062.ささやかな願い
「ご主人さま、紅茶淹れました」
「ありがとうシエル。……うん、今日も美味しいよ」
スゥと口の中にから鼻を抜ける温かな紅茶の香り。
ストレートの紅茶を口の中いっぱいに楽しみながら顔を上げれば目に入る窓の外の世界。
夏が終わって既に秋。僅かに開けた窓から吹き込んでくる風は、風呂上がりの身体を震え上がらせるほど冷たい夜の風と化していた。
空に見えるは数々の星々。
星に向けていた視線をほんの少しだけ下に下げればレンガに囲まれた景色。上空の星に負けじと輝く街頭のお陰で道は明るく照らされているが歩く者は見えない静かな景色。
この窓から見える初めての景色だ。森はなく都会のど真ん中。今日から始まり、これから長い時間を過ごすことになる寮の一室からの景色にアンニュイなため息が思わず出る。
シエルとともにたどり着きマティと、そしてエクレールとともにやってきた学生寮。
エクレールは一旦城へ、マティは隣にある自室へと戻って二人きりになった夜。
明日の入学を前に俺は紅茶を傾け今日という一日を振り返っていた。
もはや寝る前のルーティーンにもなったこの時間は屋敷でも寮でも変わることはない。備え付けの勉強用椅子に腰掛けながらリラックスモードに入っていると、ふと目の前のシエルが目に入った。
「シエル?」
「…………」
「ねぇ、シエルってば」
「…………ひゃっ、ひゃいっ!どうなさいましたかご主人さまっ!」
戻ってしまったご主人さま呼び。これは話し合った結果、大衆の目がある場以外では構わないと互いに妥協点を見定めた。
呼び方はともかくとして、紅茶を淹れてくれたシエルは未だ座ることなく俺の前に立っていた。
彼女が淹れた紅茶は二つ。一つは今俺が飲んでいてもう一つは彼女自身のもの。
普段の屋敷ならともに一日を語らって楽しむ時間だが、今日ばかりは湯気の立つ紅茶を机にお盆を胸に抱いたまま立ち尽くしている。
ボウっと俺の方を向きながらどこでもない虚空を見つめている彼女に声を掛けてみると、数度の呼びかけの後驚いたようにその目をパチクリと瞬きさせた。
「なんだかボーっとしてたから気になってさ。大丈夫?調子悪い?」
「いえ、体調はいいほうです。いいほうなのですが……なんだかちょっと落ち着かなくて」
そう告げる彼女の足は所在なさげに指同士を擦りつつモジモジと落ち着かない様子を示している。
自らの身を守るようにお盆を抱きながら、しきりに何も無いであろう周りを見渡していた。
明らかに何かを気にしている様子。ここには俺達二人以外誰も居ない。となればもしかして……
「もしかして……初めての場所で緊張してる?」
「……はい。情けない話ですけれど」
言い当てられたことに少しだけ驚きを示したシエルだったが、すぐに諦めた笑顔で事実を認めた。
「これまでずっとお屋敷で働いて来ましたが初めての寮生活。先程の食堂やお風呂でも知らない人ばかりで、私も少し気圧されてしまったのかも知れません」
そう言って困ったように笑うシエル。
部屋割りから就寝直前の今に至るまで。当然のことながらそれまでの間に食事やお風呂に出かけたりもした。
我が屋敷よりも遥かに広い食堂と浴室。多くの子供達を収容するだけあってか規模も人数も中々のもので、その多さと元気さには俺も随分圧倒されたものだ。
幸いだったのはマティが居てくれたことだろう。彼女は人の多さに慣れているのかスイスイと俺達を先導し、お風呂もシエルとともに入ってくれたお陰でどうにかなったが、その心中は不安だったはずだ。
今もその目には不安と疲れが見える。
きっとシエルは人混みが嫌い……いや、街では平気だったことからプライベートなところで人が多くいるのに慣れていないのだろう。
徐々に慣れていくしか解決方法はないのだが流石に『頑張って』で放り出すような主人では格好悪いと、俺は自ら座っていた椅子を持ち上げて彼女と向かい合う。
「シエル、こっちおいで」
「えっ?はい……こうですか?」
