旅立ち1
ヘイトは復讐に燃えていた。理由は簡単だ。今まで好き放題に魔物を狩っていた人間たちに、思い知らせてやるためだ。
「今度はこっちが狩る番だ」
ヘイトは剣を背中に収め、最上階へと続く門の前に立った。
「上に少し挨拶に行ってくる。あんたはここにいてくれ」
シルバーメタリックは何が何だかよく分かっていないようだったが、ひとまずうなずいてくれた。
と、ヘイトは思い立ったように言った。
「そういえば、あんた、名前はないのか?」
「え、いや、ありませんけど…。そもそも、言葉を話せるモンスターがあまり多くないものですから…」
「そうなのか。だったら――」
少し考えて、ヘイトは彼女にこう名づけた。
「あんたの名前はシルバだ。いいか?」
「もちろんです! ありがとうございます!」
安直な名のつけ方だが、シルバは喜んでくれたようだった。
門を開いて最上階に行くと、そこは陰鬱な空気で満たされていた。黒い霧が辺りを包み、果てしない闇を覆い隠している。
「ここに来るのは久しぶりだな…」
そんなことを呟きながら歩いていくと、やがて神の座が見えてきた。
「フェガリ様、ヘイトです。お話があって参りました」
呼びかけるが、応答はない。どうやら玉座にはいないようだ。
さらに奥へ進み、玉座の裏にある寝室へと続くドアを開ける。
魔神はその名に相応しくないだらしない格好で、ベッドに伏せっていた。
「フェガリ様、少しよろしいでしょうか?」
「んあ…? ヘイトか? どうした、何の用だ」
フェガリはゆっくりと起き上がると、肩越しにこちらを見た。
魔神といっても、姿形は人と大差ない。身長もヘイトのように大きくはないし、翼や尾があるわけでもない。ただ、いつも裸で、若い男か女の姿をしており、そのどちらであっても恐ろしく端麗だった。
「今日は男性ですか」
「まあな。こっちの方が楽だ。女はいろいろと面倒で困る」
「そうですか」
フェガリはベッドから降り、サイドテーブルにあった水差しの水をコップに注いだ。
「お前がここに来るのは珍しいな」
「少し、話がありまして…」
「頼みがあるなら、何でも聞いてやる。お前には世話になっているしな。ここ最近、私も退屈だ。厄介ごとの一つでも起こしてやろうかと思うくらいだ」
「それは、どういう――?」
フェガリがその気になれば、人間の町の一つや二つ、いとも簡単に破壊できるだろう。
一瞬、悪寒を感じたが、フェガリの口元が緩んでいるのを見て、冗談だと判断する。
「冗談だ。私がいないおかげで人間たちが平和に暮らせているのだろう。結構なことだ」
その言葉が、彼の本心には思えなかった。
「人間たちのおかげで、魔物たちが大変な目に遭っているとしても、ですか?」
「我が眷属のことなら、心配はいらない。あいつらは何度でもよみがえる、不滅の軍団だ。いくらやられても絶えることはない」
フェガリはコップの水に口をつけた。口元から漏れた水が顎の方へと伝い落ちていく。その妖艶さたるや、ヘイトでさえ見惚れてしまうほどだ。
だが、今の俺にとって重要なのはもっと別のことだ。
「フェガリ様…。あなたはもう忘れてしまったのですか。その昔、我々が人間どもに虐げられた苦痛を。私はあなたの悲痛な叫びから生まれた、憎しみの化身ではないのですか」
ヘイトは声を荒げて言った。
これ以上はダメだと分かっていても、喋れば心の奥底から熱く煮えたぎる何かが噴流するのを抑えられない。
「私は思い出しました。あなたに創られた意味を。理由を。このまま人間どもの勝手を許すわけにはいきません。私は今日、ここを発ちます。そして、あの忌まわしき人間どもに、我々の意を示します。我々はただ滅びを待つだけの存在ではないと。自らの手で道を切り開き、自らの意志で選択し、自由を掴み取ることのできる存在なのだということを。私がその先駆者となります。フェガリ様、どうかお許しを」
ヘイトは頭を下げ、踵を返した。
肩越しに魔神の冷ややかな視線を感じるが、もはや返答を待つことすらできなかった。
この怒り、どうしてくれようか。
今まで、全く疑問に思わなかった。自分の存在意義も、生きる意味も。何もかもが当たり前のことだと甘受していた。
だが、彼女が気づかせてくれた。力ない彼女は、それでも懸命に運命に抗おうとしていた。それに応えずしてなんとする。力ある俺ができることはただ一つ。彼女を救い、この世の全ての魔物たちを救うことだ。
ヘイトは自室に戻ると、待っていたシルバに声をかけ、彼女の手を引いて下の階層へと降りていった。
「ヘイト様、どうされたのですか?」
シルバが怪訝そうな面持ちでこちらを見つめてくる。
「なんでもない」
少し間をおいて、ヘイトは続けた。
「でも、このままではいけない気がするんだ」
自分でも、何がそこまで自分を突き動かすのか、理解しきってはいなかった。衝動に駆られるまま、俺は行動していた。ずっと空っぽだった何かを、彼女が埋めてくれたような気がしたからか。ただ単純に、人間への怒りを抑えきれなくなったからなのか。
束の間、考えることはあっても、押し寄せる灼熱の激流に、それらの思考は押し流されてしまうのだった。