手から零れ落ちたもの
一目見て、運命だと思った。
それは間違いない。あの時の頭がしびれるような甘やかな何かは説明がつかない。
今まで持っていた常識も抜け落ち、ただただ目の前にいる彼女だけが意識の中に残った。
これが運命というものかと。
どこか現実味のない曖昧な感覚の中で感じていた。
それが突然晴れてクリアになる。
腕に抱くのは、ずっと支えてくれていたルーシェではなく、名前も知らない運命の相手。
熱に浮かされたように関係を持ったせいなのか、彼女はぐっすりと寝入っている。その寝顔を見ても、目が合った時のような甘やかな感情は沸き起こってこなかった。
何故この女を――。
そんな感情しか持てない。
「殿下?」
女が眠そうにしながらも、うっすらと目を開ける。その瞳を見ても特に感情は揺れなかった。ウェンセスラスはため息をついて、寝台から降りる。
「仕事がある。侍女を呼んでおくから、それまで休んでいればいい」
とにかく現状確認だ。
恐ろしい不安と予感が心の中に説明のつかない焦燥を生み出していた。
「もう少し側に……」
女は縋るような言葉を投げてきたが、一瞥して部屋を出た。
******
「おや、意外と早く正気に戻られましたね。10日で満足しましたか」
宰相の執務室へ押しかければ、彼はのんびりとそんなことを言う。読んでいた書類を机の上に置くと、彼は立ち上がった。苛立ちを隠していないのに、老齢の彼はウェンセスラスを何でもないように扱う。長椅子に座るように言われたが、座らずに立っていた。
「ルーシェはどこにいる? 子供たちは?」
「何を言っているのですか。すでに離縁が成立してイーリック国に移動しました。二度とこの国に戻ってくることはありません」
「国を出ただと?!」
驚きに声を荒げれば、宰相は不審そうに眉を寄せた。
「知らないわけはありますまい。運命の相手ではない正妃に用意された決まりですから。ルーシェ様もよく心得ておりましたので滞ることなく成立しました」
「何故、離縁を認めた!」
イライラが止まらずにウェンセスラスが怒鳴り散らせば、宰相はため息をついた。
「何を言っているのですか。離縁を許可したのは殿下ではありませんか」
愕然とした。
そんな重要なことを指示した覚えがなかった。一体いつ、そんな指示をしたというのだろうか。
「そんな馬鹿な」
「そもそもなぜ殿下は儀式をなさらなかったのです?」
宰相は鋭い視線を向けてきた。ウェンセスラスは思わず口を閉ざす。
「運命の相手ではない妃を迎えた場合、王族の方は運命にからめとられないために儀式をするはずです。確か結婚前日には行う予定だったと記憶しております」
それははるか昔、王族に嫁いだ女性たちが不幸になってきたことでできた儀式だ。儀式と言っても簡単で、一人である場所に行き、そこにある泉から湧き出ている水を飲むだけ。
特に何があるわけでもないのだが、その水を飲むことで運命との糸が切れると信じられていた。事実、水を飲んだ人たちは運命に会うことはなく、飲まなかった人間は運命に出会うことになったという。これはかなりの数を調べられているから理由がわからなくとも信頼性が高い。
政略結婚も多い王族は生まれてすぐに水を飲ませることが多い。しかしながら王位継承予定者は結婚するまでは「運命」を断ち切らない。これは運命と結ばれた人間が王になると国が繁栄されると伝えられていたからだ。だからウェンセスラスも結婚間際まで儀式をしていなかった。
結婚式を挙げる前、儀式をしなかったのはウェンセスラスの意思だ。運命の相手に会いたかったからではない。訳の分からない由来の水を飲んだ程度で切れるような運命ならば、何もしなくとも大丈夫だと勝手に思ったのだ。
儀式には意味があるとわかっていなかったのは、若かったからなのか、愚かだったのか。どちらともかと後悔をする。
「どちらにしろルーシェ様とは離縁が成立し、新しい正妃を迎える準備をいたしております」
「は?」
新しい正妃?
