025.願いの行方
「望み……ねぇ…………」
夜の大合唱が開催されている窓の外。虫の音をBGMに1人小さく呟く。
窓辺に椅子を持って来て座り、背もたれを腕で抱くように寄り掛かりながら二本の指でぶら下げるのはたった一枚の紙。
何の変哲のない一枚の紙だ。
それ自体に魔法が掛かった魔道具というわけでもなく、手順通りに折れば紙飛行機に。側面を指で這わせれば多少痛みを伴う凶器になりうるただの紙。
けれどそれはなによりも重く、そして力を持った紙だった。
上の方にタイトルとして書かれた文字は【誓約書】。下に用意された空欄はまっさらの、何でも願いを叶えてくれる魔法の紙だ。
思い出されるのは昼のこと。
突然我が家にやってきた謎の人物――――その正体はこの国の王女様であり、先日の誘拐騒ぎにも関係した重要人物だった。
経緯の説明と謝罪とともに渡されたのがこの紙、【誓約書】。今回の件、巻き込まれたせめてものお詫びとして何でも願いを叶えるとのことだった。
もちろん何でもといっても彼女の身に余る願いは不可能である。今すぐ王様になるとか戦を仕掛けるとか国宝を譲り受けるなどは無理だと通告された。
さすがに王女はそこまで万能じゃない。けれど、王族としての責任として出来得る限りの願いを叶えてくれようという意思も感じられた。
きっと彼女は当事者として筋を通しにここまで来たのだろう。紙の最後に書かれている王女様のサインがその大きさを物語る。
彼女の権力が如何程かは計り知れないが、格式張った用紙からいかに大変なものかは想像に難くない。
これはまさしく"爆弾"。ここに記入する文字一つで今後の人生を左右しかねないもの。
そんな”爆弾”を手渡してきた彼女は、あの後早々に屋敷を後にしてしまった。
「これから改めてお父様に頭を下げなければなりません」と複雑な笑みで去っていく姿が強く記憶に残っている。
「そんなもの急に言われてもねぇ……」
あまりにも急な提案だったから答えを出す時間も猶予をつけてもらうことができた。猶予といっても24時間。つまり彼女が再び答えを問うのは明日の昼だ。
マティもまた、王女様同時に帰ってしまった。
彼女は紙を渡されて早々に願いを書いて提出している。内容を見た王女様がかなり驚いていたが、ついぞ聞き出すことは叶わなかった。
そんなこんなで1人での考え事。フラフラと椅子をバランスよく揺らしていると、ふと扉のノックされる音に意識を向ける。
「ご主人さま、今よろしいでしょうか」
「シエルか。どうかしたの?」
「お休み前のホットミルクをお持ちしました」
そう言って入ってくる我が従者シエル。
手慣れた手つきで扉を開けたもう片方の手には湯気立つカップが2つ乗せられていた。きっと俺が悩んでいる事を慮ってくれたのだろう。
「何かいいお願いは思いつきましたか?」
「全然。何も浮かばなくて頭パンクしそう」
「王女様もおっしゃってました通り、お金や宝石などでいいのではないのでしょうか?」
「お金かぁ……」
王女様はこの紙を渡した時、例としてそれらを上げていた。
確かに一般的な願いとしては妥当だし、王家としても額次第だが準備もできるだろう。
父も母も好きにしていいと言ってくれはいたが、やはり何をするにも万能なお金が一番いいのだろうか。
「う~ん…………」
「本当に頭がパンクする前に少しリラックスしませんか?ミルクも暖かくしておりますよ」
「……そうだね。そうしようか」
あまり考えすぎても仕方ない。リセットも大事だ。
彼女は俺の背後にあるテーブルでカチャカチャと準備をし始め、俺もギコギコと揺らしていた椅子を戻して座り直す。
「ん……?そのミルクに入れてるものって?」
「こちらは砂糖、それと花の蜜です。甘くて美味しいですよ」
そう言ってテーブルにコトリと置かれる真っ白なカップ。
淹れたてのように湯気立つ暖かさが、窓から吹き込む風によって寒くなってきた身体をほんのり温める。
「おぉ……美味しい」
「よかったぁ。……昔お母さんに教わったんです。リラックスする時はこうやって甘くしたミルクがてきめんだって」
ミルクの暖かさ、そしてほのかに広がる甘さが凝り固まっていた頭をゆっくりと解きほぐしていく。
もう一度口をつけると段々と肩の力が抜けていき、知らぬ間に肩ひじ張っていたことに気がつく。
「私も昔、勉強してるときにお母さんが作ってくれたんです。これ飲んでぐっすり寝たらすごくスッキリして試験に望めたんです」
彼女の言葉とともに思い出すのは日本での記憶。
慶一郎がまだスタンくらいの年齢だった頃、勉強が本格化し頭を悩ませていた時、母がこうしてホットミルクを作ってくれた。
それを飲んで頭をほぐし、もう一度勉強に手をつけたらスルスルと解けた記憶がある。
