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スラムのゴミ娘、悪役令嬢になる。 ~Mっぽい公爵子息と異世界から来た聖女を攻略します!~

作者: 夢旗ひつじ

 目つきが悪い。

 ただそれだけであたしの人生は最悪だった。


「シッシ! あっちへ行け! こそ泥め!」


「まだなんも盗ってないよ」


 今日だってもう何度泥棒に間違われたことか。

 追い払ってくる露店のおっさんに何も持っていない手をぷらぷらさせて見せてやる。


 そのついでに、お隣で客との話に夢中のおばさんの露店からりんごを一個いただいた。


 ここは天下のスラム街。

 王都の掃きだめ。ゴミ捨て場。

 崩れそうな露店の連中は、屋根のある場所で生活できているんだからここでは上流階級だ。


 あたしはといえば、このスラム街の底辺。

 物心ついた頃からここでゴミをあさるか、ものを盗って生きている。

 捨てられた理由はわからないけど、知り合いが言うには「目つきが悪いから」だそうだ。

 そんな知り合いも、数年前に熱を出してそのまま眠ったきりだ。


「あ、待ちな! あんた、それうちのリンゴだろ!?」


 孤独にも、追われることにも慣れっこだ。


 やっと私の窃盗に気づいたおばさんが大声をあげたところで、リンゴの半分はもうあたしの空っぽなおなかの中。

 追いかけてきたおばさんなんか、あっという間にまいてしまう。


 路地裏に飛び込んだところでリンゴを食べ終えたけど空腹は満たされない。

 何かないかと、傍らにあったゴミ箱に頭から突っ込む。

 ガサガサと中をあさっていると、外に投げ出していた足首を誰かにつかまれた。


「やばっ」


 スラム街では盗みなんて日常だ。

 執念深く追ってくるのは盗られた被害者くらいで、協力するお優しい人間なんてここにはいやしない。

 あのおばさんが、あたしをここまで追ってきたとは思っていなかったが、足首をつかまれたということはそういうことなんだろう。


 つかまれば王立騎士団に突き出されるか、教会の偉そうなだけの神父に説教をくらうか。

 連れて行かれてそのまんま帰ってこなかった奴も知っている。


 足首をむんずと掴まれて、ゴミ箱から引きずり出される瞬間、ああ終わったと思った。

 ――けど予想外の人物が私をゴミ箱から引きずり出していて、思わず目をパチパチさせてしまった。


 ローブのフードから胸に流れ落ちるひとつに括られた金の髪は、蜂蜜のよう。

 青い瞳は気持ちよく晴れた日の空みたいな色をしている。

 唇も血色が良くて、ほどよく筋肉のついた体格は栄養が行き渡っているのを感じられる。

 このスラム街ではありえないほど健康的で綺麗なこの男は、間違いなく本物の上流階級様だ。


「なるほど。確かに、噂に聞いていた通り気の強そうな目だ。うん。理想的だ」


「は?」


 ゴミ箱からいきなり引きずり出された上に、いきなりコンプレックスを刺激された。

 カチンときて元々悪い目つきを更に鋭くすると、男は満足そうに「うん、いいな」と頷いている。

 変な性癖でもあるのかとちょっと引いていると、男は床に転がされているあたしの前にひざまづいた。


「すみません、興奮してしまって。私はスヴェン・フォン・エッカートと申します。お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」


「……カリン」


 目つきの悪さで損してきたことはたくさんあるけど、興奮されたのは初めてだ。

 なんだか仰々しい名前の綺麗な兄ちゃんではあるけど、変態なのかもしれない。


 ドン引きしてじりじりと下がると路地裏なのが災いして、すぐに壁が背についてしまう。

 スヴェンも目をキラキラさせてじりじりとあたしを追いつめた。


「カリンさんですね。あなたのような方を探していたんです。聞き込みをするとぴったりの方がいるというので、探していたんですよ。カリンさんは私の理想です」


「……はあ」


 なんの話?

 思いっきり怪しんでいるあたしの顔がスヴェンの青い瞳に映っている。


「今日はお願いがあってまいりました。どうか私のために、悪役になってはいただけませんでしょうか?」


「悪役ぅ?」


 今だってスラムのこそ泥だ。

 これ以上なんの悪役をしろっていうのか。


「私は狙っている女性がいます。次の春から私と同じ学園に通うことになっている聖女様です」


「ああ、なんか聞いたな。異世界から来たとかで王族がえらい可愛がってるっていう?」


「その方です。聖女様と婚約することができれば王族と縁が深まります。それを狙った父上が私に絶対に聖女様の心を射止めてこいと任務をくださったのですが……。

この容姿にもかかわらず、恥ずかしながら何故か私はあまり女性にモテません」


「……でしょうね」


 初対面の女のコンプレックスを突き刺す男なんてモテるわけない。

 半眼になって呆れている女を気にせずしゃべり続ける男もモテるわけない。


「私は次男で、結婚くらいしか家のために役に立てることはありません。聖女様と結婚することは私の人生における重要任務。それを達成するために、あなたには悪役になってほしいのです」


