8-29 死線
「──変身したッ!?」
廃墟と化した霊廟に生まれ落ちるは、夜よりも黒き痩身の魔神。
細長い三本角が生えた山羊頭に、全身を覆う艶めきうねる黒毛。成人男性の背丈ほどもあろうかという手足と、背部で蠢くウツボ型の触腕たち。
大英雄へと生まれ変わった青年──カラブリアの前に顕れたのは、正に正しく異形の魔神であった。
〈……ほう。見せかけだけではないようだ。興味深い〉
〈魔力が更に増大しているか? 先の小さな姿、降魔ではなかったのか〉
〈ごちゃごちゃうるせえよ──〉
虚無の魔神としての本領を発揮したロウは、神や大英雄の言葉を無視して殺意と共に震脚一発。
蹄ある脚部で大地を叩き、炸裂させた。
〈──哈ァッ!〉
振り上げた脚で行なう発勁。
ごく単純なその動作だけで、地面が吹き飛び都市が──否、大陸が揺れる。
「うおぉッ!?」
〈ッ!?〉
竜の拳に等しいそれは、音速の数十倍もの衝撃波を生み出し一気に拡散。
隕石衝突さながらに全てを削って吹き飛ばし、帝都中心付近をすり鉢状の地形に創り変えた。
〈……馬鹿力めが〉
半径百メートル以上の大クレーターを生み出し帝都中の窓を破砕する、理外の一撃。
余波だけで大魔法並みのそれは、大きく吹き飛ばされた上位者たちを震撼させる。
「ぐぅッ……。今のは自爆、でしょうか? 凄まじい破壊力でしたが」
〈奴の気配は未だ濃い。アレは捨て身の攻撃などではなく、只の威嚇であろう。でなければ、わざわざ力を大地へ向けまいよ〉
〈この立ち上る土煙、目くらましの意図もあろうがね──来たぞ!〉
滔々と語った神たちの読みを証明するかのように、彼らの頭上を巨影が覆う。
土煙を裂いて現れたのは、巨竜もかくやという巨大極まる石柱群。
数百ものそれらが、神々を圧殺せんと急襲する!
〈多いか。サマエル!〉
〈がなるな。分かっているとも〉
「クッ。俺の足なら、これくらい!」
〈待てカラブリア! 誘導されるな!〉
「へ?」
大英雄たる青年が、持ち前の身体能力で退避した先には──己より二回りは巨大な漆黒の影。
位置関係や性格、先の戦闘結果等々。様々な情報を分析していたロウによる先回りである。
「いぃッ──!?」
恐れ慄き目を見開くカラブリア。
当然、ロウが見逃す隙ではない。
〈よう、クソッタレ──喝ァッ!〉
大人と子供ほどの体格差。
そんなものは知ったことかと、虚無の魔神は全力蹴撃。
「お゛ッ、ごォ……!?」
神をも超える反応速度で剣を構えた青年は──剣が砕かれ腰が折れ、石柱の林へと吹き飛ばされた。
鯨偶蹄類特有の強靭極まる脚部による、腹部を打ち抜く中段前蹴り──八極拳・蝎子脚。
竜をも殺す蹴りが踵よりもなお硬い蹄で行われたのであれば、その威力は語るべくもない。
〈次〉
遠方で響く衝突音に興味を示さず、山羊の金眼は次なる標的を見据える。
〈一撃だと……!?〉
〈アレへは近づくな、バアル。遠距離から圧殺しろ!〉
〈させるかよ、馬鹿が──無受想行識〉
遠距離戦へ移行しようとする神々に対し、鼻で笑うロウは魔法を構築。魔力を食らい尽くす特殊空間を創り上げ、残る相手を封じにかかった。
〈……魔力が掻き消えた? 奴の操る魔法、我らの魔力さえも消し去るようだ。フクク、興味深いじゃないか〉
〈余裕ぶっこいてんなァ? サマエル。あんなにしこたま殴ってやったのに、もう忘れたか?〉
剥き出しとなった土壌を抉り、神々の前へ移動する虚無の魔神。
触腕で創り上げた腕を打ち合わせ、彼は続けて挑発する。
〈こいよ。どっちが上か、思い出させてやっから。そこの蠅爺も、遠慮しなくていいぜ?〉
〈ク、クハハハッ。蠅とはな、我が真なる姿を知るか。いや……あの邪神がいれば、それも当然か〉
〈生まれたばかりの赤子が、なんとまあ増長したものだ。その自信が砕けた時、一体どれほど歪むのか……。イルマタルの下へ送る前に確と拝んでやろう〉
〈御託は要らねえよ──さっさとくたばれ!〉
互いの罵倒が一段落し──山羊頭の魔神と上位神たちが衝突する!
