庭園にて
感情の浮き沈みの激しい2か月だった。色々な情報が一度に入ってきて半ば混乱していたルーシェだったが、日常生活を送っていくうちに気持ちも次第に落ち着いていった。
毎朝、時間ギリギリの子供たちを見送り、お茶を飲んでから家の仕事をする。ルーシェの仕事は女主人としてこの小さな屋敷の切り盛りすることだ。生活費等は慎ましく暮らす分には使い切れないほど貰っているので、あまり心配はいらない。
他には気晴らし程度に3日に1回ほど孤児院へ行って、読み書きと計算、それから女子には刺繍を教えていた。外の繋がりは気持ちを前向きにするからと、クリスに勧められて始めた。
先送りしている気もするが、何も考えずに他のことで頭を一杯にしたかった。まだウェンセスラスのことを冷静に考えるだけの余裕はなかった。
だけど現実はそんなに甘くなく、フォルティア国が子供たちを呼び戻そうとしている動きはいつまでも無視することはできない。ウェンセスラスの意向が強いように思えるが、「運命の相手」がいるのなら子供たちはいずれは邪魔になる。それは明らかなので、宰相やルーシェの父であるレトナーク侯爵に万が一の時のお願いをしておけば、どうにかなりそうだ。
もう一つはクリスとのこと。
クリスは幼馴染と言っていいほどの関係なので、彼が好きか嫌いかと言われれば好きと答えられる。フォルティア国に戻ればクリスは侯爵家の3男で、ウェンセスラスの学友という立場だ。ウェンセスラスの側近にならなかったのは、いずれフォルティア国を出てイーリック国の母親の家の爵位を継ぐことが決まっていたからだと聞いたことがある。
事実、ルーシェとウェンセスラスの婚儀に立ち会った後、すぐさま国を出た。
「ルーシェ様」
仕事をしている私室でこれからのことを考えていれば、ダナの呼ぶ声がした。驚いて顔を上げれば、扉の所にダナが立っていた。
「ああ、ごめんなさい。ぼんやりしていたわ。何かしら?」
「お客様ですが、どうなさいますか?」
「誰かしら?」
来客の予定はなかったので、眉をひそめた。
「プレスコット伯爵様です」
クリスの名前が出て、ほんのわずかだけ断ろうかと迷う。今はまだ気持ちの整理ができていないのと、これからのことがまとめ切れていない。そんな状態であったところで、気持ちはぐらつくのではないかと危惧した。
ルーシェのそんな迷いを感じたのか、ダナはそっと確認してくる。
「お断りしましょうか?」
「……いいえ。応接室に通してちょうだい」
ルーシェは机の上に広げた書類をひとまとめにすると、立ち上がった。簡単に自分の身なりを整えた後、応接室へ向かう。
応接室の長椅子に座っていたクリスはルーシェの姿を見ると、すぐさま笑顔になった。その優しい笑顔に彼女も自然と笑顔になる。
「今日は突然どうしたの?」
「ルーシェと一緒に出掛けたいと思って誘いに来たんだ。今日の予定はないと聞いていたのでね」
「情報提供はエヴァンかしら?」
目を細めて確認すれば、彼は悪びれることなく教えてくれた。
「違う。ジョルダンの方だよ」
「ジョルダンが?」
どうしてジョルダンがクリスに予定を教えているのか、そもそもなぜ会いに行ったのか。
その話を聞いていなかったルーシェは顔をしかめた。
「もしかして家に来たことを話していなかったのか?」
「ええ、聞いていないわ」
「そうだったのか。ジョルダンが色々ばらしてしまったと懺悔されてね、謝りに来たんだ。そのついでに君の予定を聞いた」
「あの子ったら……」
大人の事情が分からないのは仕方がない。ジョルダンはまだ7歳だ。だけど、だけどもう少し人の気持ちを考えるとか、秘密を明かさないとか配慮が欲しい。ため息をつけば、クリスが小さく笑った。ルーシェの気持ちを切り替えるように、出かけ先について話し始めた。
「少し前に知り合いから綺麗な庭園があると聞いてね。是非ルーシェと行きたいと思っていたんだ」
「その庭園は遠いの?」
「郊外だがこの屋敷からなら近い」
「そう。では出かけましょうか。支度をするから少し待ってもらえる?」
せっかくの誘いだからと自分に言い訳して、ルーシェは慌てて自室に戻った。ダナに手伝ってもらいながら、外出する支度をする。何度も姿見で確認して、はっとした。
