3-26 魔神の眷属、マリンの日常
幼き魔神が馬車に揺られ、のんべんだらりと旅をしている頃。
遠く離れた地、リーヨン公国南部の都市ボルドーでは。
「──突如として寒冷地帯へと激変してしまった周囲環境や亜竜の群れの出現により、リマージュとボルドーを結ぶ街道の整備は頓挫しております。作業にあたっていた者たちの話では、亜竜たちは人を見ても攻撃的な様子を見せなかったようですが……」
「仮に気性の穏やかな亜竜であったとしても、何が亜竜を刺激するか分かったものではない。何より、単なる一般人があの捕食者を前にして、街道の整備作業など出来ようはずがない、か。フム……リマージュでの取引は、しばらく凍結ということになりそうじゃのう」
広大な敷地を誇る屋敷の一室。年老いた使用人の長が同様に老いたる主へ、現在ボルドーが直面している問題について報告を行っていた。
老年の主従──ムスターファとアルデスが話していたのは、言わずもがな月白竜シュガールが連れてきた亜竜たちである。
枯色竜ドレイクの尻拭いをすることになった彼らは現在、妖精神イルマタルと共にドレイクの創り出した溶岩湖の冷却にあたっている。
亜竜たちの冷却方法は水魔法に冷気のブレスといった具合だが……妖精神のそれは超高高度にある成層圏の大気──氷点下五十度にもなる極冷状態の大気を、直下の溶岩湖へ向けて打ち下ろすというすさまじいものだ。
高度20,000メートルから吹き下ろす極風は、外周三十キロメートルを超える溶岩をも効率的に冷やすことが可能だ。故に彼女の選択は正しいものではあったが……。
反面、老執事の報告の中にあったように、彼女の大魔法は周囲環境を寒冷地の如き状態へと激変させてしまう。
のみならず、上空に留まっていた生物にとって有害なガス──高濃度のオゾンを、一帯に撒き散らしてしまうという、大規模な影響を与える結果となった。
つい先日、ドレイクの放った「炎獄」による被害へ文句をつけていた妖精神だというのに、今の彼女はドレイク以上の被害を発生させているのだ。
舌の根の乾かぬ内に、とんでもない横暴である。
もっとも、これは彼女が己の最大の関心事──自身の子供である妖精たちの避難を、既に完了させているからでもある。これほどまでに好き勝手に大魔法をぶちまけているのは、自身に連なる存在がこの地に居ないと分かっているからでもあったのだ。
愛しい子ら以外の存在はどうなろうが知ったことではない、そう言わんばかりの行いである。
正に正しく人でなし。神というに相応しい身勝手さであると言えよう。
──話は戻り、そんな諸々の事情を知らぬ主従である。
交易都市リマージュではしばらく取引が行えないと判断した彼らは、ボルドー都市内向けの商売──亜竜の出現により需要の増すことが見込まれる、武具やその原料の取引量を増やすことで話を纏めた。
「──こんなことになるとは、ヤームルを早めに出発させておいて良かったわい。あの子たちもじきにつく頃か? ロウ君やマルト殿が同行しておるし、滅多なことはあるまいが……近頃発生する問題の多さを考えると、やはり不安だのう」
「フフ、お嬢様が聞けば『便りが無いのは元気な証拠』と、大英雄様のお言葉を引用してお答えになりそうですね。ああ、お嬢様といえば……お嬢様の訓練を手伝っていたロウ様のゴーレム、マリンのことで少しお話があるのですが、よろしいでしょうか?」
主の悩みを拭い去ったアルデスは、話の流れで思い出した用件を口に出す。
「フム? うちの使用人たちをビシバシとシゴいてくれている、あのマリンのことか?」
「はい。マリンが訓練監督として着任してひと月と経っていませんが、訓練を受けている者は目を見張るほどに実力が伸びております。……そのマリンですが、近頃人の食事に対し興味を示し始めたようでして」
「ほう? ロウ君からはマリンに対し、特に与えるものなど不要と聞いていたが」
アルデスの言うマリンの要望を聞いたムスターファは、以前そのマリンを創り出したロウの言葉を思い返し、片眉を上げて疑問を口にした。
「ええ、確かに活動に際し不要なものではあるようです。ですがどうやら、彼女自身の純粋な興味で、人の食事というものを試したいようですね。御屋形様、お許しいただけないでしょうか」
