夢の世界
気が付くと、そこは光の世界だった。
真っ白で、何もない空間。ヘイトはその只中にいた。
そこにふと、人影が現れる。
美しい少年だ。
少年は銀髪を風に躍らせながら、大きく両腕を広げる。
その先にいるのは、醜い獣。黒くおぞましい姿の全容ははっきりとせず、赤くて丸く小さな眼だけが光っている。
少年が何事か告げる。その声はヘイトに届かない。
「フェガリ様…?」
少年の出で立ちには見覚えがあった。
魔神フェガリが男性の姿をとるときは、決まって銀髪の青年だった。あの少年はヒトの男性に扮したフェガリを幼くしたような感じだ。
ヘイトが手を伸ばそうとしたその時、獣が動き出した。
大きく口を開き、少年を一口に食べたのだ。
上を向いて少年を飲み干した黒い獣が、こちらを向く。
――こちらを見ている…?
赤い瞳の焦点がどこなのか、ヘイトには分からない。
獣が再び、ゆっくりと口を開く。
俺を食う気か――?
「殺してやる」
地響きの如き低い声が脳に響く。
――この声は…、あの怪物からか…?
「殺してやる…」
獣は繰り返した。
「殺してやる…」
同じセリフを、何度も。
「どうだ、醜い姿だろう?」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこにはフェガリが立っていた。
相変わらず美しい姿だが、今回は女性の見た目をしている。白い布を纏ったその服装は、どこかの王宮に住む王族みたいだ。
「これは…」
夢じゃないのか、と言いかけて、ヘイトは口をつぐんだ。
魔神フェガリならば、他人の夢に入り込むことくらい造作もないだろう。
「気が付いたか? 安心しろ、ここは私の世界だ」
フェガリが両手を広げる。
「なぜ、ここへ?」
「他人の夢に潜り込むのは気乗りしない。私の一部を垣間見せてしまうことになる。さっきお前が見たのは、言うまでもなく私の過去だ。いや、それでなくても、お前はいろいろと感じてしまうだろうが…」
フェガリがこちらからの問いに対して、素直に答えてくれることは少ない。だからといって、ヘイトに苛立つような要素は何一つないのだが。
「どういうことですか?」
「お前は…、私に似ているからな。共感する部分も多いのではと思ったのだ。先の光景程度では、何のことかさっぱりわからなかっただろうがな」
フェガリは少し笑う。ヘイトが眉間にしわを寄せているのを見て、楽しんでいるかのようだ。
「すまない、本題に入ろう。わざわざお前に会いに来たのは、私の昔話を聞かせるためではない」
意図してか否か、艶めかしい所作でヘイトを手招きしたフェガリは「少し歩こう」と言った。
「その左腕は…」
言われて、自分の左腕を見やる。夢の中でも現実で起きたことはきちんと反映されているようだった。
「夢は自身の意識の投影だ。左腕がないことを受け入れていれば、当然、左腕はなくなる」
「…どうして俺は、痛みを感じないのですか?」
「それは夢の中での話か?」
「いえ。斬られた瞬間、不思議と痛くはなかった…」
「そもそもお前は、そういう風にできていないからな」
俺自身を作り出した張本人――フェガリ。俺以上に、この方は俺のことを知っている。
「ちょうどいい。お前に話したいことも、お前の痛覚の話と関係してくるだろう」
少し間を置いて、フェガリ話し始めた。
「お前はあまり気にしていないようだが、あのアンクランとかいう男が言ったことを、覚えているか?」
「エラーの話ですか?」
「そうだ。意味は分かるか?」
「いえ…」
「簡単に言えば、不測の事態という意味だ。それも、悪い意味で使われることが多い」
「あの男は、フェガリ様のこともエラーだと――」
「ああ。それは正しい。この世界が生み出されたとき、創造主は私のような存在を生み出しはしなかった。と同時に、私のような存在が生み出されることを良しともしなかった」
「創造主…」
「端的に話そう。分かりやすく言えば、私は本来ならばいないはずの存在だ。つまり、私から生み出されるものもまた、あるはずのないもの」
「私も、ですか…?」
「そうだ。世界を元の姿に是正する動きとしては、あのアンクランのやっていることは正しい。まあ、エラーをエラーで対処するなら、相殺されない限り、もう一方は自力で消滅させなければならなくなるがな」
ヘイトは立ち止まった。
ただ単純に、人間に復讐がしたい。半ば衝動的ともいえる感情に突き動かされて行動してきたヘイトだったが、世界は思ったより複雑だったらしい。
「どうした?」
フェガリが振り向いて尋ねる。
「いえ、ただ、俺は、一時の感情だけで動きすぎていたのかと…」
それを聞いたフェガリは声を出して笑った。
「ハハハッ。まさかお前からそんなセリフが聞けるとはな。いやはや、長生きはしてみるものだ」
「フェガリ様…」
「からかっているのではない。お前のことは私が一番よく知っている。お前が本質的に人間を憎む性格であることも致し方ない。そうさせたのは私だからだ」
その後で、魔神がヘイトに聞こえるか聞こえないかのボリュームで言った一言を、ヘイトは聞き逃さなかった。
「戦う意味を見出せぬ、哀れな子…」
フェガリは咳払いをした。
「ところで、目下のところ、お前は人間側が作り出したエラーに敗北した」
「はい…」
「だが、まだ死んではいない」
「しかし、もう俺には…」
「どうすることもできない?」
「それは…」
分からない。それが率直な感想だった。未だかつて敗北を喫したことなどなかった。挽回のチャンスがあるのなら、是が非でもそれにすがるべきなのだろうか。それとも、潔く負けを認めるべきなのか…。
「お前にまだ、私のために戦う意思があるのなら、私はぜひもう一度、お前に立ち上がってもらいたいと思うのだが?」
ドクン…。
フェガリの言葉に、矢で貫かれたはずの心臓が脈打つのを感じた。
「いいのですか…?」
「何がだ?」
「俺にもう一度任せて…」
「無論だ」
ヘイトは右の拳を固く握りしめた。
旅立ちのとき、フェガリはあまり良い表情を見せなかった。ヘイトにとって、それは一抹の心残りでもあった。
しかし、それは今、払拭された。
フェガリ様は、俺の背中を押してくれている。
「それに、だ」
フェガリは言った。
「お前の相棒が、必死になってお前を助けようとしているのでな」
「え――?」
「せっかくだ。お前にいいことを教えてやろう」
笑みを湛えたフェガリの姿がすうっと遠のいていく。
光の世界が遠ざかっていき、闇へと吸い込まれていく。
直後、頭に響いたフェガリの声。
ヘイトは夢の世界から抜け出した。




