祖国へ
馬車の窓から流れる景色に、ルーシェはぼんやりと目を向けていた。
徐々に見慣れない景色から、どこか懐かしい景色に入れ替わる。
道の脇に植えてある街路樹や石畳、そして立ち並ぶ店や家。
どれもが懐かしく、心に優しく馴染んだ。
1年近くここを離れて他国で暮らしていたのだ。もっと見慣れない感じになるかと思っていたが、流れる景色を見ているだけでも懐かしくて胸がいっぱいになる。
この道を使って国を出るときには、もう二度と戻ってこられないだろうと悲しくてやりきれない気持ちだった。
それがこうして祖国に、王都へと向かって移動している。
「母上、大丈夫?」
心配そうに向かいの席に座るエヴァンが声を掛けてきた。窓の外からエヴァンへと視線を向けると、どこか申し訳なさそうな顔をしている。エヴァンを安心させるようににこりとほほ笑んだ。
「大丈夫よ。心配しないで」
「僕たち二人だけで戻ればいいと思うよ。今からクリスの所に戻っても……」
エヴァンは最後まで言葉にできずに言いよどむ。国を出る時のクリスの複雑な顔を思い出し、ルーシェは務めて明るい声で応じた。
「そんなわけにはいかないでしょう? これからクリスと一緒にいるためにも今は逃げてはダメなのよ。それにジョルダンから聞いたわよ。あなた達、殿下に一撃をお見舞いするつもりだって」
「……父子の語り合いだよ」
居心地が悪そうにジョルダンが言い訳をする。父子の語り合いと言いながら、その内容が拳で語ると聞いてびっくりした。
ジョルダンは国を出てからかなり活発になったとは思っていたが、エヴァンまで反対せずに真面目に検討しているというのだから面白いものだ。変に一人で気持ちに折り合いをつけるよりは、行動で示した方がいいのかもしれないと母であるルーシェすら思ってしまったほどだった。
「それにわたしも混ぜてもらおうと思って」
ふふふ、と笑えば二人は顔を見合わせた。よく似た二つの顔がルーシェに向けられる。
「母上?」
「よく考えたら、わたしったら何もせずに逃げ出してしまったのよね。それだけショックが強かったという事なのだけど。王太子妃ではなくて普通の女性として考えたら、あそこは今後のためにも殴っておくべきだったわ」
自分の両手を見つめ、わきわきと握ったり開いたりする。暴力など振るったことのない華奢な手はきっと大した打撃を生み出すことはないだろうが、それでも自分の心の中にある怒りを表に出すことは可能だ。
それに、宝石が沢山ついた指輪を二つほど嵌めておけば、少しは肉を抉ることもできる。最もルーシェの手持ちには華奢な作りの指輪しかなかったので、どこかで調達する必要があるのだが。
「母上……ヤル気?」
「もちろん、殺るわよ」
ジョルダンの軽口に、冷静に答える。ジョルダンがとてもいい笑顔を見せた。
「母上のそういうところ、大好き!」
「はあ」
嬉しそうにはしゃいだジョルダンに対して、エヴァンはため息をついた。
「母上、殴るのは良いですけど、ちゃんと絶縁を言い渡してからにしてください。僕たちは残るけれど、母上は国を出るのだから」
ルーシェはエヴァンの言葉に笑顔を引っ込めた。
「そのことだけど、本当にいいの? 殿下はともかく、あなた達のお祖父さま――陛下にお願いすれば、王位継承権を放棄する方向へもっていけると思うわ」
「もし父上が将来再婚して、子供でもできたらそうします。でも今は僕たちが後継者としていた方が国は安定するはずです」
この辺りは出発前にも沢山話し合った。ウェンセスラスの運命の相手は間違いだったと公表することは決定事項だとジェフリーが言っていた。そうなると、必然的に二人の周りは騒然となる。他国においての警備や色々なことを慮ると王位継承者として祖国に戻った方がいいということになった。
「本当に馬鹿よね。いっそのこと、運命の人だと押し切ってしまえばいいのに」
「それが難しいから母上の所に来たんだよ」
