073.いつか必ず
「起きて……ねぇ、起きて」
「ん……う……」
微睡みに漂いながら、ゆっくりと沈んでいた意識が浮上していく。
柔らかな毛布の温もりに浸っていたい気持ちを振り切るように、肩を揺すられ、否応なしに目を開いた。
うっすらと開けた目。まだ夢半ばで一番に目に入ったのは黒い髪と黒い目を持つ女性だった。
端正な顔立ち。日本人ぽくありながらそうではない絶妙なバランスに立つ人物。
そんな彼女を夢うつつのさなか見ていた俺は、無意識に言葉を発していた。
「母……さん……?」
自分でも自覚することなく出た言葉。
自然に口が動きながら頭は昨日のことを思い出していた。
夕焼けに照らされた風にたなびく黒い髪。それを見た時既視感を覚えていたが今思い出した。
重なったのは母さんだ。似ているんだ、あの人に。
今も屋敷にいるであろうカミング家の母ではない。日本にいた時の神山の母。
"慶一郎"を産んだ実の母。優しく、時に厳しく接しかった人。今更ながらに思い出す母の顔に、眼の前の姿と重ね合わせていると、不意に女性からこちらに向かって手が伸びる。
「誰がお母さんですか」
「ムギュッ!」
不意に伸びた手は眼の前で止まったと思いきや、冷淡な声とともに鼻を塞がれた。
突然襲われる呼吸困難。珍妙な声を上げながら微睡んでいた意識を一気に目を見開くとなんの抵抗もなく手が離れて、かわりに呆れたような少女の姿が目に入る。
「キミは……」
「おはようございます。目が覚めましたか?」
黒い髪と黒い瞳。同じくらいの年の少女が横たわる俺を覗き込む。
周りを見れば覚えのないこじんまりとした小屋。知らない天井、知らないベッド。
だが少女の顔を見て段々と記憶が戻ってきた。ここは彼女が住まう小屋。そうだ、俺は平原を歩いていて魔物に襲われたところを助けてもらったんだ。
「……もう朝?」
「まだ。夜明けまでは……あと1時間ってところ?」
チラリと振り返った視線につられると、窓から見える空は僅かな薄明かりに照らされていた。
普段の俺からしたら起きるには相当早い時間。あの執事になった時以来の早い起床に身体を起こすと彼女は湯気立つコップをこちらに手渡してくる。
「白湯。温まるから飲んで」
「あ、ありがとう……」
寒暖差が激しくなってくる秋。こんな早い時間だと随分と寒い。
暖房は付けて間もないのか室内にも関わらず冷たい気温に白湯の暖かさが身にしみる。
「起こしてくれたのはありがたいけど、こんな早い時間にどうしたの?もしかして普段からこの時間に起きてるの?」
「ん……まだ。僕も普段は日が昇ってから起きてる」
「ならどうして……」
ならばどうしてこんな時間に起こしたのだろう。
そんな疑問とともに白湯を喉に流し込みつつ空になったコップを彼女に手渡すと、そのまま両の黒い目は流しに向かうことなくまっすぐ小屋の扉に向けられる。
「そろそろ迎えが来るから」
「迎えって――――」
淡々と告げる彼女に対する疑問は、最後まで紡がれることはなかった。
俺が口を開いた途端。コンコンコン、と控えめながらもしっかり内側に聞こえるノック音が響き渡る。
彼女に対するお客さんだろうか。そう思って黒髪の後ろ姿を見ていると動く気配がなく、視線で俺に向かうよう促される。
「出てあげて。あなたのお客さん」
「うん……」
淡々と。だがそう告げる彼女の口調はどことなく柔らかく感じた。
言われるがままにベッドから降りて扉に向かい、恐る恐る扉を開けると、そこには漆黒のスーツに身を包んだ女性が立っていた。肩で息をした人物の持つ白い髪がロウソクの光に反射して揺れ、静かな威圧感が漂っている。
「レイコさん……」
よく見れば立っていた女性はレイコさんだった。
荒れた呼吸に服は酷く汚れている。足元は泥まみれでジャケットはところどころ破れている。そのボロボロの姿は俺を探すために相当苦労してくれたことが見て取れた。
視線を下に向けて目を合わせた彼女は俺を認識すると同時にその長い腕を突然こちらに向けて伸ばしてくる。
「っ……!!」
「わっ!!」
突然伸びてきた腕。
彼女は俺と目が合うやいなや、有無を言わさず素早い動きで手を回しぎゅっと強く抱きしめられた。
突然のことに目を白黒させる間に身長差によって浮いてしまう身体。バタバタ動いても何の意味もなさない。
「レ、レイコさん!突然どうしたんです!?」
「よかった…………。生きてる……。よくご無事で…………」
「…………うん」
痛みを感じるほど力強い抱擁。
しかしその痛みはとても嬉しく、暖かかった。
よく見れば彼女が身に纏う服はひどく汚れていた。足元は泥にまみれ、ジャケットはところどころ破れている。きっといなくなってしまった俺を探すため相当駆け回ってくれたのだろう。
そんな彼女に感謝を示すよう手を回すと更に彼女の抱擁は強くなる。それでも俺は強く強く彼女を抱きしめていた。
