元夫からの手紙
馬車が止まった。到着した場所は、この国に移住した時からお世話になっているプレスコット伯爵家の屋敷だ。現当主であるクリスはルーシェの幼馴染の一人で、結婚する前までは交流があった。ルーシェが結婚した少し後、彼の母親の実家を継ぐために、こちらへ国籍を移して以降は戻ってこないので疎遠になっていた。
どうやらケイトリンが気を利かせて、離縁して移住したルーシェ母子の世話を頼んだようだ。この半年、ルーシェたちの事情を知っている彼にどれだけ助けられたことか。何も知らないルーシェたちが生活に馴染み、それなりにやっていけるようになったのは彼の存在も大きい。
馬車を下りる前にさっと自分の格好を点検した。
最近は滅多に着ることがなくなった体を締め付けるドレスを身に纏い、ヒールの高い靴。
豊かな薄茶色の髪はアップにまとめている。宝飾品は髪飾りだけだ。
王太子妃であったころに比べればかなり簡素であるが、おかしくないと自分で合格点を出す。
「ようこそいらっしゃいました」
御者に手を貸してもらい馬車から降りれば、玄関で待っていた家令から丁寧な挨拶を受ける。
「こんにちは。約束の時間よりも少し早いけれど大丈夫かしら?」
そう尋ねれば、家令は軽く頷いた。
「旦那様はすでにサロンでお待ちしております」
家令に案内されてサロンに足を踏み入れれば、彼の姿が見えた。仕事を持ち込んでいるのか、書類を広げ険しい顔をしている。普段、ここで会うときは穏やかに微笑んでいるのに、よほどのことが書かれているのだろう。
「旦那様、ルーシェ様がご到着されました」
家令がそう告げれば、彼はぱっと顔を上げた。久しぶりに会った彼は目の下にクマを作り、いつもは小奇麗な隙のない格好をしているのに、どこか疲れたような雰囲気を纏っていた。いつもの余裕など少しも見られない。ルーシェは心配になりながら、声を掛けた。
「こんにちは、クリス」
「ルーシェ」
「何やら難しい顔をしているのね。もし時間がないようなら、わたしのことは後日にしてもいいのよ?」
「いや、これは……」
クリスが珍しく口籠った。驚きながらも黙って待っていれば、彼は気持ちを切り替えるために大きく息を吐いた。
「座ってくれないか? 今、お茶を用意する」
「忙しいようだから、お茶はいらないわ。用件だけ話してちょうだい」
「これは君にも関係あることだから、気にしなくていい」
ルーシェに関係あると言われて、眉をひそめた。彼は隅に控えている使用人にお茶を用意するようにと指示をしている。
「嫌な話?」
「そうだな。嫌な話だ」
はっきりと断言されて、嫌な話がなんであるかある程度想像できた。困ったように首を傾げれば、クリスはテーブルの書類の間から、2通の手紙を取り出した。
「先にこの手紙を読んでもらえないか」
見慣れた封書に思わず顔がこわばった。じっと目の前に置かれた2通の封書を見つめた。表にはルーシェの名前が書かれている。その筆跡に思わず唇を噛みしめた。
「一つは宰相から、もう一通はウェンセスラス殿下から。君宛てだったが、先に読ませてもらった」
「すべての手紙はクリスに任せているから気にならないけど……。内容を知っているから、そんなにも浮かない顔をしているの?」
そこで彼は再び大きくため息をついた。あまりにもいつものクリスと違っていて、どんなことが書いてあるのか不安になる。
再び2通の手紙に視線を向けた。
「できるならば、ウェンセスラス殿下からの手紙を先に読んで欲しい」
「……わかったわ」
不安に思いながら、ウェンセスラスからの手紙を手に取った。気が進まないがウェンセスラスの手紙を広げた。よく見知った筆跡だ。代筆とかではなくて、本人が書いたもので間違いない。