「何をやっているのよ。これではなんだかクリスと出かけるのを喜んでいるみたいじゃない」
「よろしいではありませんか。せっかくのお誘いですから」
「そういうのではないのよ」
「わかっております。さあ、後はこの香水を付けるだけですよ」
嬉しそうに微笑みながらダナはそう言って香水を振りかけた。微かだがほんのりと甘い香りが漂う。庭園に行くということで匂いがきつくないものを選んでくれたようだ。
「ねえ、本当に誤解しないでほしいのだけど」
「わかっていますよ」
ダナの思っているようなことではないのだと再度、念を押した。だが、ダナはわかったという割にはにこにこと笑顔だ。絶対にわかっていない。
「……では行ってくるわね」
「いっていらっしゃいませ」
どこか嬉しそうなダナに見送られながら、クリスと共に馬車に乗った。
******
「今日は断られるかと思っていた」
庭園についてゆっくりと歩き出してから、クリスがそうぽつりと漏らした。ルーシェは彼の腕に自分の手を添えたまま探るように見上げる。
「どうして?」
「ジョルダンから情けない話もばれてしまったし、ルーシェはまだ気持ちの整理がついていないだろう?」
「そうね、まだ整理できていないわ」
正直に伝えれば、クリスはわかっているというように頷いた。
「君にとってウェンセスラス殿下は人生においてほとんどを占めていたんだ。わかっているんだ」
「……クリスはいつから殿下のことを愛称で呼ばなくなったの?」
つい気になって聞いてしまった。クリスはルーシェが婚約者となる前からウェンセスラスと仲が良く、彼からウェンと愛称を呼ぶことを許されていたはずだ。
「この国に来てからだ。この国の人間になったからけじめみたいなものだよ」
「けじめ? 気にせず昔のように名前を呼んだらいいのに」
納得できずに呟けば、クリスは笑った。
「ウェンセスラス殿下とは8年も会っていないから、呼び方を元に戻すのは難しいな。それに色々含むところがあるから」
クリスは初恋を拗らせて可哀想なんだ、というジョルダンの言葉が脳裏をよぎった。その初恋がルーシェであり、ウェンセスラスに対して何かしらの負の感情を持っているのかもしれない。
自分が聞いてはいけないことを聞いた気がして、ほんの少しだけ身じろいだ。自分のことをずっと思っていたのだと改めて認識すれば、何故か恥ずかしくなってくる。
「ルーシェ?」
突然、狼狽えた彼女にクリスが首を傾げた。
「何でもないわ」
そう言いながらもルーシェはすごく意識していた。
自分と並んでも頭一つ分高い身長、近くに立つことで仄かに彼の使っている香水が鼻腔を擽る。
柔らかそうな少し波立った金髪に端正な顔立ち。
彼の気遣いや優しさ、心の広さは十分知っていた。いつまでも前を向いて進めないルーシェを甘やかす。
「そう? ほら、見えてきた。この庭園は品種改良された薔薇で有名なんだ。仕事で出向いた時に、ちょうど満開だと聞いていてね」
促されて歩けば、所狭しと咲き誇るバラがあった。すべて同一品種なのか、同じ色で同じ形をしていた。大輪ではないが、沢山の房を付けているので圧巻だ。
「素敵だわ」
ほうっとため息をつけば、クリスも同意する。
「本当だ。ルーシェを連れてこられてよかった」
「そんなこと言っているけど、クリスも恋人ぐらいいたでしょう?」
ついつい余計なことを聞いてしまった。詮索するつもりなどなかったが、これほど素敵な男性なのだ。しかもお国柄で恋愛には積極的でもある。
彼がずっと一人でいたとは思えない。
「嫉妬しているのかな?」
「違うわ。ちょっとした好奇心」
くすくすと笑ってクリスの期待を打ち砕けば、彼は大げさに項垂れた。その仕草がおかしくて、楽しくなってくる。
「そうだよな。わかっているんだ」
「わたしなんて放っておいて、クリスは別の幸せを探すべきだわ」
きっぱりと言い切れば、クリスは力なく首を左右に振った。
「その悩みはすでに過ぎ去っている。まあ、時間はあるから、のんびりと口説くよ」
「こちらもやりにくいからやめてほしいわ」
そんな文句を言いながらも、何故か気持ちは弾んでいた。