隣国での生活
こぽこぽと優しい音とふわりと広がるお茶の良い香り。
カップに注がれたお茶は鮮やかな紅色だ。
カップに手を伸ばし、口を付けた。
王太子妃であったころに比べたら、朝から贅沢な時間だ。食事の間も公務の予定やら、問題への指示やら落ち着いてお茶を飲む暇もないほどだった。あの頃はそれが当たり前だと思っていたけど、こうして王太子妃を辞め、仕事も一人の手で負える程度になればいかに忙しかったかと理解できる。
「母上、今日は遅くなります」
「エヴァン、ヤバい。急がないと遅刻する!」
二人はそんなことを言いあいながら、忙しく身支度をする。前ならばもっと時間に余裕を持たせて行動させていたが、今は毎日時間ぎりぎりの生活だ。しかもジョルダンの口が確実に悪くなっている。
行儀が悪いと少し前まで注意をしてきたが、今後、平民として生きていくのだからと最近は見て見ぬふりをしていた。いざとなればそれなりに振舞えるだろうという判断もあった。
「エヴァン、タイが曲がっていますよ。直すからこちらにいらっしゃい」
「これぐらいならみんな同じだから、大丈夫」
それでもあまりにもよれているタイが気になってしまい声を掛けたが、さらっと流されてしまった。ジョルダンも見ればきちんとシャツのボタンが止まっていない。思わず眉を顰めれば、彼は小言を言われる前に誤魔化すようにへらりと笑った。
「時間がないから学校で直すよ」
「でも」
「あ、もう出かけないと! 母上、行ってきます!」
元気な挨拶と共に二人が出かけていく。何とも慌ただしい朝だ。二人を追いかけるように席を立ち、駆けだした二人を部屋から見送った。
「……子供は新しい環境に適応するのが早いわね。なんだかわたしだけ立ち止まっているみたい」
「よろしいではありませんか。学校が楽しいのはとてもよいことです」
「そうね」
家事を一手に引き受けているダナがルーシェの呟きを拾って朗らかに笑った。ため息をついて、椅子に腰を下ろす。ダナはテーブルの上を片付け始めた。
「この国の学校はとても教育が充実していますから将来が楽しみですね」
「そうね、ケイトリン様が勧めるだけあるわね」
半年前に国を出たルーシェ親子を受け入れてくれたのは、イーリック女王であるケイトリンだった。ケイトリンは王都から少し離れた場所にある王家所有の離宮を用意して待っていた。
年上の友人はあれこれと詮索することなく、ルーシェ親子に必要なものを揃えてくれる。一度、そこまでしてもらうわけにはいかないと断ったのだが、理不尽な理由で傷ついた友人を放っておけるかと大いに怒られた。それ以降、ケイトリンの厚意は受け入れている。
ケイトリンが用意したものの一つが息子たちの学校だ。イーリック国は学問がとても進んでおり、各国から留学生が集まっていた。
国を出る前の子供たちでは考えられないほど、現実的で子供らしい甘えをしなくなった。成長したと思えばいいのだろうが、頼られることが少なくなるとなんだか一人置いていかれたような気分になる。
確実に親離れし始めていて、とても寂しい。
そんな気持ちが表情に現れていたのか、ダナが片づけをしている手を止めた。
「ルーシェ様も落ち着いたら新しい恋でもしたらよろしいですわ」
「恋?」
「子供が親の手元にいるのはほんのわずかですから。母としての幸せと女としての幸せは両立しますよ」
「女としての幸せ、ね」
気になって呟いてみた。なんだか不思議な響きのある言葉だ。
ずっと婚約者が決められていたから、恋とか幸せとか考えたこともなかった。初めから一人の男性との信頼関係を築くことが求められていたし、ルーシェ達夫婦の前にはさらに「運命」が横たわっていた。
「もういい年だし、恋なんてしないわよ」
「そうでございますか? ルーシェ様はまだまだお若いし、とてもお綺麗ですよ。面倒に思わず遊び程度に男女の駆け引きを楽しんでもよいと思います」
「……気分が乗ったらね」
この国は国外からも色々な人を受け入れている影響なのか、独身者はとても恋に積極的だ。結婚と恋は別というのがあるのかもしれない。貴族であっても、よほど眉をひそめられるような状況でなければ恋は楽しむべきという風潮がある。年齢は関係ないのか、色々な恋の話はいつだって耳に入る。