「悪役ってなにさ。あんた貴族だろ? 貴族様方の政略結婚の役に立てるようなことは、あたしにはできないよ」


「できます! あなたのその素晴らしい眼があれば!」


 スヴェンは私の眼をぐっと覗きこむ。

 無駄に整った顔を近づけるな。


「近い近い!」


「カリンさんは理想的です。あなたがその眼で見下して嫌味でも言えば、ふつうの聖女様は萎縮するでしょう。

そこに私が飛び出していってお救いすれば、きっと聖女様は私に惚れてくださるはず! これはご令嬢方の間で流行っている恋愛小説から得た知識なので、間違いありません」


「それであたしに悪役やれって? やだよ。他あたんな」


 貴族のごたごたに巻き込まれるのはごめんだ。

 無駄に綺麗な顔を埃まみれの手でぐいっと押し退けて立ち上がる。

 立ち去ろうとしたところにスヴェンは諦めずに立ち塞がった。

 さっき押し退けるために触ったスヴェンの白い頬に、黒い埃の手形が残っている。


「そうおっしゃるかもと思い、まずは軽い報酬をご用意いたしました」


 言いながらスヴェンは袋をローブの下から出す。

 出てきたのは、ふかふかの白いパンだった。


「ぱ、パン!?」


「ジュースもありますよ」


「ジュース!?」


 ジュースなんて生まれてから一度くらいしか、くすねられたことがない。

 小さな瓶に入った黄金色のジュースは目眩がするくらいに綺麗だ。


「もちろん、金銭の報酬もご用意します。カリンさんには別荘に住んでいただく予定で、三食食べ放題ふかふかベッド付きです」


「た、たべっ、ふか!?」


「ジュースもたくさん用意しましょう。リンゴジュースにオレンジジュース、いちごみるくに、カフェオレ、ミックスジュースなんかもいいですね。ちなみにドレスやワンピースも贈らせていただきます」


 足下見てやがる。

 スヴェンはあたしの貧乏生活をわかって、この報酬を提示してきている。


 そんなことはわかっていたけど、食べるためにはプライドなんて不要だ。

 三食食べ放題ふかふかベッド付き。

 そんな上等なものが手に入るなら、悪役くらいやってやる。


「よろしく頼むよ、スヴェン様。今日からあんたがあたしの旦那様だ」



***


 スヴェンが公爵家の次男だって知ったのは、スヴェンの別荘に連れて行かれた後のことだ。

 屋根さえありゃいいと思っていた生活だったのに、スヴェンの別荘には屋根どころか絵が飾られた壁もシャンデリアがぶらさがった天井もあった。


 豪華な食事に感動する余裕があったのは初日だけ。

 スヴェンが学園に入学する予定の春まで、あと3か月しかない。

 そして、スヴェンの学園には貴族しか入学できない。

 つまりあたしは悪役になる前に、まずは3か月で貴族令嬢になる必要があった。


 あたしの身分はスヴェンが用意した。

 男爵家に養子入りして、あたしは晴れてお貴族様だ。


 でも名前だけでは令嬢とはいえない。

 3ヶ月間、あたしは地獄の日々を送ることになった。


 文字を覚えるところからはじまり、歴史やらダンスやら、魔法の授業が朝から晩までみっちり。

 スヴェンは毎日のように顔を出しては「無理してないか?」と心配そうに言ってきたけど、無理せずに3ヶ月でお嬢様になんかなれるわけない。


 スヴェンが用意してくれた錚々(そうそう)たる教師陣のおかげで、ギリギリ及第点の令嬢らしさを手に入れたあたしは、明日貴族が魔法を学ぶ学園に入学する。

 うまくやれるだろうかと考えると、なかなか寝付けなかった。


 ベッドでゴロゴロしていると、控えめにノックが鳴る。

 面倒だけど自分でドアを開けないのが、令嬢マナーだ。


「まだ起きているわ。何か用?」


「カリン様。スヴェン様が参りました」


 スヴェン?

 こんな夜に?

