に向けてあ~んをしようとしていた。
フォークにフルーツを刺して笑顔で差し出してくるラシェル。俺がエクレールの婚約者候補というのは先日のパーティー以降マスコミを通じて国中に広まっている。それにもかかわらず彼女の行動に周りは不思議の目で俺達に視線を向けていた。
「なによ、食べてくれないの?せっかく王女様が差し出してあげてるのに?」
「それは……食べて良いのかとか色々あって……」
「別に嫌いじゃないんでしょ?食べたいなら食べてもいいじゃない。ほら、口をあけて。あ~――――」
「――――ラシェル様」
食べさせようとするラシェルにどう回避すれば角が立たないか模索する俺。
一歩間違えれば地雷を踏んでしまうそんなさなかに、ふとラシェルの隣に座る彼女が声を上げた。
「……何かしら?エクレール」
「ラシェル様、スタン様は私の”婚約者”でございますので。あまり周りの民の誤解を招くような行動は謹んでいただけると」
「あら、確かスタンは婚約者”候補”だったわよね?つまりまだ正式じゃないってこと。そんな曖昧な立場で大口を叩くのは可笑しくないかしら?」
「……それを言うなら他国の王女が我が国の民に手を出すのもおかしいと思いますが。そもそも何故ラシェル様は私達のクラスへ?あなたは一つ年上でしょう?」
「もちろん親善が目的ですもの。親交を深めるためこちらの国の王女様と同じクラスになるのは自然なことでしょう?」
「……へぇ」
「……えぇ」
恐ろしい――――。
恐ろしく張り詰めた空気だ。
言葉尻に棘がありつつも笑みを絶やさない。だが煽りに煽るラシェルと、感情を必死に抑えているエクレール。
両隣の席で顔も見ず繰り広げられる会話と緊迫感に当たりの視線はまるで逃げるように霧散していく。
「ふ、ふたりとも……ちょっと落ち着いて――――」
「スタン様は……」
「……黙っててもらえるかしら?」
「――――はい」
二人の圧倒的なコンビネーションで俺の言葉は封殺された。
仲がいいのか悪いのか。誰かに助けを求められないか見渡すと、何も気にする素振りも見せず黙々とカレーを食べているマティが目に入る。
「マティ……助けて」
「別に放っておいていいんじゃない?あんたもすぐに慣れるわよ」
「その前にボクへ実害来そうなんだけど……」
どうもマティは一切関わる気が無さげ。ならばと反対側に座るシエルに目を向ける。
「シエル……」
「……ご主人さまってばいっつもモテモテですね」
「シエル……!?」
唯一無条件で助けてくれそうな我が従者だったが、そんな言葉とともにフイッと顔を背けられて俺は急転直下立つ瀬を失ってしまった。
呆然とする俺に、気づけば2つのフォークがこちらに差し出されていることに気づく。
「スタン様!」
「ねぇ、スタン……」
それは王女様二人から差し出されるフルーツ。にこやかに笑いかけている二人だが、目は笑っていない。
「「あなたはどっちを食べるの!?」」
一体どういう話の流れでそうなったのか。
隣のマティからは「どっちにするの?」と囃し立てるような声が聞こえてくる。
俺は試されるように差し出された2つのフルーツに、平穏な昼休みはどこへ……と心の中で叫びつつフリーズするのであった。
2025.1.8 修正