019.親子愛
「すまなかった――――」
暖かな日差しが降り注ぐのどかな日中。
彼の言葉はまっすぐに。そして真摯に俺へと突きつけられた。
一点の淀みもなく向けられた目からの謝罪。
屋敷に戻ろうと思ったら呼び止められて、どんな要件かと思いきや謝罪の一言。
まさか思いもしなかったその言葉に、俺は意味を咀嚼することができずただ呆然とする。
「ぇっ……あっ……なん、で……」
頭を下げた父を目にした俺は、言葉を失い声にならない声を発する。
父という存在は……神山の父はこんなものではなかった。
彼の辞書に謝罪という文字は無く、否定されたらそれ以上の武器を相手に突きつける神山の父。
それは俺が見てきた大人たちも類に漏れず、子供相手にしてももってのほか。
父親が頭を下げる姿を俺は見たことがなかった。神山の父と彼の姿はあまりに乖離していたから――――。
確かに殴らないという点からして向こうの父親と彼とは明確な差があった。
しかしそれも彼の機嫌次第だからと。機嫌が悪い時には手が出てくるだろう。そんな思いもどこかであった。
過去俺が失敗した日にはカミング家の家訓を持ち出して折檻することも1度や2度ではない。
でも……今日になっても彼は一切そんな素振りを見せなかった。
むしろ俺を一心に心配し、こうして頭まで下げてくれている。その姿に”こうあるべき”という父親としての像が崩れかける音がする。
「昨日の一件、城下町は安全だろうと過信して2人だけで送り出した私の責任だ。ヴィジー……メイド長を連れていけばこんなことにはならなかったはずなのに」
「――――っ! い、いや!頭を上げてお父さん! ボクは……ボクもマティも大した怪我もなかったんだから!」
まさか小学校に入るかどうかの幼児に頭を下げるなんて思いもしておらず、ようやく意識を取り戻した俺は慌てて彼の頭を上げさせる。
元はといえば俺が迂闊に路地に近づいてロザリアを拾ったのが失敗だったんだ。彼のせいなんてひとつもない。
「本当は学校入学も控えた2人に街との往復を慣れてもらおうと思っていたが……いや、これはただの言い訳だな。件の事件については各方面に話を通してある。カミング家の名にかけて、なんとしてでも犯人を捕まえてみせよう」
「うん、捕まると……いいけど……」
犯人に関しては捕まるとか思ってもいないしどうでもいい。
なんていったって俺も顔を見ておらず捕まった場所さえどこだかもわからない。
犬に噛まれた……にしては随分と物騒だが、大きな怪我もなかったし仕方ないと片付けようと思っていた。
『神山家たるもの、人に心を動かされてははならない。一時の感情に虚を写さず、曇りなき瞳で真実を見極めよ』
幼い頃より散々聞かされた言葉を一つ思い出す。
昨日の事件について思わないところがなかったわけではない。マティが連れ去られて怖い目にあって、怪我までさせたのだから腸煮えくり返る思いだってある。
しかし感情に流されるわけにはいかなかった。怨嗟、私怨、遺恨。挙げればかなりの言葉が浮かんでくるが、心を動かされて自らの判断を鈍らせてはならない。いずれ神山家を継ぐ者としてそう口々に言われて、無意識に自分でも言い聞かせてきた。
「だから……えっとだな……私が言いたいことはそうではなくて……」
「お父さん?」
神山の記憶を掘り起こしながらフツフツと湧き上がる怒りを抑えて顔を上げると、父は何やら唸りながら頭をかいて言葉に迷っているようだった。
「だから大人に任せて……いいや、スタンは忘れて……これも違う」
言葉を言いかけては止め、またも口を開いたと思いきや途中で終わり。
自らの思いを口にするのに苦慮している父。一体どうしたのだろうと頭に疑問符を浮かべその姿を見守っていると、『ええい!飾りなんているものかっ!』とまるでこれまでの頑張りを無に帰するような諦めの声が聞こえてきた。
そんな言葉の装飾を諦めた彼は俺の前でしゃがみ込み、優しい表情で頭にそっと手を触れる。
「だから……よく頑張ったな。マティちゃんを守って偉いぞ。スタン」
「ぁっ――――」
優しくて温かい、父の笑みと手。
彼の言葉は何の飾り気もないただの言葉だった。けれどひたすら真っすぐな思いが伝わってきて、その微笑みと言葉に目と鼻の奥がツンと熱くなる。
『神山家たるもの、そのくらいできて当然だ。自惚れるな』
俺と父との会話にはいつもそんな言葉が付きまとっていた。
テストで100点取った日も。制作物で賞をもらった日も。迷子の子供を助けて感謝状をもらった日も。