 スヴェンはよく別荘(ここ)に顔を出してはいたけど、夜に来たのは初めてだ。


 もしかしたらスヴェンも明日の入学式を前に緊張して寝付けなかったのかも。

 少しからかってやろうとベッドの端に腰かけた。


「大丈夫よ。入ってもらって」


 夜に男を部屋に入れるのは令嬢としてアウト。

 でもスヴェンはあたしにとっての雇い主だ。

 追い払うわけにいかないし、そんなつもりもない。


 メイドに磨き上げられて、サラサラになった赤毛を手ぐしでとかしているとスヴェンが部屋に入ってきた。


「カリン。夜遅くに申し訳ない」


「いいよ。あんたはあたしの旦那様なんだから。……いや、構いませんわ。スヴェン様はわたくしのご主人様ですもの」


 本番を前に令嬢としての出来映えを見せてみる。

 スヴェンは目尻をとろけるみたいに下げた。


「カリンはやっぱり眼がいいな。他のご令嬢方と同じような言葉を使っているのに、全く違った響に聞こえる」


「お褒め頂き光栄ですわ」


 悪い目つきはコンプレックスでしかなかったけど、スヴェンに褒められると悪い気はしない。

 鼻で笑って胸を張ると、「うん。かわいい」と褒められたのは謎だったけど嬉しかったので否定はしなかった。


「それで? 旦那様はどうした? 入学式を控えてドキドキして寝られなかったりして?」


「それもあるんだが、カリンにはやはり酷なことを頼んだと思ってね。

3か月間カリンと接してわかったよ。きみは優しい子だ。仕事とはいえ、聖女に意地悪をするだなんてことは精神的に負担なのではないかと心配でね」


 からかってやろうと思っていたのに、意外なほど優しい声で心配してくるスヴェンに驚いてしまう。

 そう言われると、いたずら心はシュルシュルとしぼんでいった。


 ベッドの端に腰掛けたまま、目の前に立つスヴェンをそろりと見上げる。


「ドキドキしてないと言えば嘘になるさ。

でも、あたしはこの仕事を受けて後悔はしてない。

3ヶ月間大変だったけど、字が読めるようになって魔法も多少は使えるようになった。

あたしは身体能力も記憶力もいいんだってさ。魔力も人より高いらしい。そんな自分の力にもあんたに出会えなきゃ気づけてなかった。

……あたしはスヴェンに出会えて幸せだよ」


 聖女にうまく嫌味を言えるかは、正直自信がない。

 淑女向けレッスンに嫌味を言うなんて項目はなかったからだ。

 けど、スヴェンのためならあたしはがんばれる。

 

「スヴェンは聖女と絶対に結婚させてみせる。だから、安心しな」


 スヴェンの父親であるエッカート公爵は厳しい人だと、おしゃべりなメイドに聞いた。

 次男であるスヴェンは優秀なのに駒のように扱われ、有意義な政略結婚ができなければ価値がないとまで言われているらしい。

 スヴェンにとって、聖女との結婚は人生における重要任務だ。

 そんな任務を前に緊張しているらしいスヴェンを励ましてやりたかった。


 ニッと笑って、親指を立てる。

 淑女にはあるまじき振る舞いだけど、スラムではよく見かけたハンドサインだ。

 励ましたつもり。

 なのにスヴェンは表情を歪ませた。


「スヴェン?」


 切なげなその表情に、思わず声をかける。

 その瞬間スヴェンが近付いてきて、抱きしめられた。

 全身があたたかい。

 胸板に押しつけられた頬が熱い。


「へ!?」


 声が出たのは抱きすくめられた数秒後だった。

 ひっくり返った声をあげたあたしをスヴェンは慌てて離す。

 「あー、えっと」と何か言いかけたスヴェンは、すぐにあたしに背を向けた。


「今のは忘れてくれ。聖女と結婚する。それが私の任務だ。協力よろしく頼む」


 「おやすみ」とぎこちなく言い捨てて、スヴェンは部屋から去って行く。

 しばらく呆然とベッドの端に座っていたあたしは、そのままベッドに転がる。

 枕を口に押しつけて「ええええ??」と困惑の声を出していたら、あっという間に朝が来てしまった。


***


「おはよう、カリン」


「おはようございます、スヴェン様。本日は入学式にふさわしい素晴らしい陽気となりましたわね」


 翌朝。

 入学式の会場で再会したスヴェンは、昨夜のことを本当に忘れているかのようだった。

 忘れているように振る舞うのに苦労したのはあたしだけ。

 お手本みたいな笑顔を見せるスヴェンにエスコートされて会場に入るとき、絡めた腕の熱に緊張したのもきっとあたしだけだったんだと思う。


 入学式の間に、あたしはスヴェンと一緒にターゲットである聖女の姿を確認した。

 名前はサクラ・サトウ。

 珍しい黒髪黒目の少女は入学式から早速男たちに囲まれていた。


 サクラは異世界から来たからか、大量の魔力を持っている。

 サクラの周りがキラキラしているのはあふれだす魔力の影響だとスヴェンが教えてくれた。


 必死な男たちを遠目に見ていた入学式は終了。


 掲示されたクラス分けを見ると、幸いあたしはサクラと同じクラスだった。


「スヴェンは隣のクラスだね。しっかりあたしがいじめといてやるから、頃合い見てサクラを助けに来てよ」


「ああ。よろしく頼む」


 スヴェンはあたしの魔力を探知できる魔法を使っている。

 離れていてもあたしの魔力をたどれば、スヴェンはいじめの現場に駆けつけることができるという作戦だ。

 

