051.開放感とサプライズの相乗効果
「ふ~! やぁっと終わったわぁ~!!」
バタン!
机に突っ伏すような威勢のいい音とともに鬱憤を晴らすかのような安堵の声が響き渡る。
それは安堵の叫び。
これまでひたすら目の前の難題に耐えてきた彼女が全てを終え、、部屋中の空気を震わせる。
身体全体で一本の線を作るように大きく伸びをしたマティは喜びに打ち震えている。
退治した憎き敵のようにテーブルの端に追いやられるはこれまで戦ったノートたち。山のようにあった課題はどれも一つの抜けもなく解きつくされ、正誤はともかくとしてその努力からなる積み上げられた課題の山は、間違いなく彼女自身の努力の証明であった。
朝からマティが大量の紙を抱えてやってきて10時間ほど。
普通の学校ではなかなかありえないほど長時間の勉強。ところどころ休憩を挟んだとはいえそれほどの長時間集中が持ち、挙句の果てには課題を全て終わらしたのには本当に驚いた。
当然、課題を全てやりきった彼女はまっさきに褒め称えられるべきだろう。
俺でさえ一日で全解きは苦労するものだ。神山式のスパルタ教育を受けていないにも関わらず長く集中力を発揮したことに俺は舌を巻いた。
けれど、まだ褒められるべき人間は二人いる。
「つ……つかれた…………」
その内の一人は俺だ。
自分のことだから遠慮するべきところだが、さすがに今日は疲れた。
8~9割が埋められていた冊子。それを昼前には終えて「全部の課題が終わった!」と安堵すれば、山の中からドンドン出てくる未記入の冊子。
どうやら俺たちが朝ああだこうだ言いながらやっていたのはまだまだ前菜だったのだ。安堵からの急落という精神的ダメージを負いながら残りの課題を全てやっつける頃には太陽がそろそろ沈む時間となってしまっていた。
わかりやすいように噛み砕いた解説を一つ一つ、全てやり終えるまでつきっきりで教えたのだから少しくらいねぎらいの言葉があってもいいだろう。
「スタン、ありがとね! シエルちゃんも!………あれ、シエルちゃんは?」
「シエルはついさっき飲み物下げに行ったよ……」
早速マティから投げられるねぎらいの言葉に幾分か心が軽くなっていると、彼女もシエルが居ないことに気づいたようだ。
シエルは課題が終わる直前に飲みきっていた飲み物を下げに部屋から出ていった。声もかけてた筈なのに気づかなかったのは、それだけ集中していたことだろう。
褒められるべき一人はもちろんシエルだ。
彼女は俺ほど解説に参加しなかったが、それでも説明に詰まったところにはすかさず入ってきて、彼女なりの噛み砕き方でマティに教えてくれた。
そして何より、飲み物や食事など、身の回りの事は全て任せられたのは大きいだろう。昼食は簡単なサンドイッチを作ってくれたし、オヤツにマドレーヌまで焼いてくれた。
日本の何処かの界隈ではメシスタントという存在が居るらしいのだが、そのありがたみをよく知ることができた一日だった。
「そう。ま、すぐ戻ってくるでしょ。それにしても、集中すると一日ってこんなに短いのね。ついさっきお昼食べてたのにもうこんな時間だわ」
「そう……だね」
マティの隣で机に突っ伏しながら顔を横に向けると窓から外の様子が見て取れる。
彼女が来た時は太陽もまだ寝起きの状態だったが、今となっては傾いて逢魔ヶ時と呼ぶにふさわしい赤と青のコントラストが美しい空になっていた。
なんとなく脳裏に浮かぶは前世で遊び回った今くらいの年の記憶。あの時もこんな空の下で妹を背負って帰ったことを思い出す。
ボーっと二人して何も言わず外の様子を眺めていると、ふとコンコンと部屋の扉がノックされて俺たちの意識も現実へと引き戻される。
「失礼するよ。シエルちゃんから聞いたけど、課題全部終わらせたって?」
「っ……!パパッ!!」
ゆっくりと扉が開いて現れたのはマティと同じ髪色の、メガネを掛けた男性……彼女の父親だった。
