壊れたものは戻らない
ゆっくりと目を開ければ、そこは見慣れた部屋だった。
落ち着いたクリーム色の壁紙に、趣味の良い調度品。
ルーシェは部屋の中央に置かれていた長椅子に横になっていた。
時間がさかのぼったような不思議な感覚だ。この部屋は王太子妃としてルーシェがずっと使っていた部屋だった。離縁した後、片付けられたか、運命の相手の部屋になったかと思っていたのだが。
記憶にある部屋と少しの違いもない。
1年近くたっているのに、誰も何も言わなかったのだろうか。それがとても不思議だった。
「気がついたか?」
声を掛けられてそっとそちらに目を向ければ、ジェフリーが向かいの椅子に座っていて心配そうにこちらを見ている。ルーシェは自分がどうしてこんなところに横になっているのか、すぐに理解できなかった。不思議そうに兄を見つめ、首をかしげる。
「わたし、どうしたのかしら?」
「覚えていないか? 馬車から降りた途端にあのバカ王子が感極まってお前を力の限り抱きしめたんだ」
抱きしめた?
そんな優しい表現のものじゃなかった気がする。背骨が折れるかと思うほどの力だった。実際腰が今でも反り過ぎて痛い。
でもそれ以上考えるのは嫌で、横になったまま部屋の中をきょろりと見まわした。
「子供たちは?」
「今、サロンの方で王妃殿下たちと一緒にいるはずだ」
「そう」
どうやら子供たちの方がしっかりしているようだ。ルーシェはゆっくりと起き上がった。
「今、侍女を呼ぼう」
「そうね。身支度が終わったら、王妃殿下にお会いしたいわ」
「わかっている」
ジェフリーは立ち上がると、ルーシェに近寄った。大きな手でそっと頭をなでられた。幼い頃、ルーシェが嫌なことがあった後によくこうして頭をなでてもらった。
子供もいるいい大人にそんな慰めをしてくるのが、なんだかおかしくて笑ってしまう。
「もう子供じゃないのよ。大丈夫よ」
「そうだな。でも、顔色が悪い。ひどく参っているように見える」
「そんなに悪いかしら? だったら少し濃い目に化粧をしてもらいましょう。これからのことがあるのだから、もっとしゃんとしなければ」
ルーシェの意気込みにジェフリーはため息をついた。
「もしかしたら、という気持ちがなかったわけではない。ルーシェがクリスと一緒にいたいと思っても、やはり国のことになるのだから最後は戻ってくるのだろうと」
「ええ? それはないわよ」
兄の期待に気がついていたが、ルーシェは無視していた。子供たちが自ら戻るという事だけでも喜んでもらいたい。
「今ならわかる。ウェンセスラス殿下とお前の温度差がひどすぎる」
「……レトナーク侯爵家の人間として尽くせ、と言われるかと思っていたわ」
「確かにお前はレトナーク侯爵家の人間だ。だけど、不幸になってほしいわけじゃない」
「その言葉が聞けただけでも嬉しいわ」
ルーシェの言葉にジェフリーは苦く笑った。
「じゃあ、侍女を呼んでくる。しばらくしたら、また迎えに来るからここで待っていてくれ」
それだけ言い残すと、ジェフリーは部屋を後にした。
******
乱れた身なりを侍女達に整えられた後、ジェフリーに案内された場所は王族の私的なサロンだった。よくここで王妃たちとおしゃべりをしたものだ。まだ1年しかたっていないのに、ずいぶん昔のように感じる。
「私はここまでだ。また後で迎えに来る」
「ありがとう。お兄さま」
ルーシェは軽く手を上げてから去っていくジェフリーを見送ってから、サロンへと足を踏み入れた。
サロンは何も変わらない。前と変わらず温かくルーシェを迎え入れてくれる。昔を懐かしむ気持ちを抱きながら、テーブルに近づく。
「母上! 気がついてよかった」
ルーシェを見つけて飛んできたのはジョルダンだ。彼はぎゅっと抱き着いてくる。まだ自分よりも低い位置にある頭を優しく撫でた。
「心配させてごめんなさいね」