 力強く頷きあってスヴェンと分かれたあたしは自分のクラスへと向かった。


 文字通り輝くサクラはクラスでも中心にいた。

 サクラはどんな話にもにこにこしているから、お人形のように愛でられていた。


 そんなサクラをいじめられる機会なんて、そうそうない。

 機会を窺っていたら、あっという間に放課後になってしまった。


「サクラ様の魔力はやはり素晴らしいですわね!」


「この世界に来て1年経たないとは思えない力ですね」


 男女問わずすり寄ってくる連中相手にサクラは笑顔を絶やさない。

 よくやることだ。


 今日は機会がなかった。

 さっさと帰っちまおう。


 初日だし、こんなもんだと自分に言い訳をして荷物をまとめる。

 玄関はこっちだろうという勘で歩き始めたけど、おかしいことにまったく外に出られない。


「あれ? 迷ったか?」


 スラム街も入り組んだ造りだったけど、あそこは物心ついた頃から住んでいる街。

 対して学園は今日来たのが初めて。

 方向音痴じゃなくても迷う学園の巨大さに辟易しながら、「いつか外に出られるだろう」とほっつき歩く。


 スラム暮らしの癖が抜けずに、知らず知らずのうちに細道を選んで歩いていると、小さな庭に出た。

 どうやら裏庭らしい。

 玄関に行こうとして裏庭に辿り着く自分を情けなく思っていると、柱の陰から音がした。


「……っく」


 しゃくりあげるような声。

 柱の陰から覗く黒い髪。

 まさかと思って覗き込むと、輝きを帯びた黒髪の頭がうずくまっていた。


「は? サクラ?」


 びくっと黒髪頭の肩が跳ね上がる。

 そろりと顔をあげたそいつは、間違いなくサクラだった。


 さっきまでキラキラ笑顔を振りまいていたくせに、今はうずくまって号泣しているサクラに一瞬呆気にとられる。

 でもその次の瞬間にはスヴェンの顔を思いだした。


 出会った以上はスヴェンのために、あたしはサクラをいじめてやらねばならない。

 サクラが泣いていたとしてもだ。


「あら。こんなところで聖女様が泣いているだなんて思いませんでしたわ。いかがなされましたの?

今日は随分おモテになられていた上に、魔力検査では魔力計をぶち壊して調子に乗っているかと思っておりましたのに」


 サクラは初の魔法の授業で使う魔力計と呼ばれる魔力測定装置の針を振り切らせて爆発させた。

 あたしは半分より少し上まで針が振れて、それでも「おお」という声があがったくらいだ。

 サクラの魔力がすさまじいことを目に見えて知ったクラスの連中は、放課後は更に浮き足立っていた。


 サクラは調子に乗っているだろう。

 そう思って意地悪を言った。

 言った端から胸が痛んだけど言ってやった。


 どうだ。傷ついたか!

 そんな思いで見ていると、サクラは涙でくしゃくしゃになった顔を更にくしゃくしゃにして、勢いよく立ち上がった。

 ドスドスとあたしの目の前まで来たサクラは黒い目からぶわっと涙をこぼして大きな口を開けた。


「調子になんかのってない! むしろ困ってんの! ずっと困ってんのよお! うあああああん」


「ちょっ、大きい声で泣くとみんなに聞こえますわ!」


「うあああああん、いやだああ」


「ああもう。でしたら、こちらにいらしてくださいまし!」


 スヴェン以外の誰かに助けに来られたら面倒だ。

 大泣きするサクラを低木の陰に連れて行く。

 しゃくりあげて泣くサクラの背を、あたしは気づけば「どうしたのよ」と言いながら撫でて落ち着かせていた。

 しばらく泣いて落ち着いたサクラはぽつぽつ話しだす。


「わたしは自分の世界に帰るための研究をしたくて、学園に来ただけなの。結婚だとか、権力のための友情だとか、そういうののために来たんじゃない……」


「それであんなところで大泣きしていましたの?」


「なんかみんなの勢いすごいんだもん! 怖くて、がんばって笑顔でいたんだけど疲れちゃって……。ひぐっ」


「それって限界じゃありませんの。知らない世界でがんばっているんですもの。あなたの孤独は計り知れないものですわ」


「ぐすっ、ありがとう。カリン」


 サクラがあまりにも泣くから慰めている内に、あたし達の間には友情が生まれてしまっていた。

 こうなったらいじめるなんて回りくどいことはやってられない。


 サクラはすり寄ってくる連中に困ってる。

 それなら虫除けを用意するという方向で考えれば、スヴェンを推せる。


「サクラ。魔法の研究に集中できる環境が欲しいんですのよね?」


「うん……」


「でしたら、わたくし心当たりがありますの。学友はおりませんが、三食食べ放題ふかふかベッド付きですのよ。今ならおまけに、虫除けがついてきますわ」


「虫除け?」


「ええ。サクラはスヴェン様と婚約し、わたくしの住む別荘で思う存分研究すればいいんですわ」


 突然の提案にサクラは「へ!?」と裏返った声をあげる。


「スヴェン様!? 誰!?」


「エッカート公爵の次男ですわ。デリカシーには欠けますが、斬新なアイデアの浮かぶ頭の柔らかい優良物件ですわよ。多数に群がられて鬱陶しいのであれば、どれかひとりマシなのを選んでしまえばいいじゃありませんの」