俺の呼びかけに一歩近づいてくるシエル。
膝と膝を突き合わせた俺達は座っている関係上、彼女が俺を見下ろす形になってしまうのを『違う』と首を振って否定する。
「違う違う。こっち、こっちおいで」
「えっ……!?それは……脚に、ですか?」
再びの呼びかけで示したのは俺の脚。太ももをポンポンと叩くことで理解したのだろう。驚きの表情で問いかける彼女に今度は首を縦に振る。
「そう。ボクを椅子にして座って」
「えっ!?でも……それは……」
「ほら、早く」
「~~~!!し、失礼します!」
俺の上に乗ることに抵抗があるのか何度も逡巡の末にようやく、意を決したように膝の上に乗ってくれた。
それでも僅かな抵抗か。体重を掛けさせまいとしているのか机に手を乗せて必死に力を込めている姿に後ろからギュッと抱きしめると、驚きに手を上げて彼女の体重が丸々俺の脚に掛かってくる。
「ひゃぁっ!!ご、ご主人さま!」
「そんないじらしい抵抗してないで。普通に座って」
「でも……。お、重くないですか?」
「全然。かなり軽いよ」
実際全体重が乗っているにも関わらず全く苦にならないほど軽い。
それは年齢的な問題も大きいだろう。しかしそれ以上に今感じる重さは、普段俺の為に頑張ってくれている末の身体の絞りにも思えた。
「ですがこれは……!恥ずかしいです……!」
「そう?誰の目もないし、普段一緒にお風呂入ってるのに比べたら大したことないんじゃない?」
「そうですけど……そうですけど違うのです!うぅ……」
俺の膝に乗った上、後から抱きしめられるシエル。
抗議の姿勢を示したが俺が離す気配がないと悟るや小さく縮こまってしまった。
ギュッと抱きしめる俺に緊張しつつも受け入れるシエル。そんな彼女の頭にそっと手を触れ、優しい口調で語りかける。
「大丈夫だよシエル。安心して」
「ご主人さま……」
「何があってもボクがシエルを守るから。初めて会った日のことを覚えてる?」
「……忘れるわけがありません」
初めて会った日。俺がこの世界に来て、シエルが牢に繋がれていたあの日。
「例えシエルが罪に問われても、ボクはずっと味方だから。何があっても助けるよ」
「さすがに罪に問われた私を助けるのは無謀とも言えるのでは……」
「それでもだよ。例えボクが罪に問われるとしても。従者の罪は主人の罪だから」
「……ありがとうございます」
自ら言い聞かせるように彼女を慰める。
日本では、神山の家では残された妹が深く悲しんだだろう。兄二人に加え自分も消えてしまった。
そして何の奇跡か訪れた二度目の人生。まるで妹のように思う彼女を今度こそ悲しませてはならないと固く誓う。
ふと、ギュッと回していた俺の手に温かな彼女の手がそっと触れた。
安心するように身体を預けてくれるシエル。二人で一つの椅子に座りながら、彼女はチラリと伺うように俺を見た。
「でしたら……この甘えのついでにもう一つ我儘を言ってもかまいませんか?」
「もちろん。なんでも言って」
「ありがとうございます……。では……今日は……今日だけは一緒のベッドで寝ても構わないでしょうか?」
「えっ……」
ほんの少しだけ伏し目がちに、しかしそれを振り切って真っ直ぐ俺の目を見ての問いにほんの少しだけ息が詰まった。
屋敷では確かに一緒に寝ていた。それは部屋がなかったから。彼女が知らない土地で不安だったから。まるであの最初の日を思い出すかのようなお願いに、あの日の俺の選択は正しかったのだと穏やかな笑みが溢れる。
「ダメ、でしょうか?」
「いいや、もちろんいいよ。そろそろ消灯時間だし早速寝ようか」
「!!はい!すぐに準備いたしますねっ!」
彼女のお願いを俺が断るなんてあるわけがなく。
ささやかな願いを受け入れるやいなやパァッと表情が明るくなって飛び降りるように寝る準備を始めていく。
右へ左へ。彼女のそんなテキパキと仕事をする表情は先程のような不安の色は一切見えず、俺は安心して寝ようとするシエルを受け入れるのであった。
2024.12.16 修正