「自身の意思を主張するゴーレムか。精霊使いがそのようなものを生むなど、聞いたこともないが。まあ、それを言えばロウ君ほど規格から外れた精霊使いなど、見たことも聞いたこともないか。兎も角、儂としては一向にかまわんよ。マリンには随分と世話になっているし、訓練以外でも掃除に庭仕事にと、あの子は家のために尽くしてくれているからのう」
彼の言葉にあるように、この屋敷でのマリンの働きぶりは見事なものである。
自身の体に取り込んだものは時間を掛けて魔力へ還元することが出来ること、そして自在に変形できること。これらを生かして行われる、汚れをこそぎ取る丁寧な清掃。
同じく体の変形を生かして人の数倍もの荷を運ぶ、魔神の眷属ならではの力仕事。
訓練で草臥れ果てた使用人たちを癒すため、体をマッサージチェア状に変形させ、訓練を行った者たちの疲れを翌日に残さないようにするリラクゼーション、等々。
地球時代の知識をロウから受け継いでいるマリンは、創造主の想定以上にこの屋敷の者たちへ献身していたのだ。
そんなマリンの働きぶりを近くで見てきたアルデスは、彼女の要望が通ったことを我が事のように喜び、主へ感謝の念を伝える。
「左様でございますか。ご許可をいただき、有難く思います。御屋形様の言葉を聞けば、きっと彼女も喜ぶことでしょう」
「それはなによりだが……アルデス、あの不定形なマリンのことを“彼女”呼ばわりとは。あの子に性別なんてあるのか?」
「フフフ、仕草から女性のそれと分かるものですよ、御屋形様」
「……」
何故か得意げに語る従者の言葉で閉口するムスターファだった。
◇◆◇◆
同日、深夜。見回りを行う使用人を除き、屋敷の者たちが寝静まった時間。
屋敷の内を無音で這い回り、扉の僅かな隙間からぬるりと移動する影あり。
[──]
昼間話題に上がった魔神の眷属、マリンである。
創造主より屋敷の守りも任されている彼女は、こうして夜な夜な徘徊して回るのが常である。
しかし今日はそれだけにとどまらず、行動範囲を広げ屋敷の外へと這い出ていった。
体を魔力へと還元し直径六十センチメートルほどとなっているマリンは、持ち前の弾性運動でもって移動を開始。慎重かつ迅速に夜道を駆け抜け、目的地である冒険者組合ボルドー支部へと辿り着く。
[……]
彼女がここを訪れたのは、同じく魔神によって創られた同胞たち──石龍と氷龍に会うためである。
創造主からの魔力の譲渡によって双龍の存在を知ったマリンは、定期的に彼らの下へ赴き情報の共有を行っていた。いつか創造主がこの街へ戻ってきた時のために備える、彼ら眷属としての仕事である。
今日ここを訪れたのも、昼間隠密行動をしている際に得た亜竜の情報を、彼らと共有するためであった。
巨大な両開き扉の隙間からぬるりと侵入した彼女は、魔力感知で警備が手薄な個所を察知すると舐めるように行動を再開。
時に天井を這い回り、時に床の隙間へ入り込んで警備の目を掻い潜り。瞬く間に支部長室にいる双龍たちの下へ到着した。
一堂に会した魔神の眷属たち。そこから始まるは、世にも奇妙なジェスチャーの応酬である。
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天井からぶら下がる氷龍がくねくねと動き回り、水魔法を使って器用にも会議を行う人々を描き出したかと思えば……床から生える石龍がとぐろを巻きながら、土魔法で会議に参加した面々を模した人形を創り出す。
[──]
マリンはといえば、それらを見て人型となったり亜竜の姿となったりしつつ双龍のもたらす情報を咀嚼していき、自分の持っている情報と比べながら状況を精査していった。
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そうした時間が一時間ほど続いたところで、警備員が部屋に近づく気配を察知したマリンが別れを切り出し、眷属たちの定例集会はお開きとなった。
侵入時同様不定形の体と隠密技能を駆使し、素早く冒険者組合を脱するマリン。何度となくこなした行動だけに、一連の動きは滑らかだ。
──しかしそれ故に、彼女には油断があった。
「──ん? なん……は? あれは、スライムッ!?」
[!?]