「魔法の勉強は? 別荘じゃ無理でしょ」


「わたくしの家庭教師はこの魔法学園の教師でもありますの。サクラの家庭教師も頼めばいいですわ」


「でもわたし、元の世界に帰るんだよ?」


「婚約期間の内に元の世界に帰ってしまえば良いのですわ! スヴェン様も婚約期間を延長するお手伝いくらい、いくらでもしてくださるはずですわよ」


 スラム街から目つきの悪い女を連れて来て聖女をいじめさせようなんて、突拍子もない作戦を思い付くスヴェンのことだ。


 スヴェンの任務は聖女と婚約することで、実際に結婚することじゃない。

 このくらいの作戦は受け入れてくれるはず。


 あたしがお嬢様らしくない笑顔を浮かべると、サクラは赤くなった目尻を下げた。


「スヴェン様が良いって言ってくれるなら、考えてみようかな?」


「もちろん、構いません!」


「へぇあ!?」


 がさっと低木の向こう側から突如現れたスヴェンにサクラがひっくり返りそうなくらい驚いている。

 あたしも驚いたけど、サクラが驚きすぎていて逆に冷静になった。


 葉っぱをあちこちにつけているスヴェンは一体いつから聞いていたのか。

 すべてを把握している様子のスヴェンは、サクラの前にひざまづいた。


「サクラ様。研究に必要なものはすべて揃えさせていただきます。あなたが一刻も早く帰ることができるよう努めましょう。

その間、あなたを守るために私と婚約して頂けませんでしょうか?」


 恭しくスヴェンがサクラの手の甲に口づける。

 スヴェンは葉っぱだらけだったけど、やっぱり無駄に顔が綺麗だ。

 物理的にキラキラしているサクラにスヴェンがプロポーズする姿は、絵画のように美しかった。


 望んでいたこの光景。

 それを見て痛む胸は絶対におかしい。


「こんなわがままな婚約でいいのであれば……。よろしくお願いします」


 ぺこりとサクラが頭を下げる。

 スヴェンは嬉しそうに、サクラは照れくさそうに笑っていた。

 あたしも笑ったけど、あたしの笑顔は偽物だ。


 どうしてうまく笑えない?

 スヴェンの願いが叶ったのに。

 自分で考えた作戦がうまくいったのに。


 軋む心を無視して、あたしは笑顔で言った。


「ご婚約おめでとうございます」


 ***


 聖女が入学式直後の退学し、スヴェンと婚約したという話は社交界を一夜にして駆け巡った。


 あたしも入学式翌日に退学してサクラの研究の手伝いをするようになったから学園の様子はわからないけど、スヴェンは相当な質問攻めにあったらしい。


 1ヶ月、2ヶ月と時が過ぎていく。

 サクラが元の世界に帰るための研究は着実に進んでいる。


 スヴェンは別荘によく来ている。

 あたしにも話しかけてくれるけど、きっとサクラのついでだ。

 そんな拗ねた気持ちになる自分が居心地悪くて仕方が無かった。


 ふたりとも好きだけど、スヴェンとサクラの会話はあまり聞きたくない。

 ふたりに背を向けて魔法書を読んでいると、目の前においしそうなものを吊された。


「カリンが好きかと思って、フルーツサンド買ってきたんだ。食べないか?」


「……食べますわ」


 おいしそうなフルーツサンドをひったくる。

 サクラみたいにかわいく「ありがとう」と言えなかった自分がイヤだ。

 もひもひと食べはじめると、スヴェンがあたしの隣に座った。


「最近はスラムにいたときのような話し方はしてくれないんだな」


「サクラにも過去のことは話していますけれど、一応男爵令嬢ですもの。養子として迎えてくれた家に迷惑をかけないようにしているだけですわ」


「私の前ではありのままのカリンでいてほしいんだがな」


 スヴェンは時々こうやって思わせぶりなことを言う。

 出会ったときはモテないとか言ってたけど、それは嘘だったんじゃないかと最近になって思えてきた。


「カリン。もうすぐサクラ様が帰れるかもしれないと言っていた」


 サクラはもうすぐ元いた世界に帰る。

 そうなればスヴェンとサクラの婚約は、きっと自然に解消ということになる。

 スヴェンはまた誰かと婚約するはずだ。


 あたしはスラムの子だから、スヴェンにはきっと選んでもらえない。

 だから、あたしにはもう決めていることがある。


「カリン。サクラ様が帰ったら……」


「おいしかったですわ。ごちそうさま。今、研究は大詰め。差し入れはありがたいですが、無駄口を叩いている暇はありませんことよ」


「そうか。それもそうだな。邪魔をしてすまなかった。明日また話しに来るよ」


 スヴェンは納得した様子でうなずいて、素直に去って行った。

 その背を見送ったサクラが、あたしを困った子どもを見るような目で見てくる。


「カリンったら。あんな口聞いたら後悔するんじゃないの?」


「後悔なんか致しませんわ。スヴェン様は空気が読めませんのよ。さ、研究を進めましょうサクラ。あなたが帰ってしまうことは寂しいですけれど、あなたとわたくしの夢でもありますのよ」