理解できずに呆ければ、宰相が不審そうに眉を寄せた。
「運命の相手が現れた場合、正妃がいれば速やかに離縁し、新しい正妃として迎える。これがこの国の王族の決まりです。ただ、今回の運命のお相手――ティナ様は平民ですから、正妃教育を受けていただき、最低限正妃としての振る舞いを身を付けてから婚姻となります」
「ティナ?」
「殿下、相手の名前を知らないのですか?」
相手のことは何一つ知らない。
そんな言葉を飲み込んだ。運命だと思えるほどの相手なのに、どこかおかしい。
それは宰相も思ったのか、難しい顔をして黙り込む。重苦しい空気が執務室を支配した。どれほどそうしていたのか、瞬く間かもしれないが、ウェンセスラスには非常に長い時間に感じられた。
「確認ですが、あの方は本当に運命の相手なのですよね?」
「……目が合った時にはからめとられた。あの不可思議な感覚はそうだと思う。ただ」
このようなことを言ってしまってもいいのだろうかと、逡巡した。ウェンセスラスの躊躇いを感じたのか、宰相は静かに促した。
「ただ、なんでしょうか?」
「今はその感覚が全くない。逆に何故、あの女を運命だと思ったのかさえ疑問だ」
宰相は頭が痛そうに眉を寄せた。
見知らぬ女に運命を感じ、取りつかれたように情を交わした。それなのに、大切にしたいとか、常に一緒にいたいとかそういう感情が全く沸いてこない。自分自身でさえ、クソのようだと自嘲した。
「少し調べてもよろしいですか。おかしいことだらけだ。しかしですね、どんな結果になろうともよほどのことがない限り彼女を正妃に据えるのは仕方がないことだと諦めてください」
「何故だ。運命の相手ではないのなら、ルーシェを戻してほしい」
「公務で外出中に起きたことです。目撃者も多く、すでにルーシェ様に対する同情が大きい。運命の相手との出会いであるからこそ、国民も何とか飲み込んだのです」
宰相のもっともな言い分に、ウェンセスラスは項垂れた。後悔ばかりが襲ってくる。
「ティナ様が運命でなくても正妃になることは決定事項です。蜜月が終わったのであれば、明日からでも正妃教育を始めます」
「ルーシェをどうしても戻せないのか」
「無理です。ルーシェ様の場合は特例で残ることができたのですが拒否されました」
拒否と聞いて、ウェンセスラスの胸が苦しくなった。彼女がどんな気持ちでいたのか、想像するだけでも辛い。
「では子供たちだけでも」
宰相はウェンセスラスに呆れたような目を向けた。その咎めるような眼差しに、ウェンセスラスはそれ以上の言葉は紡げなかった。
******
正妃教育が始まって、半年。
ウェンセスラスだけでなく、国王夫妻初め大臣たちが軒並み頭を抱えていた。「運命の相手」として認められたティナであったが、とても王太子の正妃にできるほどの能力がなかった。
王都にある小さな雑貨店の看板娘であったが、要領も悪く向上心もなく集中力もない。その上、贅沢だけは早くから馴染み、ドレスや宝飾品を平気で強請ってくる。ある程度は与えたが、必要以上は許可するつもりはない。
城に仕えている者たちも傍若無人な振る舞いに、日に日に彼女を見る目を険しくしていく。王太子妃の教育の一環としてウェンセスラスの生母である王妃も関わっていたが、最近ではその態度の悪さに機嫌を損ねてしまい、ティナと顔を合わせることもしなくなっていた。
それでも、と思い優秀な家庭教師を招いたが、軒並み匙を投げるほどだった。
現状を問題視した国王はウェンセスラス、宰相、そして教育責任者である大臣を執務室に呼び出していた。
「やはり運命の相手ではなかったのでしょうな」
執務室に呼び出されていた大臣がどこか達観したような柔らかな表情で呟いた。
王族に用意された「運命の相手」はいつの時代も才能あふれる人物だった。他とは一線を画した閃きによりこの国は発展していったと言ってもいいほどだ。時には礼儀作法も苦手だった「運命の相手」もいたようであるが、それ以上に慕われる人間だったと記録されている。