季節の挨拶もなく、謝罪の言葉から始まっていた。感情の揺れがあるのか、文字が乱れている個所もある。読み進めていくうちに、次第に眉間に皴が寄る。同時にむかむかした気持ちが沸き起こってきた。
「読み終わったら、宰相の手紙を」
ウェンセスラスからの手紙を何度か読み直してから、宰相の手紙を読む。2通とも読み終わって、クリスを見た。
「どういうことかしら? わたしの頭がおかしくなった?」
「本気だと思うよ。こちらに現状の報告書がある」
そう言って先ほどまで熱心に読んでいた書類をルーシェの方へと押しやった。随分と分厚い報告書であるが、手に取りざっと読んでいく。
ルーシェは驚いたように声を上げた。ふふふと笑って、書類をテーブルの上に戻した。
「もし殿下がお相手を見つけても、わたしを無視するようなことをしなければ、少しは協力したかもしれないけど――あれはないわね。突然、殿下は彼女に熱烈なキスをし始めたのよ。しかも公務の途中で!」
あの日を思い出し、ぐっと手を握りしめる。深く愛し合って結婚したわけではないけど、ずっと幼いころから彼の隣に立つようにと教育され、家族として確かに愛していた。
王族だけが持つ「運命の相手」についても理解していた。でも現実には目の前で繰り広げられれば、理解なんて感情の前には何の意味もない。
どうしてという疑問と、元に戻ってほしいという希望、一目合っただけでそれほどまでお互いしか見えなくなるのかという悔しさ。
色々なものがルーシェの胸に押し寄せた。何とか冷静に離縁できたのは、王太子妃としての矜持があったからだ。
「ルーシェ」
ルーシェの感情の高ぶりを宥めるようにクリスが彼女の名前を呼んだ。ルーシェは感情をあらわにしたことに気がつき、大きく息を吸って気持ちを整える。
「……ごめんなさい、クリス。大丈夫よ」
「ウェンセスラス殿下はルーシェに戻って来てもらいたいようだ。だが宰相はルーシェに戻ってもらうつもりはないんだ」
「そうね。あまりにもわたしを馬鹿にした話ですものね」
「――君がもしかしたらウェンセスラス殿下を許して戻ってくれると願っているのかもしれない」
クリスの言い分はわかる。わかるが、聞いただけでも怒りがこみあげてくる。
許してほしいと、戻ってほしいと願われて戻ってどうなるというのだろう。
フォルティア国の王位継承者として育てられてきた二人の息子がいずれ蔑ろにされる。いくら身分や金銭を保証されても、不幸になる未来しか見えない。
「わたしは絶対に戻らないわ」
「それだけ強い意志があるなら……俺と結婚しないか?」
「はい?」
言葉が形にならずに耳からすり抜ける。ぱちぱちと瞬いてクリスを見た。クリスはひどく真剣な眼差しをルーシェに注いでいた。
「君たち親子を守りたいんだ。こちらで結婚してしまえば、簡単に国に戻れなくなる」
「クリス、結婚はわたしのような訳ありではなくて、もっと条件のいい人とした方がいいわよ?」
クリスの申し出は有難いが、友人である彼にこれ以上負担を強いることはできない。そう思って答えたのに、彼はひどく不機嫌そうな顔をした。だがすぐにそれも消える。いつもと同じにこやかな笑顔を見せた。
「ルーシェ。俺がこの年まで結婚しなかったのは、愛している女がいるからだ」
「そうなのね。だったらなおさら――」
「愛している女は君だよ。弱みに付け込んでいるのはわかっているが、この機会を逃すつもりはないんだ」
「え?」
きっぱりと言い切る彼に返す言葉が出てこなかった。ただただクリスを見つめていた。クリスは立ち上がると、ルーシェの前に膝をついた。そっとルーシェの手を取って唇を押し当てる。
「ルーシェ、俺と結婚してくれませんか?」
クリスのいつもとは違う真剣な眼差しにルーシェは頭の中が真っ白になった。