 「そうだね」とサクラは笑う。

 優しくて素敵なサクラ。

 サクラの願いは、きっともうすぐ叶う。

 その願いは、もうあたしがいなくても叶うはずだ。


 ***


 夕食のときにくすねたパンとジュースを詰めた鞄。

 スヴェンがくれた中でも一番安そうで動きやすいワンピース。

 机にはスヴェンとサクラへの置き手紙。

 準備は整った。


「よっし、いきますか」


 全ての準備を終えたあたしは、自室の窓枠に立っていた。

 2階だけど、このくらいは大した高さじゃない。

 月を見上げて、覚悟を決めたのは飛び降りることに対してじゃなく、ここを飛び出していくことに対してだ。


 数か月間過ごした部屋を振り返ってから、息を整えて飛び降りる。

 音もなく庭に降り立つと、スラムで鍛えた足を使って難なく別荘を抜け出した。


 明日、サクラが元の世界に帰る。

 そのための魔法陣はもう整っていて、サクラは今日今までお世話になった人々への挨拶を済ませた。

 サクラが挨拶まわりをした中のひとりに当然スヴェンはいた。


 サクラに付き添っていたあたしにスヴェンは何か言いたそうにしていたけど、あたしは「他の方も回らなければなりませんの」と拒否した。


 スヴェンはサクラと婚約するためにあたしを別荘へ招いたんだから、サクラと婚約できた時点であたしはお払い箱になったっておかしくなかった。

 サクラの研究の手伝いをさせてもらっていたのはスヴェンの温情だ。


 サクラが居なくなればスヴェンとの縁もおしまい。

 スヴェンに「出て行ってくれ」と言われるくらいなら、その前に自分から出ていきたかった。


 市街地を駆け抜け、スラムへと向かう。

 戻れる場所は、あのゴミ溜めしかない。


「きゃあああ!」


 路地裏を駆けていると、女の悲鳴が聞こえた。

 切羽詰まった声に急ブレーキをかける。

 辺りを見回すと、路地の角に暴れる影が見えた。


「いやっ、やめて!」


 女が襲われているのかもしれない。


 スラムじゃ誰が何をされていたって助けてやるようなお優しい人間はいない。

 あたしはそんなスラムの奴らが嫌いだった。

 あたし自身も、そんな嫌いな奴らのひとりだった。


 でも今の私には魔法がある。

 スヴェンがくれた力で自分を好きになりたかった。


「おい、なにやってんだ! やめな! 」


 影が躍る路地の角に駆けこむ。

 後ろ手を縛られて、猿轡(さるぐつわ)を嚙まされた女が今まさに両足を縛られようとしているところだった。


 魔法を使おうと両手を前へ突き出すと、女の足を縛っていた男が下卑た笑いをあげた。


「ハハハ! 今日は大猟だなァ! 嬢ちゃん、勇気出すなら後ろも気にしとくんだったな!」


「な、」


 背後を振り返る。

 視界に入った見上げるほどの大男は既に拳を振り上げていた。


 ガツンと頭を殴られた衝撃で石畳に倒れ伏す。

 男に足を乱暴に縛られる感覚があったが、混濁する意識の中で抵抗することはできなかった。


 ***


「っ!? 」


 頭の痛みで目が覚める。

 どれだけ眠っていたんだか知らないが、馬車の荷台に転がされていた。


 しくしくと泣く声が聞こえて周囲を見る。

 荷台にはほかにも何人もの女が、あたしと同じように両手両足を縄で縛られていた。

 違うのはあたしだけ猿轡がされていないということ。

 たぶん気絶していたから、騒ぐこともないと思われたんだろう。


 荷台にいるのは見る限り女ばかりだ。

 この馬車の行き先はあまり想像したくない場所だろう。


 スラムのコソ泥は捕まったときに備えて、縄抜けくらいはマナーとして覚えておくものだ。

 女だからとなめていたらしく、ずいぶん雑に結ばれていた縄からさっさと抜け出す。


 スヴェンが贈ってくれたワンピースについた埃が気に食わなくて、パタパタと払ったところで考える。


 さて、どうするか。

 ひとりで逃げるだけなら、そう難しいことじゃない。

 問題はあたしが立ち上がったことにびっくりしている他の女たちだ。


 彼女たちはスラムでコソ泥なんかやったことのない、か弱き女の子たちだろう。

 そんな女の子たちに、走る馬車から飛び降りろなんて言えるはずがない。


 荷台にかかった(ほろ)の隙間から外を覗くと馬車は森の中を走っていたけど、道なき道を走っているわけじゃない。

 時間は夜のまま。

 丸一日は寝ていないだろうから、気絶してからそう時間は経っていないはずだ。

 つまり馬車はまだそんなに王都から離れていない上に、ちゃんと街道を走っている。


 あとは敵の人数だ。

 この荷台の狭さと馬の足音からして、御者台にはあたしを捕らえた男たち2人分の席しかないはず。


 少し悩んでから、彼女たちを見回した。


「今から、あんたたちの縄をほどく。男らが馬車から離れたら王都へ走りな、この馬車は街道を走ってる。馬が向いてるのと反対方向に走れば帰れるはずだ」


 女たちは緊張した表情をしながらも涙を流してうなずく。

 こんな決断ができたのも全部、スヴェンに出会って魔法を習うことができたからだ。


 身を守る(すべ)を与えてくれたスヴェンには感謝しかない。

 そして今からその(すべ)で他人のために命を懸けようとしていることに緊張した。


 女たちの縄をほどいて、じっとしているように告げてから御者台のある方へと両手を伸ばす。


 魔法を習ったといっても、基礎の基礎である魔力を射出するという単純な魔法しか知らない。

 それでも、あたしはクラスでサクラの次に魔力の多かった女だ。

 それだけの魔力を射出すれば、かなりの威力になる。


「いけええええ!」


 ――ドォオオオオン!!