〈フハハハッ! 防戦一方かね!〉
片や劫火と氷炎。両拳に相反する権能を宿し、拳に手刀に掌打にと神なる連撃を繰り出す有翼の青年。
〈先ほどの威勢は、虚勢であったか?〉
片や紫電と烈風。雷光迸り暴風吹き散らす長杖を振るい、打ち薙ぎ叩いて突き刺す黒髪の老人。
いずれも神の名に違わぬ極限の絶技。ロウの戦ってきた強敵の中でも、片手で数えられるほどに。
〈……〉
その技量にいたく感心しつつ、腕と触腕とで守り応じる虚無の魔神はふと思う。
こんな出会いでなければ、彼らと戦わずに済んだのだろうか。
技を磨き高め合えるような関係になれたのだろうか──と。
が、それもすぐに殺意で塗り潰す。
この者どもはイルマタルを殺している。
いずくんぞ躊躇う必要があらんや。
〈扑ッ!〉
〈ッ!〉〈ムウッ〉
攻勢反転。
修羅と化した山羊頭の魔神が打って出る。
地を揺らして踏み込み、渾身の力で打ち込むロウの触腕の中段突き──十二の翼でふわりと浮かび、死神は攻撃を軽やかに躱す。
〈クハハッ!〉
渾身の突きを隙と見た豊穣神は、雷霆と化してロウへ肉薄。
嵐の権能を存分に込めた長杖を、魔神の腹へと突き出し──しかし、いとも容易く逸らされた。
〈──ッ!?〉
魔剣を宿せし虚無の魔神。その身が操るは太極拳。
全ての動作が次なる動きの備えとなるこの体技の前に、目で見て捉えられる隙など存在しない。
それすなわち、神をも欺く誘いである。
〈うちのニグラスが世話になったなァ? 蠅爺〉
腕の円運動により長杖を絡め捕ったロウは、逆手の肘を跳ね上げ顎を打ち抜く肘打ち一発。
〈ぐ、ぎッ!?〉
〈まだまだァッ!〉
天へ打ち上げられる老神を、絡め捕った腕で繋ぎ止め──続けざまに、直下の地面へ叩きつけッ!
〈哼ッ!〉
〈ごッ……〉
揺れる大地にめり込む老神。
そこで終わらぬ魔神は、締めに触腕での直下突きを叩き込むッ!
〈啦啊゛ァッ!〉
吹き飛ぶ地面、飛び散る血肉。魔神の触腕が深々沈み、天地どちらも震わせる。
初撃の震脚ほどでないにしろ、出来上がったクレーターはまたしても巨大。直下突きの破壊力を雄弁に物語っていた。
その中心で豊穣神だった肉塊を確認し終え……ロウはぽつりと呟く。
〈お前で終わり〉
横に裂けた瞳孔をぎょろりと動かす山羊頭の魔神。
金眼で捉えるのは最後の一柱、空を飛ぶ死神である。
〈……図に乗るなよ。山羊頭の低能が。地を這う貴様ではついてこれまい!〉
魔法が使えぬならばと権能を滾らせ双剣を創り上げるサマエル。十二の翼を存分に使い、死神は神速の一撃離脱を選択した。
それは飛ぶ術を持たぬロウに対し、この上ない優位を持つかに見えたが──。
〈よう、久しぶり〉
〈ッ!〉
──接敵する時点で彼の土俵。魔法すらない単純な突進に、彼が合わせられない道理が無い。
〈哈ァッ!〉
双剣を硬質化させた触腕で受け流しての、カウンターとなる必殺肘打ち。
八極拳大八極・挑打頂肘が、臓腑を潰して背骨を砕く!