軽い付き合いの恋人だから、次の恋が始まればスマートに別れる。
これは身分に関係ない考え方だった。
「婚約している方や既婚者は恋に現を抜かすなど愚かだと嗤われますが、独身者が恋も楽しめないのはこれもまたつまらない生き方だと思いませんか」
「その感覚がよくわからないわ。わたしの祖国では秘める恋をしても、楽しむ恋ははしたないと思われているから。子供がいるのに恋に現を抜かしているなんて外聞が悪いわ」
ダナが目を丸くしてルーシェを見た。
「はしたない、ですか? 独身なのに?」
「そうなるわね」
「国が変わればという事なのでしょうね。そう思えば、とても不思議に思います」
そう言いつつ変な表情をするダナに思わず苦笑した。
「離縁した夫のことはあれは仕方がないのよ。そういうものだと昔からわかっていたし、運命の相手に出会えることの方が少ないのだから、喜ばしいことなの」
最後は妻子さえも目に入らないほど運命の相手に引き付けられた元夫を思い出し、気持ちが重くなる。半年も経ったというのに、これほど傷ついているなんて自分でも驚きだ。
ダナは片づけを終えると、空になったカップに新しくお茶を淹れた。
「……一目惚れならばまだ理解できますけど、運命の相手でしたか? 決められた恋があるなんて信じられません。一過性の熱が去った後、とても空しい気持ちになりそうです」
「一過性の熱が死ぬまで続くらしいのよ」
「それはまた……世の中、理解できないことが多いです」
ダナは言葉を選びつつ、首を傾げている。そんな彼女を見て笑ってしまった。当事者であるルーシェさえ、未だ信じられない気持ちが強いのだから。
「そうそう、恋の前に婚姻の申し込みを断らないといけないわね」
「すべて断ってしまうのですか?」
「ええ。離縁して1年は時間を置かないといけないのよ」
まだ成人していない子供がいるというのに、次から次へと再婚話が舞い込んでくる。静かに暮らしたいと思っていたが、ケイトリンはそう思わなかったようで色々な人を紹介してきた。
相手はこの国の貴族がほとんどで、流石に相手も初婚ではない。再婚であっても、その身分が伯爵だったり、羽振りの良い子爵だったりとそれなりの人たちだ。結婚するつもりのないルーシェは角が立たないように、祖国での慣例を理由にすべて丁重にお断りしていた。
「そうでしたね。ではその間も恋人は作れないのですね」
残念そうにダナは言う。1年というのは表向きの理由で、恋人については特に制約はないのだが黙っていた。するつもりのない恋愛を勧められて、誰か紹介されても面倒くさいからだ。ルーシェにしたらこのまま独身で静かに過ごしたい。
「本日はどういたしますか?」
「特に用事はないから、家でできる仕事をするわ」
「わかりました。もし出かけるようでしたらお声をかけてください」
この屋敷には護衛を別にすれば、ダナと通いの下働き夫婦しか雇っていないので、できることは自分でやるようにしていた。本来ならもっと侍女や使用人を雇った方がいいのだろうが、時間に追われているような生活でもないし、着ているドレスも一人で着ることができる。この国のドレスの簡素さにバンザイだ。
徐々にこちらの生活に慣れ、一人でできることも増えてきた。
新しい生活を送りながら、それでもふとした瞬間に思いは祖国の方へと向いてしまう。
運命の人などというのは、王族の血が濃いほど出ると言われている。それでも過去150年の間、運命の人と出会った王族はいなかった。だから突然のことに王城は混乱した。国王と宰相は冷静であったが、王妃やウェンセスラスの弟妹たちはかなり感情的だった。運命の相手など関係なく、正当な妃なのだから出て行く必要はないとまで言い切ってくれた。
それが嬉しく、そして悲しくて。
残る選択などできなくて。
もしかしたら。
しっかりと夫婦の絆ができていたら。
運命の人と出会っていても、惹かれあわないのかも――。
心の奥底に何とも言えない苦しい思いが横たわっていた。