全てにおいて父から認められることはなかった。けれど今こうして撫でられて、褒められて、同一人物ではないのに諦めていた言葉を父から投げられたことで俺の瞳からは自然と涙がこぼれ出る。
「ご主人さま!?」
「っ……!? スタン!?どうした!?本当はどこか怪我してたのか!?」
その涙を目にした2人は驚いて目を丸くしてくれるが決して怪我なわけではない。
なんでもないと告げると少し心配そうな顔を残すもののなんとか下がってくれた。
「……ねぇ、お父さん」
「なんだい?」
「ボク……本当にお父さんの息子で……いいのかな?」
「――――」
俺の思い切った質問に彼は驚いた表情を見せる。
真意は伝わっただろうか。彼も親だ。"スタン"の中身が変わってしまったことなんて気づいているだろう。
それが性格だけなのか、中身全てが変わった事を把握しているのか、どこまで気付いているかわからない。
けれど本当に今の俺で良いのか。そう思って問いかけると、お父さんはフッと笑ってもう一度優しく撫でてくれた。
「当然だよ。スタンがどんなに変わってしまっても大事な息子なことには変わりないさ」
「…………うん」
優しくて、子供であれど真摯に相対してくれるお父さん。
撫でてくれるその手は大きくて温かい。これが父の手だと、まさしく夢にまで見た父親の姿だと。俺は頭を下げてグシャグシャな今の顔を見せないようにする。
お父さんにはとうにバレてしまっているだろう。けれど何も言わないでいてくれるその優しさに身体を預けていると、ふと遠くからガタゴトと何かが近づいてくる音がして思わず全員そちらを注目する。
「ご主人さま、旦那様。何か近づいて……馬車?お客様でしょうか?」
「どうだろう……。スタン、こっちへ来なさい」
どうやら父も近づいてくる音の正体に心当たりは無いようだ。
地面に揺れる音を鳴らしながら迷いなく近づいてくる馬車。警戒の色を醸し出しながら誘導してくれた彼の後ろで俺は目元に溜まった涙を拭い来訪してくる馬車を見る。
「お父さん、誰か来る予定でもあった?」
「いや、それはないが……。マティちゃんの馬車……でもないな。いや、あれはまさか――――」
彼が否定したようにあれはマティの馬車ではない。遠目からはその可能性も考えられたが馬の色が違う。
マティたちの馬は鹿毛。しかし近づいてくる馬は芦毛だ。その時点でマティが忘れ物して戻ってきた可能性は捨て去られる。
気になったのは父が最後に告げた言葉。
お父さんは何か心当たりがあるみたいだがジッと近づいてくる馬車を見ているだけで口を開くことはない。
次第に近づいてきたそれは俺たちの目の前に止まり、その扉がゆっくりと開き出した。
「っ――――!」
開かれる扉に先程の感傷を全て吹き飛ばして警戒の色を強めていく。
まさか昨日の街で俺達を襲った一味だろうか。計画が失敗した腹いせだろうか。
最悪の状況を想定しながらいつでもシエルを連れて逃げられるように体勢を整える。
しかし現実は常に、予想の遥か斜め上を行くものだった――――
「ス・タ・ンちゃ~ん!!」
「えっ――――うわぁっ!?!?」
「ご主人さま!?」
――――それはまさしく電光石火の一撃だった。
扉が開いた瞬間飛び出した影は一瞬のうちに俺の眼の前まで迫ってきて、俺が対応する間もなく直後視界が大きく揺れた。
おそらく父もシエルもその姿を目で追うことはできなかっただろう。それほどまで高速の一撃をモロに喰らった俺は衝撃のままに後方へと吹き飛ばされる。
魔物。
それが飛ばされながら第一に浮かんだ可能性だった。
一味が腹いせに馬車から魔物をけしかけてきたのか。ならば次に考えるのは逃げること。
俺は吹き飛ばされながら着地の体勢を取ろうとして――――俺の身体が何者かに抱きとめられていることに気がついた。
勢いのままに飛ばされれば倒れて頭の一つでも打つのが普通だが、現実はそうはならず柔らかな感触とともに高速で動くはずの世界が静止していた。
何故吹き飛ばされたはずなのに衝撃もなく雲一つない晴天を見上げているのか。それが真下に居る者のお陰だと気づくにはかなりの時間を要してしまった。
身体全体で感じる柔らかな感触。そして突き飛ばされたのに怪我どころか痛みの一つもなかった理由、全ては俺を抱いて下敷きになっている女性……ダークブロンドの髪を持つ大人の女性によって肩代わりされていたからだった。
