来訪者
ケイトリンの呼び出しに応じて、ルーシェは再び王宮にやってきた。前回のお茶会から5日ほど経っていた。あれからも色々と考えたが、やはりルーシェにはフォルティア国へ帰る気持ちは起きなかった。
今日はそれをはっきりと伝えようと決めていた。心を決めたせいなのか、とても気持ちが軽い。案内する侍女の後ろを歩きながら、ケイトリンに伝えた後、クリスにも会おうと計画する。
「こちらです」
案内された部屋に入って、すぐに足が止まった。部屋にいた男を見て、ルーシェは目を見開いた。声が出ないほど驚いたルーシェを面白そうに男は見つめる。ルーシェと同じ色をしたやや長めの薄金茶の髪は癖がなく後ろで軽く結わえており、瞳は赤みのある茶色だ。すっとした立ち姿は堂々としていて存在感があった。
「やあ、久しぶりだね」
明るい調子での挨拶はよく知ったもの。
ただただ目の前に立つ人を茫然と見つめていれば、彼はふわりと笑った。
「挨拶はしてくれないのかな? 私の可愛い妹は」
「……お兄さま」
ケイトリンの話を聞いた時、近いうちに顔を合わせるのだろうなとは思っていたが、思った以上に早かった。まだ5日しか経っていない。フォルティア国からイーリック国まで馬車では15日はかかる。それを考えれば、ケイトリンに手紙を送ってからすぐにこちらに向かったのだろう。
「予想通りに驚いてもらえて嬉しいな。座ろうか?」
椅子を勧められて仕方がなく腰を下ろした。ジェフリーはルーシェの2歳年上の兄だ。ルーシェが勝てない人でもある。警戒しながらジェフリーをじっと観察した。
ティーカップの擦れるわずかな音を立ててお茶が用意される。接客をする部屋であるためか、非常に香り高いお茶を使っている。緊張感のある対面でなければ、楽しめただろう。
侍女がお茶を用意し終わると、ジェフリーは手を振って退出を促した。隣室に控えているからと一言添えて、綺麗なお辞儀をして侍女は部屋を後にする。
その姿を見送りながら、頭の中は忙しく働いていた。ケイトリンの話から、ジェフリーはルーシェ達を連れ戻しに来たのだとわかっていた。丸め込まれないようにとお腹に力を入れる。
「いつこちらにいらしたのですか?」
「昨日到着した。日程を詰めて移動してきたんだ」
「……お兄さまも忙しいでしょうからこちらの様子を見に来なくてもよかったのに」
思わず本音が零れる。ジェフリーは面白そうにわずかに眉を上げた。その余裕の態度がルーシェの気に障った。
「女王陛下から聞いているだろう?」
確認に満ちた問いに応えたくなかったが、答えないこと自体が答えだと思い至る。むすっと唇を尖らせればジェフリーは低く笑った。
「……殿下のお相手が間違いであったということですか?」
「そう。それでも立場をわきまえていたら何とか飲み込んだけどね」
「どういうことです?」
その言い方に棘があって思わず聞いてしまった。ルーシェはしまったと思いながらもどうしても気になる。
よく考えてみれば、ルーシェの家族は現状を受け入れて国を去っていくのを見送った。それがわざわざ迎えに来るのだ。そうしなければならない出来事が起きたとしか考えられない。
聞かなければいいのに、と自分自身思いつつも兄の言葉を待つ。
「王太子妃として公に出せるような人物ではなかったということだ。できないにしても、まだ努力する姿を見せていたら違ったかもしれないが、茶会や夜会など煌びやかなことしかしようとしない」
「……茶会と夜会がこなせるのであれば、十分では?」
茶会、夜会の主催となるとかなり大変だ。大きなところでは警備、招待する人たちの関係、さらには茶会なら取り扱う菓子やお茶、夜会なら食事やお酒など手配は多岐に渡り、主催者の手腕が問われる。
あまりお粗末な会になれば、それがそのまま評価になり今後の活動にも影響する。
そう考えれば、普段の振る舞いに多少問題があっても十分なはずだ。
「主催ではない。参加者の立場ですでに白い目で見られている」
「はい?」
「気に入った男にはベタベタとして、殿下が如何に冷たく扱うかを訴える。挙句の果てには、殿下に嫉妬してもらいたいからと二人になりたいとバルコニーに誘う始末」
頭が痛くなってきた。出来の悪い子供の話を聞いているようだ。社交界に出せないレベルである。
「殿下のお相手の方は殿下と仲が悪いことを公言しているのですか?」
「ああ」
「……」
ジェフリーは思い出したからだろうか、やや不愉快そうに眉を寄せた。気持ちを変えるためか、いつもよりも乱暴な手つきでお茶を飲む。
「なんといっていいのかわからないのですが……その態度から運命の相手ではないとわかったのでしょうか?」
「上層部だけが殿下から直接聞いた。上層部以外も疑問には思っているだろうが、出会った時の印象も強く残っているから年齢差や身分差によるものだと考えているだろう」
何をしているのだろう。
思わず遠い目になった。あれだけ熱烈に「運命の相手」だと言って攫うように城に連れて行ったのだ。あの日のことは今でもはっきりと思い出すことができる。つい先ほど見たかのような鮮明な記憶はルーシェの胸を苦しくした。
「平民が悪いとは言わないが、それを運命の相手なのだからと努力もせずにいれば反感を買う。貴族も平民も厳しい目で見ている」
「それとわたしが国に戻る話は別だと思います」
ジェフリーの怒りも分かるが、すでに離縁して国を出たのだ。ウェンセスラスが「運命の相手」を間違ったとしても、過去はなくならない。