だからこそ、「運命の相手」というのは身分に関係なく一目置かれる存在だった。
「それでも正妃にしなければならないでしょう」
苦々しい色を浮かべて告げるのは宰相だ。ウェンセスラスはため息を押し殺して目を瞑った。己の選択がこのような状況を引き起こしていることは重々承知していた。
「しかしながら、公務のできない正妃を迎えることはいかがなものか」
咎められるとわかっていても、大臣ははっきりと主張する。この中で誰よりも身近にティナを見ていたからこそ、彼女がその立場に見合った働きができないことを知っていた。
沈む空気の中、ようやく国王が口を開いた。
「ウェンセスラス、最近ティナ嬢と顔を合わせていないと聞いているが理由はなんだ?」
「……忙しくて時間が取れないだけです」
顔色を変えずにウェンセスラスはそう答える。国王は軽く頷く。ウェンセスラスが父王の目を見たが、その目からは感情が読み取れなかった。
「そうか。ルーシェを戻したいと言ったらお前はどうする?」
「陛下!」
驚きの声を上げたのは宰相だった。宰相は何があってもティナを正妃にするつもりでいたため、この発言を聞き逃すことができなかった。国王は宰相の咎めるような眼差しを受けて、肩を竦めた。
「あの娘は運命の相手ではなかった。そうなれば、無理に正妃にする必要もなかろう」
「それは良い考えだ!」
ウェンセスラスは眉をひそめたが、同意した大臣はにこにことどこか嬉しそうだ。少し浮かれたように続けた。
「運命の相手というものがいたからルーシェ様も王子殿下を連れて出て行かれたのです。その運命の相手がいないのであれば、離縁自体を白紙に戻しても支障はないでしょう。それに国民はルーシェ様がとても好きですから」
「しかし……」
ウェンセスラスはその案にどうしても飛びつけなかった。ルーシェを傷つけたことで、彼女は出て行ったのだ。今更戻って来てくれるとは思えない。
「流石にそれは早計では? ティナ様も正妃候補として教育中ですし、まだ芽がないわけではない」
宰相が先走る大臣を制するようにやんわりと言った。
「適性がない者を無理やり勉強させるのも気の毒だとは思うが。どうです? 一度ルーシェ様に殿下から手紙で戻ってくるように伝えてみたら」
「大臣!」
宰相が目を見開いて大臣を睨みつけた。大臣は肩を竦めた。
「ルーシェ様はこの国を愛していらっしゃる。事実を知れば、きっと戻ってくださるはずだ。それにね、私はルーシェ様以外を認めるつもりはない」
冷ややかな宰相に比べて、どちらかというと大らかな空気を持つ大臣のヒヤリとした声にウェンセスラスは体をこわばらせた。大臣はじっとウェンセスラスを見つめ、視線を外さない。
「この国の中枢にいる人間であれば誰だって思っていることですよ。殿下が頭を下げて迎えに行ってもいいぐらいだ」
「それ以上は慎め」
宰相が大臣の言葉を遮った。大臣はウェンセスラスから宰相に視線を動かした。
「不敬だというのなら、今すぐここで職を辞しても構いませんよ」
「そういうことではない。わかっているだろう?」
宰相がイライラした様子で言葉を吐き出す。大臣はにんまりと笑った。
「わかっていますよ。ですから初めは現実を飲み込んだ。それなのに、運命の相手ではない? ふざけているのかと大声で怒鳴りたい気分です」
「……大臣、気持ちはわかるがそこまでにしてやってくれ。しばらく様子を見て、その後、正妃として相応しいかどうか判断することにしよう」
黙って様子を見守っていた国王は最後にそう締めくくった。
ウェンセスラスとしてはルーシェに戻ってもらいたい気持ちも大いにあった。大臣の言うように、頭を下げて戻ってくれるのならいくらでも下げたい。
だがそんなに簡単にはいかないことは容易に想像ができた。もちろん、戻って来いと王命で従わせることはできる。ただしそれは彼の取り戻したかったものではない。
一つの歯車が狂っただけでこれほどまで状況が悪化するのかと、暗澹たる思いだった。