「ううん。母上が悪いわけじゃないから」
一度だけ強めにギュッと抱きしめてから、ジョルダンは離れた。ルーシェの手を取ると、テーブルの方へと引っ張っていく。
座っていた王妃が立ち上がり、変わらない笑顔でルーシェを迎える。
「久しぶりね。元気そうだわ、と言いたいところだけど、背中は大丈夫かしら? バカ息子が本当に申し訳ないわ」
「いいえ。王妃殿下もお変わりなく」
ルーシェは優雅に膝を折り、挨拶をする。にこにこと笑って王妃はルーシェに座るように椅子を勧めた。席に着けば、侍女が静かにお茶を用意する。
「話は二人から聞いたわ。貴女は自分の幸せを見つけたのね」
「はい。本来なら許されることではないかもしれませんが」
あまりにも好意的に受け入れられて、内心とても戸惑っていた。王妃はどちらかというとルーシェをここに留めたい人だと思っていた。その感情が顔に出ていたのか、王妃は面白そうに笑った。
「仕方がないわよ。二人に力説されてしまっては」
「エヴァンとジョルダンがですか?」
「そうよ。二人はとても成長したのね。ここを出て行ったときは貴女にしがみついて泣いているばかりだったのに」
王妃の声には嬉しさと、それから少しの寂しさを感じた。幼いころからルーシェを導いてくれた人だ。今日はひどく小さく見えた。
「運命の相手が間違いだったと聞いたのですが、一体どういう事でしょうか?」
「そうよね、詳細を知りたいわよね」
王妃はひどく疲れたようにその内容を教えてくれた。
それはどこか遠くのおとぎ話のような、悪い冗談のような話だった。正直なところ、話だけだったら誰も信じないだろう。
「昔、王子に恋した令嬢が用意した道具ということですか?」
「そう。どうやって作ったのかはわからないわ。そもそもその運命の相手とやらも今でははっきりしたことがわからない。調べてわかったことは、間違って運命の相手と思わせる道具があって、それをたまたま市井にいた彼女が手に入れて、試しにその道具を持って近づいてみた。そんなところね」
王妃はのどを潤すためにカップに手を伸ばす。ルーシェは良い言葉が思い浮かばず、沈黙していた。子供たちが変な表情をしているのは、父親だけを責めることができないからだろうか。
「ルーシェ」
居たたまれないような空気が漂い出したころ、名前を呼ばれた。ルーシェは反射的に顔を扉の方へと向けた。
いつの間にか、ウェンセスラスが立っていた。扉が開いたことにも気がつかなかった。
ルーシェはぎゅっと両手を握りしめた。
「こんなことをお願いするのは本当に業腹ものなのだけど。最後に話をしてもらってもいいかしら?」
「王妃殿下」
「わたしは貴女の意思を尊重するわ。だから、けじめをつけられるように話し合ってほしいの」
「……わかりました」
そもそもそのつもりで来たのだ。拒否するつもりはない。
それなのに、笑みを浮かべることすらできず、体も強張ってくる。自分自身の反応にルーシェはやや狼狽えた。
「二人とも、いらっしゃい。庭を歩きましょう」
エヴァンとジョルダンは心配そうにルーシェを見ていたが、すぐに王妃に連れられてサロンを出て行った。ルーシェは気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐くと、立ち上がり、膝を折って挨拶をした。
「ウェンセスラス殿下、お久しぶりです」
「ルーシェ、会いたかった」
久しぶりに会うウェンセスラスはやつれていた。精悍になったと言えば聞こえはいいが、どこか荒んだ様子も見られる。
だがルーシェと目が合うと、とろりと目を熱で潤ませた。
ルーシェは思わず一歩後ろに下がった。
何だろう、気持ちの悪いものを見たような感じ。
確かにこの人は1年前は夫だった人だ。久しぶりに会って、もしかしたら情でも湧くかと思っていた。長い間婚約者であったし、結婚した期間もそれなりだ。運命の相手についても幼い頃から徹底的に教育されている。