もう随分と前のことだ。
それもいつかはブラックコーヒーに代わり、知らぬうちに自分を追い込んでいたのかもしれない。
「シエルは何か叶えたい願いってある?」
「私ですか?過ぎた願いは身を滅ぼすと聞きますし……うぅん……」
しまった、困らせてしまっただろうか。
俺と同じミルクを口にしていた彼女はカップを机に置き、腕を組んで悩みにふけってしまう。
2度、3度と思い悩むように「うぅん」と口にした彼女だったが、そのうちふと思いついたのか「あっ」と声を上げ始める。
「思いついた?」
「はい。ささやかですが、私にとっては叶えたい願いが一つ」
「もしかして貴族への復権とか?」
予想を立てる俺の言葉を彼女はそっと首を横に振るう。
「それは……」とシエルは椅子に座る俺の前で膝を曲げる。
まるで忠誠を誓うように膝をつけながら、俺の手を取り微笑みを向けた。
「私はずっとご主人さまに仕えていたいです。大人になってもこうしてご主人さまの側に立ち、お飲み物を入れて差し上げたい」
「シエル……」
純粋で真っ直ぐな彼女の願いだった。
俗世的な金や権力ではない、ひたすらに人を思う気持ち。真っ直ぐな視線につい呆然としてしまう俺に、彼女は肩を持ち紙へと向き直させる。
「私のお願いは気にしなくて構いません。ご主人さまが叶えたいことでいいと思いますよ。他の誰かが言った言葉ではなく、自分の好きなことで」
「自分が叶えたいこと……」
今一度願いについて考える。
俺の願いは日本への道筋を見つけること。帰ることは叶わなくても、せめて残してきた妹へ一言伝えたい。
けれど当然そんなこと願ったところで叶うわけがない。だが、叶わなくても何か足がかりくらいはつかめるのではないだろうか。この世界には魔法がある。魔道具がある。ピンポイントでなくともヒントくらいは見つけられるかもしれない。
「"俺"の叶えたい願いは――――」
「スタンちゃ~ん。 いるかしら~?」
「――――お母さん?」
ふと、無意識に思いを口に開きかけたところで、ノックの音とともに母の声が聞こえてきた。
これまでの思考を中断して目を向けると「あらいた」といつもの調子で近づいてくる母。その手にはなにやら封筒が握られている。
「お茶中にごめんなさいねぇ。昼に渡すのすっかり忘れちゃってて。はい、スタンちゃんにお届け物。……受け取りたくないかもしれないけど」
「届け物?」
手にしたのは一つの封筒だった。
サイズ的にA4用紙が収められる大きさ。ズッシリと重く、本でも入っているんじゃないかと思うほど。
『受け取りたくないかも』という言葉を不安に思いつつも、いつの間にかシエルが用意してくれていたペーパーナイフを使い、慣れた手つきで開けていく。
そこに入っていたのは大量の紙だった。それも随分厚く、枚数なんて数えていられないほど。一番手前の紙を選んで中身を見てみれば、表紙なのか『問題集』と記載されている。
「これはもしかして…………」
「もちろん学校の課題よ!入学前に送るって冬に合格通知と一緒に連絡来てたでしょう?」
――――記憶にない合格通知だった。
きっと冬、という季節から察するに俺がこの世界にやって来る前の話だろう。
どうやらこの世界には小学校入学前から課題があるらしい。
その上驚くべきはその枚数。この量はもはや日本の学生時代を彷彿とさせる。夏休みの宿題クラス……もしかしたらそれ以上かも知れない。
「うっわ……面倒くさそう……」
チラリと適当に数枚取って見てみれば非常に面倒くさそうな問題のオンパレードだった。
内容は小学校入学レベル……だがこれは入試レベルだ。
図形を別視点で見た時の形、鏡を置いた時の見え方の違いなど、知識を問うものではなく知恵を絞るようなものばかり。
どうやら神山から抜け出して受験勉強から開放されても宿題からは開放されないらしい。
「はぁ……」
「頑張りなさい。入学まで時間あるからって放っておいたらすぐ期限が来ちゃうわよ」
「……わかった。シエルの分も届いてるんだよね?大変だけど、お互い頑張ろう」
「えっ……?私ですか!?」
この部屋にはないがシエルの分の宿題も別室にある。
そう思って呼びかけたはいいが、当の彼女はまさか言われるとは思っていなかった様子だ。
それはまるで自分は対象ではないと言っているような。どういうことかと母に問いかける。
「お母さん、シエルの課題はないの?今年入学するんでしょ?」
「なに言ってるのスタンちゃん。学校は貴族の子たちだけが通うのよ。メイドさんは家でお留守番って当たり前じゃない」
「えっ…………」
まさか思いもよらぬ事実に言葉を失ってしまう。
シエルは学校に行かない……いや、行けないのか?