彼が姿を現すと同時にマティも勢いよく飛び出していってその胸の中へとボフンと埋もれていく。
「パパ!あたし課題全部終わらせたの! あれ全部!」
「あぁ、そうみたいだね。凄いじゃないかマティ」
「うんっ!!」
そう言って存分に撫でられているマティは、まさしく甘えたい盛りの子供のよう。
……いや、実際にそうなんだよな。シエルや王女二人が変に精神年齢高すぎるだけであれが普通なんだ。
「ご主人さまもお疲れ様です」
「あぁ、シエルも今日はありがとね」
マティ父に続いて入ってくるのは俺が最も信頼する従者、シエル。
すかさず手渡してくれたコップをおもいきり傾けると口の中に果実水の甘さが目一杯広がる。
「マティ、それにしても昼前には終わるって言ってたのに随分とかかったね」
「そっ……それは………。昼前には終わると思ったんだけど、できてなかった冊子がドンドン出てきちゃって……ごめんなさい」
「ははっ、そんなことだろうと思ったよ」
予定が大幅に狂った問いをマティ父が向けると、彼女は怯んだ様子を見せながらも正直に答えていく。
さすがのマティも父には素直で通しているようだ。
しかし彼は何も怒った様子も見せずにただにこやかにマティの頭を撫でていく。
「いや、怒ってるわけじゃないんだよ。 ただ変な時間に終わったからこれからどうしようかと思ってね」
「どうって?」
どう……とはなんだろうか。確かに遅くなりはしたが普通に馬車で帰ってそのまま終わりでは?
マティも疑問符を浮かべながら父の顔を見上げている。
「やっぱりせっかくの夏休みなのだから、これからママを呼んでお泊まり会にでもしようかと思ってるんだけど、どう思う?」
「お泊まり会!?パパも!?」
「あぁ、もちろん」
「やったぁっ!パパ大好き!!」
まもなく夜。今から帰るとなれば随分と遅くなるだろう。
マティは目を輝かせて完全に乗り気だ。もはや先日王女様でさえお泊りになったこのお家。マティの一人二人泊まることには何も思うことはない。
「スタン君もいいかい?」
「えぇ、構いませんよ」
「そっか。じゃあ早速みんなでお風呂入っておいで」
「…………え゛」
別に泊まる泊まらないはさして問題はない。
けれどおもむろに突きつけられた提案に、思わず声にならない声を上げてしまった。
お風呂。それは裸の付き合い。
明らかに彼の視線は俺達3人を捉えていて、"みんな"の対象に俺も入っていることが見て取れる。
「わかったっ!スタン!はやくいくわよ!!」
「えっと……一応聞くけど、どこに?」
「そんなのお風呂に決まっているじゃない!」
「――――それは予想してなかったなぁ……」
あまりにも乗り気なマティの言葉に俺は一歩、また一歩と後退りする。
精神は肉体に引っ張られるとはよく言ったものだ。
最初こそシエルと一緒にお風呂入ることには何の感情も持っていなかったが、段々とその行動にも戸惑いが生まれて今では一緒に入ることはなくなった。
もちろん先日の王女様のお泊りでは俺だけ時間をズラしてのお風呂となった。
特にラシェルに抱きしめられてからは神山の自覚がどんどん薄くなるのを感じ、彼女たちとの距離感を今一度考えるようになっている。
そんななかでのこれだ。
あまりにも乗り気なマティ。その目には俺と一緒に入ることなんかどうということはないことが伺える。
シエルとは比較的まだいい。一緒に寝ることは今もしてるし家族の一員という感覚だ。しかしマティは他所様の子。一緒となると俺のほうが戸惑ってしまう。
「何してるのっ!ほら、早くっ!!」
「わっ!ちょ……!!」
「マティナール様!?」
そんな俺の思いなんて知る由もない彼女は課題の終わった開放感とお泊りの嬉しさの相乗効果でハイになり、おもむろに俺とシエル二人の手を掴んで部屋を出ていく。
そんなこんなで突然始まったお泊り会。それはまさかのお風呂から幕を開くのであった。
2024.12.05 修正