なのに、生まれた感情は気持ち悪さだった。
彼を見るだけで、あの日の二人の様子が鮮明に思い出された。
お互いしか見えていない熱量で、ルーシェを抱いた腕で別の女に熱烈なキスをする。
1年たった今も、思い出すだけでも吐き気がこみあげた。
彼は王太子で、この国は側室を認めているのだから、ルーシェ以外の女性を娶ることに忌避感はないはずだった。
最後の別れ方が悪かったのか。
「ルーシェ、顔色が悪い」
混乱しているルーシェにウェンセスラスは手を差し出した。
彼に触れてほしくなくて、伸ばされた手を無意識に払った。
乾いた音が辺りに響く。ウェンセスラスは目を見張ったが、ルーシェの感情を理解したのだろう。ぐっと手を握りしめて、諦めたように目を伏せた。
「すまない。本当にどうかしている」
小さな声だが、後悔の滲んでいるのがはっきりとわかった。それでも、その手をもう一度前と同じように受け入れることはできない。
ルーシェは青ざめたまま視線を自分の指先に落とした。
「……申し訳ありません。もう戻ることはできません」
「そうか」
場が重くなった時、軽い足音と、咎める護衛や侍女たちの声が聞こえた。バンと激しい音を立てて扉が開いた。
飛び込んできたのは、あの日見た運命の相手だ。まだ若い初々しいばかりの娘。
ルーシェはすっと表情を取り繕った。じっと冷静な目で礼儀のなっていない女を見ていた。
「どうしてこの城に貴女がいるの! 運命の相手はわたしでしょう!?」
ジェフリーがわざわざ隣国まで迎えに来た理由を理解した。確かにこれでは正妃にはなれない。
ルーシェはちらりとウェンセスラスに目を向ける。彼はため息をついて、表情を消した。
「ここに来る許可は出していない。言葉が理解できないのか」
威圧のある声に彼女は身じろいだ。庶民では着られないような上等なドレスを着ているが、彼女の仕草が身に着けているものの良さを駄目にしている。
聞いていた情報では、庶民で努力が嫌いな性格だとなっていたが。確かに1年たってもこの程度の振る舞いであるなら、そう判断されても仕方がないと思える。
「だって! わたしがいながら浮気なんて……ひどいわ」
「お前はわたしの運命の相手ではない。子供たちが戻ってくることが正式に決まったので、すぐに発表されるだろう」
「え?」
「気がつかないとでも思っていたか。私の家族を……幸せを壊して満足したか?」
ウェンセスラスが自嘲気味に笑う。信じられないものを見るかのように、ティナは一歩後ろに下がった。顔は真っ青で、唇が震えている。
「どうしてそんなひどいことを言うの? あの日、運命だと認めてくれたのはウェンじゃない」
「そうだな。そう思っていた。だが10日もしないうちに違和感だらけになった」
ルーシェはそっと息を吐いてから、ウェンセスラスの注意を引くように彼の腕に触れた。
「ねえ、その話は長そうだし、わたしには関係なさそうだわ。お二人の話は別の場所でしてくれないかしら」
「……もう駄目なんだな」
「そうね。わたしたちはお互いの努力の上に幸せな家族があったのよ。それを一方的に壊されてしまったのに、間違いだったからと言われても元には戻れない」
じっと彼の目を見つめたまま、思っていることを告げた。ウェンセスラスは身を切られるように辛そうな表情を浮かべたが、すぐに感情を押し殺した。
「わかった。ルーシェの意思を尊重しよう。子供たちのことは感謝する」
それだけ言うと、彼はわめく彼女を連れて出て行った。
終わったんだなと、初めて実感した。
今まではどこか不安定であった気持ちが、すとんと落ち着く。
「そういえば、渾身の一撃をお見舞いできなかったわ」
そんなどうでもいいことを呟きながら、無性にクリスに会いたくなっていた。