「でもシエルも貴族だよね?学校にも行けるんじゃ?」
「そうね……前の家のままだったら行くこともできたでしょう。でもあんなことがあって居られなくなって……。この子の家は没落済み。もう学校へ行く資格がないのよ」
「そんな……」
近く行くことになる学校。そこには彼女も一緒だと思っていた。
たとえ学校が違っても、また別の場所で学ぶ機会が用意されていると思っていた。それがまさか行く資格さえないだなんて思ってもみなかった。
「なら……ならメイドとして学校でも側に仕えるとかは!?」
「私が子供の頃はその制度があったわね。それも子供が勉強しなくなるってことでなくなったわ」
考えうる可能性を提示するも、その全てがことごとくお母さんの手によって撃ち落とされる。
肩を落としてシエルを見ると所在なさげに視線を揺らしていた。
「……じゃあ、シエルは学校行けないの?」
「そうなるわね。スタンちゃんにとっては寂しいかもだけど……」
そうだった。
ここは日本と違う。教育を受けさせる義務とか言って子供全員が学校に行くことなんてないんだ。
なんて初歩的な勘違いをしていたのだろう。前シエルへ『一緒に行こう』と言ったとき微妙な表情をしていたのは行けないことが分かっていたから……
「どうにか、できないの?」
「こればっかりはねぇ。決まりごとだから……」
「決まりごと……」
「あ、でも! 街では普通の子たちにも勉強を教えてるって人もいるみたいよ。そういうところに行くのもいいかもしれないわね」
「それじゃ」と、軽い調子のまま去っていくお母さん。
そして取り残された俺とシエル。シエルは申し訳無さそうな顔をして俺を見つめている。
「すみませんご主人さま。早く言っておけば良かったですね。でも大丈夫です!ご主人さまは聡明ですし、私の助けなんかなくっても――――」
「シエルはさ、同じ学校に行きたい?」
「――――えっ?」
俺は彼女の言葉に被せるよう問いかける。
決まりごとのせいで学校に通えないか……そっか……。
「どう? シエル」
「もちろん行きたいです。私はご主人さま専属メイドですし、それに私の願いは……」
彼女の願い。それは『ずっと俺の側に立つ』こと。
さっき彼女が言っていた言葉だ。たかが学校とも取れるが、彼女の願いはそれさえも許容しない。
シエルも行きたいのなら、俺の考えは決まった。ならこれしか無いだろう。今までさんざん悩んでいた一枚の紙。ここへ書くことと言えば――――
「じゃあ、”コレ”に頼るしかないね」
「……! ご主人さま!それって……!! ま、待ってください!!」
スッと机の端から滑り持ち上げたのは一枚の神。
彼女もそれを見てすぐに何を意図しているのか気がついたのだろう。
けれどもう遅い。俺は飛び込んで紙を奪おうとしてくる彼女をヒラリと躱し、紙に文字を書いていく
「あぁ…………」
「ふふふ――――」
書いた。書いてしまった。
鉛筆やシャーペンのように消せるペンではないからもう引き返せない。
諦めたように脱力する彼女をよそに、俺は満足気に一人笑うのであった。
2024.11.09 修正