***
「――――コホン。スタン様、ご無事で何よりです」
出迎えて早々熱烈なハグからしばらく。
ようやく冷静になった彼女は仕切り直しのように背筋を伸ばしこちらに一礼した。
しかし頬はほんのり赤く全てが仕切り直しとはいかない。だが珍しい彼女の赤面が見れたことに俺は特に指摘することなく話を合わせる。
「レイコさんも。合流できてよかった。みんなは無事?」
「はい。あの場に居た全員何事もなく。スタン様だけが突如消えて探しておりました」
よかった。あの光に巻き込まれたのは俺だけみたいだ。
それだけが気がかりだった。彼女の言葉を受けてホッとするように胸を撫で下ろす。
「ボクもあれから色々あったけど……この子に助けられてなんとか」
チラリと振り返ると少女は俺のすぐ後ろに立っていた。
彼女は言葉を開くことなくただ両の目をレイコさんに向けている。
「そのようですね。まさかあなたが助けたとは思いませんでしたが………」
「……悪い?"いつかの誰か"みたいに見て見ぬふりをできるような出来た人間じゃないから」
レイコさんはどことなく少女を知っているような口ぶりだ。だが俺を助けてくれたのが予想外だった様子。
その雰囲気は険悪そのもの。少女は腕を組んでレイコさんを睨みつけ、ぶっきらぼうな言いようは明らかに嫌っているように見える。
「…………話を戻します。この度はスタン様を助けていただきありがとうございます」
「別に……。魔物に襲われたのは自分のせいだったから」
「魔物に……!?」
魔物に襲われているとは思いもしなかったようだ。
目を丸くしたレイコさんは反射的に俺を見て、同意するように頷くと安堵の深い溜め息が漏れる。
「そちらの件もあわせて謝礼は後日改めて。さ、スタン様。城に戻りますよ」
早々に踵を返そうとするレイコさんに『ちょっとまって』と伝えつつ、敷居を隔てた俺と少女は揃って向かい合う。
「助けてくれて、一日泊めてくれてありがとう。お陰でレイコさんとも合流できたよ」
「ううん。僕のせいでもあったから。それに……昨晩は話せて楽しかった、から」
「それはよかった。ボクも楽しかったよ」
ほんの少し恥ずかしげに、手を合わせつつ「楽しかった」と告げてくれることに悪い気はしない。
本当は更に学校へと誘いたいところだが、昨日のことを思い出して俺は提案を出す前にそっと飲み込む。
「スタン……」
「えっ?」
「スタンって言うんだね。キミの名前」
「あぁ、うん。スタン・カミングっていうんだ。君の名前は?」
「……………」
彼女にはまだ名乗ってなかったなと今更ながらに思い出しつつ、俺も少女の名を問いかける。
しかし彼女は名乗らなかった。一瞬だけ何かを喋ろうと動いた口だったが言葉を発することなく目を逸らし、キュッと下唇を噛むように目を伏せる。その仕草は名乗りたくない……名乗れないと告げていた。
「言いたくなかったら大丈夫だよ。でも本当にありがとう。命の恩人なのだからいつかお礼をさせて」
「――――から」
「えっ?」
「次……会った時はきっと名前を教える、から」
何故名前を出せないかわからない。しかしこんな平原にポツンと立つ小屋にたった一人の少女。何か理由があるのだろう。現に彼女の言葉はその先またいつか会えるのだと予感させた。
少なくとも今ではない。だがきっといつか。その約束ができたのなら十分と、俺も笑顔を浮かべて手を差し出す。
「わかった。次会う日を楽しみにしてるね」
「うん。まってて」
ぎゅっと互いに差し出した手で硬い握手を交わすと、フッと目の前の少女の口角が僅かに上がった。
またいつか。その時はきちんとお礼をしようと再び会えることを確信しながら、そっと両者を阻む扉が閉じられる。
「……かまいませんか?」
「うん。次会う時は恩返ししなきゃだ」
閉じられた扉をジッと見つめながら俺は絶対に恩返ししなきゃと固く決意する。
レイコさんとの確執からして何かしら事情がありそうだが、俺には関係ない。いつかきっとまた会いに来ようと心に決め、振り返った。
「では、帰りましょうか。エクレール様が待っておられます」
「そうだね。…………」
「……スタン様?」
ともに帰ろうと手を差し出すレイコさんだが、一向に取ろうとしない俺が不思議に思ったのだろう。
疑問符を浮かべて問いかける彼女に、俺は覚悟を決めてとある"お願い"をする。
「ねぇレイコさん。ちょっと帰る前に寄り道したいんだけどいいかな?」
「寄り道?構いませんがどちらへ?」
「…………向こうに見えてる森へ。魔物を前にしてボクの"祝福"を試したい」
お願いするのはささやかな寄り道。
まさか俺がそんなこと言うとは思わなかったのだろう。
昨日の今日で魔物に対峙するという驚愕で目を丸くする彼女を前に、俺は確信を持ちながらお願いするのであった。
2024.12.27 修正