「スタンちゃん!大丈夫だった!?先週事故に遭ったって聞いてすっ飛んできたんだけど!!」
「え、え~っと……」
真下から心配するような声をかける見目麗しい女性。
ダークブロンドの髪と翠の瞳。誰がどう見ても美人と答えるであろう彼女は俺の名を呼びながらギュウと力いっぱい抱きしめてくる。
…………痛い。
「どちらさま、です?」
「っ……!?スタンちゃん!?しばらく会えなかったからって反抗期!?そんな反抗期でも耐え……耐え……ダメ!辛いっ!!」
どうやら俺の応対は大失敗だったみたいだ。
ただでさえ抱きしめられて痛かったのが更に力が強くなってきて命の危機だ。
「久しぶりのスタンちゃんの匂い!おひさまみたいにいい匂い!もうっ、ずっとずっと欠乏症だったのよ~!!」
「~~~~~!!」
昨日以上の命の危機だ。
……さすがにそれは冗談だが、必死に女性の身体をタップしても力が緩まる気配はない。
だんだん呼吸が辛くなっていく。このまま4度目の気絶となってしまうのだろうか。必死に手と足を動かしていると、不意に俺達の間に影が差した。
「ほら、そのへんにしてあげなさい。抱きしめすぎてスタンが痛がってるよ」
「あらっ!ごめんねスタンちゃん!久しぶりに会えた嬉しさでつい……!」
助けてくれたのは父だった。
頭上から父の声が降り注いできてようやく拘束から解放してくれる女性。
息を整えながら見上げると太陽を遮るように立つ父が歓びつつも複雑な笑顔を浮かべている。
「まったく、一週間後だって言ってたのにもう帰ってきたんだね……お母さん」
呆れと諦め、そして「やっぱりか」と様々な感情をごちゃ混ぜにしながら告げてくるのは、予想すらしていなかったまさかの名だった。
「お母さん……」
ダークブロンドの髪を持つ美女。
彼女は"スタン"の母親だった。言われれば似てるとも言えなくもない。来るとも話に聞いていた。
しかしもっと先だと聞いていた。まさかこのタイミングとは思ってもおらずパチクリとした目で母を見る。
「だって愛息子が事故に遭ったのよ!急がないわけないじゃない!大丈夫だった!?怪我してない?お腹すいてない?お母さんいなくって寂しくて泣いちゃって……何この涙の痕!?誰に泣かされたの!?お母さんがとっちめてあげる!!」
「――――」
まるで弾幕のように張られる質問の数々に絶句するほかない。
ふと泣かされた犯人に目を向けると目を泳がせながら頬をかいていていた。
事故に遭ったとは一瞬昨日の今日で来たのかと思ったが、先週俺がこの世界にやってきた件だと理解する。
母は脇を掴んで俺ごと立ち上がり、地面に座りながら俺を膝の上に乗せてもう一度ギュッと抱きしめた。
「何にせよ……生きていてよかったわ」
「……お母さん」
父の奨励にはじまり、続いて母からの抱擁に俺はその身を彼女に預ける。
"スタン"ではない自分には過ぎたる温もり。けれど今だけはその温もりの享受をただ受け入れる。
さらに母はここに居るもう一人の人物に気がついたのだろう。俺の背中越しに彼女の姿を発見した母は「あら」と口を開いてその名を声に出す。
「もしかしてあなたがシエルちゃん? 最近メイドになったっていう……」
「ぇっ……あっ……。はい!お世話になっております!シエルです!!」
背を向けていても思い切り頭を下げたのが見て取れる。
後方から聞こえるその声に「いい子じゃない」とウンウンと満足げに首を縦に振った母は抱きしめていた俺ごと立ち上がってシエルに手招きする。
「シエルちゃん、こっちにいらっしゃい」
「は、はい………」
「……捕まえた」
「えっ――――」
それは一瞬のことだっただろう。
母の言葉に従うように近くまで近づいた彼女の手首には母の手ががっしりと握られており、気付けば俺の手首にもしっかりと握られていた。
まさに神速。いつ手首が掴まれたかなんて全然わからなかった。俺とシエルの腕をしっかり握った母はニッコリと笑いながら屋敷に向かって一歩を踏み出す。
「さ!愛息子と可愛いメイドちゃんを捕まえたことだし、お風呂行きましょお風呂!一緒に背中流しっこしましょ!!」
「え……ちょっと!? お母さん!?」
「やぁねぇさっきからお母さんだなんて。前みたいにママって呼んでもいいのよ? うふふふ~!」
まさにマイペース。まさに猪突猛進。
俺とシエルを引きずった母はまっすぐに浴室へ。
当然俺たちはその突然の行動に為す術がなく、振り向きざまに見える父の困ったような笑みがただただ印象に残るのであった。
2024.11.03 修正