 両足を踏みしめて魔力を全力射出すると、荷台の御者台側の壁に穴が開いた。

 「ぎゃあ!」と男たちが悲鳴をあげて御者台から転げ落ちていく。

 手綱がちぎれとんだ馬が大暴れしながら森の奥へと消えていった。


 転げ落ちた男たちは予想通り2人。

 こいつらを引き付けておけば、女たちは逃げられる。


「隙を見て行け」


 震えあがる女たちに小声で告げて、破壊した壁の穴から外に飛び出す。

 挑発するためにあえて大男の方の腹を踏みつけてやると「ぐぇ!」とカエルがつぶれたような声を出した。


「てめェ、待て女!」


 予想通り頭に血がのぼったらしいバカ2名が、森に駆けだしたあたしの後ろを追いかけてくる。

 本気を出せば簡単に逃げ切れるくらいに男どもは足が遅かったけど、女たちが逃げる時間を稼ぐためにもわざと遅く走った。


「待てって言ってんだろうが!!」


 ぶちギレたらしい男が何か投げつけてくる。

 顔だけ振り返ったあたしの頬に鋭い痛みが走った直後に傍らの木にナイフが突き立った。


 どんくさい男だが、ナイフ投げの腕はあるらしい。

 頬を伝った血が顎に流れてくるのをぬぐって走った。


「止まれよ!」


 男が叫んだのと同時に木の根に足がとられたのは、最悪としか言いようがない。

 日頃の行いが悪かったからだろう。

 運悪く一瞬止まってしまったあたしの足にナイフが深く傷を入れた。


「くぁっ」


 流れた血が森の湿った土に落ちる。

 なんとかもう一度走り出しはしたが、そんな足で速度が出るはずがなかった。


 大男に肩をつかまれ、泥に頬を押し付けられる。

 傷が痛むことよりも何よりも、スヴェンがくれたワンピースが汚れたことが悲しかった。


「てめェ、女ァ! 馬車めちゃくちゃにしやがって! タダじゃねェんだぞ!」


「おまえにゃ、たっぷり稼いでもらわなきゃなんねェなァ、オイ!」


 男たちが怒鳴り散らす声が頭に響く。

 ああ、そういや頭を殴られたんだった。


 予定じゃ、こんなはずじゃなかった。

 今頃スラムのゴミ捨て場で「戻ってきちゃったなぁ」って感傷に浸って、らしくもなく涙を流しているはずだった。

 