「お兄さまの情報が正しければね。元々、好意的に受け入れられたわけではないから、周囲の人の目は厳しめだと思うのよ」
ルーシェは自分がひどく冷静なことに気がついた。
前は辛くてどうしようもなくて、運命の相手のことを考えるだけでも苦しかったが、今はそのような感情はない。受け入れられたのだと思えば、寂しいような嬉しいような気持ちだ。
クリスを愛している。
ぎゅっと両手を握りしめた。思えば、ウェンセスラスとの愛とクリスへの愛は種類が違うのだろう。それでも確かにルーシェは幸せで、できるなら家族としてずっとありたかった。だけど壊れてしまった愛は脆くて、もう一度元に戻れるかと言われれば戻ることはできない。
もしかしたらウェンセスラスの元に戻れば、王太子妃として留められてしまうかもしれない。
国の外にいればいくらウェンセスラスが望んでも逃げることはできるかもしれない。
いくらでも手段がある中でケリをつけようと思えたのは二人の子供たちがいたからだ。
彼らは義務として国のために戻るという。それならばきちんと終わりにしないと誰もが前に進めないだろう。
「クリスは本当に迎えに来るのかな?」
ジョルダンがぽつりと呟いた。
「難しいんじゃないのかな。ケイトリン女王陛下がすぐに許可を出したとしても留守の間の手配があるだろうから」
「でもクリスは一人残されるのがすごく嫌そうだったね」
「母上が戻ってこられないと思っているのかもしれないよ」
二人はそんなことを話しながら、話題は次々に移り変わる。本音を隠さず話しているが、家族だけの馬車の中は穏やかだった。他の馬車にいるジェフリーがいたら、このような家族の時間を持てなかっただろう。そして、この馬車での旅が終われば、心を隠さずに話すことも難しくなる。
王都に入る前の街に用意された高級宿では、王宮から派遣されてきた使用人と侍女たちが待機していた。見知った顔にルーシェは笑顔を浮かべる。
「お久しぶりね」
「おかえりなさいませ。妃殿下」
感極まって涙を浮かべながら皆が頭を下げる。ルーシェは困ったように笑った。
「もう妃殿下ではないのよ。できればルーシェと呼んでもらいたいわ」
「いいえ、わたしたちにとっていつまでもルーシェ様は妃殿下です」
きっぱりと言われてしまって、ルーシェは苦笑いになる。ここで押し問答をしても、ますます頑なになることだろう。
「では正式な場では遠慮してくださいね」
それだけを約束させて、ルーシェたちは侍女たちに世話を焼かれた。明日、王城に入るための支度は非常に時間がかかるのだ。夜は長いな、とぼんやりと思いながら、手入れをする侍女たちに体を任せた。
翌日、昼前に宿を出発した。
移動は順調で、馬車がフォルティア王国の王都に入った。
「まもなく王城に到着します」
「ありがとう」
外から御者の声がかけられた。ルーシェは大きく息を吸って背筋を伸ばす。
もう一度自分の姿を点検する。ここで無様な格好は許されない。
飾りの少ない簡素なドレスであっても、仕立ては素晴らしく、ルーシェを控えめながらに引き立てる意匠。
皴ができていないことを確認しながら、向かいに座る息子たちの格好もチェックする。
「二人とも、素敵だわ」
1年近く前に出て行った時にはない頼もしさを感じた。もう何も知らない子供ではない。必然とはいえ、精神的にも成長したと思う。
かたんと小さな音を立てて馬車が止まった。
御者が降りて、馬車の扉が開く。外の光が馬車の中に差し込んだ。
「では、いきましょう」
ルーシェは二人の子供たちを促し、馬車の外へ出た。
「ルーシェ!」
馬車から降りた瞬間、恐ろしいほどの力で抱きしめられた。大きな体がルーシェを包み込み、胸を圧迫する。あまりの強さに息ができず、慌てて自由になろうと強く押し返した。
だがルーシェの力では押し返すどころか、ますます力強く抱きしめられた。ルーシェの意識が飛んだ。
「母上っ!」
「父上、離して下さい! 母上を殺す気ですか!?」
意識が薄れていくルーシェの耳に、子供たちの罵声が聞こえた。