「形などどうにでもなる。過去にも例外があったことはすでに確認済みだ。お前たちが戻れるようにいくらでも手を尽くそう」
「このことについて殿下は何と言っているのです?」
ジェフリーの口ぶりから、彼一人の考えではなく議会さえも通せるほどの意見だと受け止めた。なかったことにはできないが、新しい決まりを作ることはできる。国を出る時に宰相も例外があると言っていたから、きっとその裏付けが取れたのだろう。
「何も。是とも否とも言わない。だがお前たちが出て行ったのを知ってひどく後悔している」
ルーシェは大きく息を吐いた。
「わたしは戻りません。彼女が王太子妃の器ではないのなら、成人した令嬢を正妃として迎えればいい」
「ルーシェ?」
ジェフリーは驚いたような声を上げた。ルーシェの言葉が信じられないような顔をしている。ルーシェは気を引き締めた。流されないためにも、兄にちゃんと伝えなければならない。
「何を驚きますの? 殿下はまだ28歳。今から後継者を作っても十分間に合います。もし年齢を気にしているのであれば、正妃を迎えるのと同時に側室を数名後宮に入れたらいいのです」
フォルティア国は国王と王太子のみ側室を認めていたが、ウェンセスラスはルーシェと結婚した後、側室は作らなかった。ルーシェが二人の息子を産んでいたため、余計な争いの種になることを良しとしなかったからだ。
だがウェンセスラスの父である国王には側室が二人ほどいる。どちらも王子王女を産んでいる。王妃と側室たちの仲は良いとは言えないが悪くもなく、ウェンセスラス自身に側室を嫌う理由は少ない。
「お前はそれでいいのか? エヴァンもジョルダンも正統なる血筋の王子だ。お前の一時の感情で二人の権利を奪うのか」
「殿下に運命の相手がいないのであれば、わたしの我儘なのでしょうね」
兄の追及にルーシェはしくしくと胸が痛んだ。「運命の相手」のままであれば、ルーシェの選択は正しいものだ。残っていてもいずれは「運命の相手」が子供を産み、その子供に王位継承権は移る。
「そう思うのなら、考え直してもらえないだろうか」
ジェフリーの要望にルーシェは目を伏せた。ケイトリンの言葉がずしりと圧し掛かった。自分の思いを通すのであれば先に手を打つ必要があった。ようやくクリスとの関係を見つめられるようになったルーシェの方が分が悪い。
それに簡単にあの日のことをなかったことにはできない。
「そんなに簡単なことではないのよ。あの子たちの存在をなかったことにしたのは殿下の方だわ」
「その時は仕方がなかった」
仕方がなかった。
ルーシェは声を上げて笑った。ひどく歪んだ醜い笑いだろうと思いながらも止められない。笑いすぎて涙まで出てきた。
「仕方がない? 最後の挨拶を、と二人とも殿下に会いに行ったのに目の前にいても誰もいないかのように無視されたのよ。あの子たちの心の傷がどれほどのものかわからないの? それなのに、都合が悪くなったからと手元に置こうとするなんて」
「……その話は聞いていない」
どこか愕然としたようなジェフリーの様子に、ルーシェの気持ちは少しだけ軽くなった。目じりに溜まった涙を指で拭う。
「知らないなんて理由にならないわ。でも、わたしの気持ちをお兄さまにわかってもらいたいとも思わない」
「どういう意味かな?」
ジェフリーの問いには答えず、ルーシェは立ち上がった。
「さようなら。お話しできて嬉しかったわ」
「ルーシェ、待つんだ」
ジェフリーも立ち上がり、ルーシェを逃さないように素早く彼女の腕を掴んだ。腕を掴まれてもルーシェは慌てなかった。兄が彼女を傷つけることなどないと知っていたから。自分の腕をつかむ彼の手に自分の手を置いた。ゆっくりと兄の手を外す。
「傷ついたのは子供たちだけではないのよ? わたしだって傷ついたの。あの一瞬で信じていたものすべてが壊れてしまったのよ。間違いだったなんて言葉だけで、元になんて戻れないわ」
熱に浮かされたような目で見つめて、誰よりも大切そうに抱きしめて、見知らぬ女に突然キスをする。
ルーシェの胸の奥に無理やり押し込んでいた言葉が吐き出された。
「それでもお前は王太子妃だった。今はレトナークの姓を名乗っているのだから我が侯爵家の人間でもある」
ジェフリーの現実的な言葉にルーシェは表情を歪めた。
「わたしは」
「お前の気持ちを考えたら、そっとしておくのが正しいのだと思う。だけど殿下の方に正当な理由がなくなったのだから、当然、エヴァンもジョルダンにも王位継承権が発生する」
「二人に王位継承権が戻るの?」
予想もしていなかったことに茫然とした。そもそも「運命の相手」が間違いであるなんて想定外だ。自分の思いとは別に、現実がひしひしと迫ってくる。
「国王陛下が運命の相手ではないと判断したら戻る手続きが行われる。誰もがお前たちに戻ってほしいと思っているから、近いうちにそうなるはずだ」
「本当なら喜んでもいいのでしょうね」
典範に触れないのであれば戻ってほしい。
そう望まれるということは、それだけルーシェと二人の子供たちを思ってくれているのだ。
「だから王命を下される前に戻ってほしいんだ」
「お兄さまの希望は理解しました。でも、それでもやっぱり無理だわ」
「ルーシェ」
どこか咎めるような声にルーシェは力なく笑った。
「わたしの中に殿下へ向ける愛情は残っていないの。わたしの意志で戻るつもりはないわ」
ルーシェは兄の目を真正面から見つめて、はっきりと告げた。