〈ごッ──ぐ、ははッ!〉
胴体が千切れるほどの一撃を受け──それでも、死神サマエルは笑んでみせる。
〈あ゛? んッ!?〉
疑問に思ったその直後、ロウの胴が分かれて舞った。
「は、ははは! 見たかッ!」
死角からの光波一閃。
吹き飛ばされていたカラブリアによる、遠間からの横やりである。
大英雄の放った光は魔神の空間変質魔法を切り裂き、破壊。
のみならず、上下に分かれた魔神の身体を炎に包んで焼き尽くす。
〈フクククッ。よくやったぞ大英雄。それでこそだ〉
周囲に展開されていたロウの空間魔法「無受想行識」は、胯の一撃で雲散霧消。
魔力の気配が場に満ちたことに安堵するサマエルは、千切れかけた肉体を再生させつつ大英雄を褒め称えた。
「有難きお言葉です、死神様。しかし豊穣神様が打ち倒され、妖精神様が唆されるなど……この魔神、一体何だったのですか?」
〈なに、妖精神に懸想し近づきでもしたのだろう。あの婆も色狂いだ、遊んでいる内に本気となった、そんなところだ。異形の魔神が妖精神に欲情するなど、度し難いにも──〉
ほどがある──そう続けようとした死神は突如閉口。身体を折り曲げ言葉を中断する。
〈グッ……!?〉
突き刺さったのは魔神の拳。跳んできたのは漆黒の巨体。
触腕を脚として跳躍したロウによる、捨て身の突貫。
肉体を回復させていたのはサマエルだけに限らなかった。
〈……よくも、クソみたいな言葉をならべられたもんだな。死んで詫びろ〉
逃がさないぞと足を掴んだ魔神は、膂力にあかせて大車輪。
死神を存分に振り回して跳び上がり──それを砲弾代わりに、直下の大英雄へぶん投げる!
〈──ッ!?〉
「くッ──ぐへぁッ!?」
またも聖剣を盾にしようとしたカラブリアだったが──結果さえも全く同一。死神という名の砲弾が聖なる剣を砕き割り、大地が揺れて土砂が吹き飛ぶ。
〈フー……後は纏めて消し飛ばすか。『空・即』──〉
出来上がった新たなクレーターを見下ろす魔神は、下半身の再生すらせず追撃を構築。
両手を竜の口部に見立て、爆縮した虚無を撃ちだそうとして──。
〈ヅッ……!?〉
──あえなく失敗。天地両面から迫る雷撃と暴風で、トドメを中断させられた。
〈まだ、生きてやがったか!?〉
〈クハハ、大英雄が貴様の空間を祓ったおかげでな。さあ、粉と砕けよ!〉
攻撃の主は二色の魔力を振りまくバアル。
神の鉛白色に魔神の緋色。もはや隠さぬと魔力荒ぶる老神が、雷の嵐で仕留めにかかる!
〈ぐぅッ……〉
((っッ!?))
再生を後回しにするほど前掛かりとなっていたロウに、回避の余地などあるはずもなし。
虚無の魔神と彼の相棒たちは、雷地獄の贄となった。
昇る雷降る稲妻。全方面より迫る雷撃が、漆黒の魔力を呑み尽くす。
僅か一分の間に千もの雷鳴が轟いたところで、魔神の残骸がバアルの前に落下した。
〈……〉
〈ようやく沈黙したか。本来ならばカラブリアに討ち取らせたかったが……これほどの強者ならばそうも言えん。念入りに潰して──!〉
黒ずんだ塊を塵へ変えようと目論む豊穣神が、魔法を放つその寸前──白い影が射線を通過。ロウだったものを拾い上げ、そのまま瞬時に離脱する。
〈ちッ。死にぞこないめ!〉
雷撃による追撃を放つバアルだが、影は一顧だにせず逃走を全う。地平の彼方へ消えていった。
〈……イルマタルめ。単独で逃げずアレを回収するとは、よほど思い入れがあるのか? あるいはまだ生きていたのか。……いずれにしても、あれほど消耗すればすぐには出てこれまい。計画に支障はなかろう〉
整理するように顎鬚を撫でつつ、雷で大型犬ほどに巨大な蠅の群れを創り出すバアル。
雷光で創り出したゴーレムたちに追撃を命じた老神は、叩きのめされた大英雄たちの治療へ向かった。