 まったく予定通りじゃない。

 だけどスヴェンにもらった力で女たちを救うことができた今の結果に後悔はなかった。


 泥に半分沈められながら、体の力を抜く。

 目的は達成した。

 あとはどうなっても仕方がない。


「聞いてんのか、おん――」


 聞き流していた男たちの怒声が不意に止んだ。

 次いで聞こえた、硬いものを殴りつける音。

 何事かと泥に手をついて身を起こすと、あたしの隣で頬を腫らした男が腰を抜かしていた。


「あ、あ……。な、んだ、おまえ」


 もうひとりのまだ元気だった男が怯えきった声をあげる。

 その視線の先を見て、息が止まった。


 スヴェンが立っていた。


 いつもの綺麗な顔だ。

 なのにその顔に浮かぶ表情は、いつもの優美なものじゃない。

 鬼や悪魔も凍りつきそうな、恐ろしく冷たい表情だった。


 何も映さない深い青色の瞳で震える男を見おろしていたスヴェンは淡々と男の顎を蹴り上げる。

 舌を噛んだらしく「あげぁッ!」と悲鳴をあげた男は口から血を流しながらひっくり返った。


「……消えろ。できないなら殺す」


 「ひっ」と喉を鳴らした男たちは、泥に足を取られながらも必死で立ち上がり、転がるように去っていく。


 男たちが走っていった街道側には、明かりがチラチラと動いていた。

 聞こえてきた「動くな!」という声から察するに、たぶんスヴェンは王立騎士も連れてきたんだろう。


 スヴェンの抜け目なさに驚いていると、不意に腕を取られる。

 まだ感情が抜け落ちたような表情をしているスヴェンはあたしを泥の中から引きずり上げて、あろうことかそのまま抱きしめた。


「す、スヴェン様。汚れますわ……ッ」


「構わない」


 ぞわっとするような艶のある低い声が耳に吹き込まれる。

 一気に力が抜けてしまってスヴェンの腕の中に大人しくおさまる。

 掻き抱くように抱きなおしてくる手に抵抗するために、どうにか首を横に振った。


「やめてくださいませ、スヴェン様」


「イヤだ」


「離してください」


「もう二度と離さない。どこにも行かせない」


「やめろ……。勘違いしちゃうだろ」


 気づけば、涙が出ていた。

 頬の傷に涙が染みる。


「夜中にカリンの魔力が突然移動をはじめて、何事かと思って部屋を訪れたら置き手紙があった。心臓が止まるかと思った」


 スヴェンはあたしの魔力を追うことができる。

 でもサクラが帰って用なしになるあたしを追ってくるなんて考えてなかった。


 公爵家の次男であるスヴェンが、こんな夜中に街の外まで出るなんてありえない。

 そんなありえないことをしてまで、スヴェンはあたしを追ってきた。


 スヴェンの行動は、あたしの勘違いを勘違いじゃないと示していた。


「勘違いなんかじゃない。私はカリンが好きだ。愛してる。サクラ様が帰ったら私と結婚してほしいと、それをずっと言いたかった」


「ッ、でもスヴェンは公爵家のために政略結婚するんだろ?  それがスヴェンの任務なんだろ? 」


「もう 任務は十分に果たしただろう。聖女様と婚約はした。育ててもらった義理は果たした。

このまま旅に出よう、カリン。誰にも文句を言われない場所でふたりで幸せになろう」


「あたしなんかのために、公爵家を捨てていいの……? 」


 情けない弱気な声が出る。

 見上げたスヴェンは、今まで見た中で一番優しい表情をしていた。


「カリン。私は初めて会ったとき、言っただろう。あなたは私の理想だと」


「それは、悪役に理想的だったんだろ? 」


「ふたつの意味で理想的だった。私は気の強い女性が好きなんだ。カリンの眼は最高だ」


 目つきが悪くて得をしたことなんて、スヴェンのために悪役になれたことくらいだと思っていた。

 けど、それだけじゃなかったらしい。


 スヴェンの真意を知ると、最初に会った時の口説き文句がなんだか違う意味に思えてくる。

 あれだけ必死に迫ってきたのは、本当にあたしの眼が気に入ったからだと考えると恥ずかしくなる。


 この目付きで生まれてきてよかったと、初めてそう思えた。


「ふ、ふふっ。なんか変態っぽいな。この眼が好きなんて」


「多少はそうかもしれない。カリンに冷たくされるとゾクゾクする」


「じゃあ、好きって言ったらダメか」


「それはたくさん言ってほしい。愛してるよ、カリン」


 額にキスを落とされる。

 そのお礼に唇に口づけると、思いのほか深く吸われて呼吸に苦労した。


 ***


 聖女様が元の世界に帰った。

 その婚約者だったエッカート公爵家の次男は悲しみに暮れ、姿を眩ましてしまった。


 そんな悲しい噂が王国を巡り、この辺境まで届いたのはサクラが元の世界に帰って数か月後のことだった。


「スヴェン。あんた悲劇の主人公じゃないか。王都じゃスヴェンとサクラの歌劇もやってるらしいよ」


「なるほど。それなら私とカリンの物語をやった方が客が入りそうだけどね。身分違いの恋でアクションもあり。実にドラマティックだ」


 ここは王国の端っこの人口がどうしようもなく少ない村。

 硬くてしょうがない田舎パンをどうにか咀嚼しながら読んでいた新聞に書いてある記事にあたしとスヴェンがニヤニヤしていると、姿見から声が聞こえた。


「わたしもハピエン厨だから、ふたりの物語のほうがいいなー」


「はぴえんちゅう? ってなんだ? 」


「サクラ様の世界の言葉ですか? 」


 姿見の向こうでは、セーラー服とやらを着たサクラが髪を結い上げている。


 サクラは元の世界に帰ったが、あっちでも魔法が使えるらしい。

 元の世界じゃ魔法を使える人間なんていないらしくてサクラは苦労しているらしいが、鏡を通して話ができたのはサクラに魔法が残っていたからだ。

 数少ない友人と気軽に会えるんだからサクラに馬鹿みたいに魔力があってよかった。


「ハピエン厨っていうのは、ハッピーエンドが好きな人ってこと。あ、やば。遅刻する! 今日も仲良くね、ふたりとも~」


 ひらひら手を振ったサクラが鏡から消える。

 普通の鏡に戻った姿見にうつったのは、並んで食事をとるあたしとスヴェンだ。

 スヴェンは野菜くずの入ったスープを飲みながら、緩みきった顔であたしを見ている。


「なにさ」


「いや、私もハピエン厨だなと思ってね。この村でカリンと死ぬまで幸せに過ごせるんだと思うと嬉しくて仕方がない」


「あんたの愛って重いよね。ちょっと引くわ」


「カリンも幸せだろう? 」


 自信たっぷりに聞いてくるスヴェンは、あたしのことなんて全部お見通しだ。

 「さあね」と首を傾げたあたしだって、そりゃもちろんハッピーエンドを望む。


《終》

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