自身の魔力感知範囲を半径百メートル程度に抑えていたこと、そして一般人より遥かに優れた身体能力を持つ転生者が、深夜に一人ほっつき歩いていたこと。
この二つの偶然が重なり、マリンは屋敷の者以外に初めて目撃されてしまうことになってしまったのだ。
[──っ]
深夜徘徊をしていた青年──ベクザットの声を遠くに聞いたマリンは、瞬時に魔力探知を全開。退路を探って一気に跳躍。
魔神の眷属たるに相応しい速力をもって、窮状を脱せんとなりふり構わず逃走を開始する!
「うお、迅ッ!? 見た目はスライムのくせに、中身はメタルなやつかよ!」
対し、冒険者という仮初の身分の裏でボルドーの暗部に所属する青年も、人外級の身体強化を施して不定形の存在を追跡。
街のど真ん中で魔物らしき存在がいるという不可解な状況を調査すべく、己が全力を尽くす。
[──!]
「マジ、迅ぇ……ッ! 俺が全力だってのに、差が縮まらねえのかッ!」
魔神の眷属と転生者の追走劇は、壁に穴を開け石畳を砕き、加速する。
マリンが家屋の壁を起点に三角飛びを行って屋根の上へと上り詰めれば──ベクザットは街路を砕く踏み込みをもってその後を追う。
屋根の上へと躍り出た青年が縁を踏み砕いて更なる加速を行えば、群青色の眷属は体の下部を棘状にして屋根に突き刺し急減速、からの方向転換。街灯のない路地裏へと飛び込み逃げる。
[──]
「うぉぉッ!? そんなのアリかよ!」
人外の域にある両者のパルクールは、人通りの全くない深夜という時間帯も相まって、加速する一方だったが──。
「な、なんの音だ!?」「竜が攻めてきたのか!?」「ひぃぃー!」「婆さんや、もう朝かいのう? ちいと早すぎやせんか?」「あたしじゃあないですよ、お爺さん」
──身体能力のあまりの逸脱故に、発生する物音で目を覚ます住民たちが出始めてしまうこととなった。
「やべェ! このままじゃ始末書を書くハメに……!」
[!]
こうなってしまうと、人の身を持ち人の身分を持つ、追跡者ベクザットの方が圧倒的に不利である。夜空に溶け込む群青色の眷属は逃げるも隠れるも変幻自在だが、各所に破壊の足跡を残してしまう彼の場合は、同じようにとはいかなかった。
「くっそー……見失っちまったかー。というかアレ、色々変形してたけど……スライムだったよな? この世界のスライム、初めて見たけど……何だよアレ。速すぎだろ! 色は普通のくせによう」
次々と家から出てくる住人たちや騒ぎを聞きつけて集まる衛兵たちから逃れるべく、ベクザットは人気のない路地裏へと駆け込んだが……。
その愚痴通り、彼はマリンの行方を完全に見失ってしまった。
「うーん。衛兵たちのやり取りに聞き耳たてる限り、俺の具体的な容姿までは特定されてないっぽいけど。これ絶対、長から色々言われる案件だわー。もう今から胃が痛え……報告せんどこうかな。いやでも、魔物が都市にいたのは問題だし、隠すのは絶対不味いか。はぁ……」
土色の髪の毛をガシガシと掻き、キトンブルーの目を瞑って呻いた青年は、そのまま人目につかぬよう影から影へと移動し、元の目的地であるボルドー居住区へと帰っていった。
[……──♪]
他方、身を潜め逃げ果せたマリンはといえば、全力逃走で消耗した魔力を補給すべく、近くにあった水路で水分を補給し、魔力へと還元していた。
その後一時間ほどかけてたっぷりと魔力を補給した彼女は、警戒しつつも帰路につき、使用人たちが目覚める前に屋敷の敷居をまたぐ。
ひと悶着はあったものの、無事屋敷へ戻ってこれたことに安堵するマリン。
彼女はかねてよりアルデスに相談していた食事の件を思い返し、人の料理というものを楽しみにしながら一日が始まるのを待つ。
そんな彼女が、水路の水を肉体へ再構築したことでその水の持っていた臭いが気になってしまい、折角の料理に集中できず落胆してしまうのは……長い夜が明けてからすぐのことだった。