レヌシアの森の悲劇2
「それでは行こう」
ジャベットはそう言ってランタンを片手に先頭を歩き出した。後ろに二人も続いていく。
勝手知ったる森の中だが、三人を包む独特の緊張感が森の雰囲気を一変させていた。自分の良く知るいつもの森ではないかのようだ。
しばらく道なりに歩き、一行は立ち止まった。ドルイドの棲み処へ向かうために、ここから先は道なき道を進むことになる。頼りになるのは己の経験と勘だけだ。
木々の枯葉や枝を踏みしめながら、三人は目的地を目指して歩き続けた。
順調に進めているかと思った矢先、先頭を行くジャベットがふと立ち止まった。
「何かいる」
そう言って彼は手に持つランタンの明かりを落とす。
ランダバードも、同様の気配を感じていた。しかし、ドルイドの棲み処はまだ遠いはずだ。可能性があるとすれば、獣か魔物か、あるいは――。
子供、と考えたところで、ランダバードは目にしたものに絶句した。
ローリーだった。
森の暗闇でもある程度目がきく三人は、おぼろげながらも視認したその光景に安堵した。
まさか、こんな早くに見つかるとは。
次の瞬間、ランダバードはそう思った自分を呪いたくなった。
十メートルほど先にいるのは確かにローリーだ。だが、様子がおかしい。他の二人もそれ気が付いたようだ。
「ローリー…?」
ヴェンデルスが消え入りそうな声で呼びかける。が、返事はない。
ローリーは、宙に浮いていた。
「何かがおかしいぞ…」
ジャベットがこちらに目配せをする。注意しろと言いたいのだろう。
ランダバードは固唾を飲んだ。
薄っすらと、近づいてくるローリーの背後にいる何者かの姿が明らかになっていく。
「ローリー…」
ふと見ると、ヴェンデルスがゆっくりと歩き始めていた。
まさか、彼には息子の姿しか見えていないのか!?
「ヴェンデルス、よせ…!」
「それ以上近づくな…!」
ランダバードとジャベットはふらふらと歩を進めるヴェンデルスに呼びかけるが、彼はもはや心ここにあらずといった様子でローリーに近づいていく。
次第にローリーの背後の影が濃くなっていく。そして、ランダバードは、子供の頭上で光二つの眼光らしきものを目にした。淡い紫色をした二つの光が、ゆらゆらと左右に揺れているのだ。
ただ者ではない。そこにいるのは、間違いなく誰も遭遇したことのない脅威だ。
本能的にそう察したときだった。
一陣の風が森に吹きわたったかと思うと、眼前の木の幹に巨大な剣がめり込んだ。そして、ほぼ同時に、ヴェンデルスの首が吹き飛んだ。
ランダバードはあまりの光景に、ただただ立ち尽くし、言葉を失った。
ヴェンデルスが一瞬で亡き者になったことよりも、自身の身長を軽く凌駕しそうな大剣と、それをいとも簡単に振り回すことのできる得体の知れない何かが存在していることに驚愕した。
「逃げろ! ランダバード!」
肩越しにこちらを振り返ったジャベットが叫ぶ。
反射的に体を動かそうとするが、まるで金縛りにでもあったかのようにピクリとも動かない。
なす術もなくジャベットを見ると、ちょうど彼越しに大剣を振りかざす巨人が見えた。
「ジャベット!」
ランダバードが振り絞った声で危機を察知したジャベットは、敵の方を見ずに闇雲に地面を転がった。
とてつもない衝撃とともに、先ほどまでジャベットが立っていた場所に剣が振り下ろされる。ジャベットは間一髪のところで回避したようだ。
だが、巨人は転がるジャベットに音もなく近づくと、その無防備な体に剣を突き立てようとした。
このままではジャベットまで死んでしまう…!
そう思ったとき、やっとのことで体が言うことを聞いた。
持っていた弓に矢を番え、狙いもそこそこに巨人目掛けて射かける。
矢は予想以上に正確に飛び、二つの揺らめく眼光に吸い込まれていった。
これまでの自分の経験上、ランダバードは命中したと確信した。常人が弓を射かけられてそう簡単に避けられる距離ではない。
が、二つの光はふいに大きく揺れ動いたかと思うと、ランダバードの放った矢をあっさりと避けてしまった。
忘れていた。あそこのデカブツが常人ならざる者であることを。いや、忘れていたのではない。もはやそんなことを意識する余裕すらなかっただけだ。
巨人はこちらに焦点を合わせると、邪魔者を排除すべく静かに歩き出した。
とりあえず、ジャベットが態勢を整える時間くらいは稼げたはずだ。
自由を取り戻したばかりの体はいまや尋常ではないほど震えていたが、ランダバードは自分に鞭を打つつもりで叱咤した。動けと。
大股で急接近する巨人に背を向け、ランダバードは走り出した。そして、そのさなか、見たくもないものを見てしまった。頭を鷲掴みにされ、目から血の涙を流し、全身を切り刻まれたローリーの姿を。
走り出したはいいものの、さっき見た悪夢のような光景が頭から離れない。ランダバードはそれさえも振りほどくかのように一心不乱に足を動かした。しかし、幾度となく森の中を駆けまわってきた足も、この状況では大して役に立たない。何度も躓き、転びそうになりながら、ランダバードは振り返らずに全力疾走した。
「ランダバード!」
後方からジャベットの大声が森に響き渡り、ランダバードは自分がさしたる距離も走れていないことと、自分の身に危険が迫っていることを察した。
あの大剣を振り回してくるなら、前方に転がって回避行動をとったとて、おそらく避けきれない。ならば――!
ランダバードは踵を返し、迫りくる巨人の懐に転がり込んだ。
何か大きなものが空を横切る音が耳元で聞こえ、おぞましい風が背中をかすめる。
避けた!
微かな喜びに顔を上げた瞬間、ランダバードは腹部に強烈な痛みを感じ――地面に激しく体を打ち付けた。
巨人の痛烈な前蹴りが、腹を直撃したらしい。衝撃でランダバードは吹き飛ばされていた。
起き上がろうとして、左腕に猛烈な痛みを感じる。吹き飛ばされている最中に木にでもぶつかったのだろう。左前腕部の骨は完全に折れていた。
巨人はというと、どうやら標的をジャベットに戻したらしい。こちらに追ってきている様子はなかった。
立てるだろうか…。腹部も相当なダメージを受けている。息をするのさえつらいほどだ。
どうにかして、あの悪鬼の存在を村人に知らせなければ。村に危険が迫っている。
ジャベットが無事なら、知らせてくれているかもしれない。その可能性に賭けるなら、ここでくたばってもいい。
賭けられる可能性がほとんどないことは承知だった。
だからこそ、ランダバードは歯を食いしばった。自分がここで動かなければ、誰が村人を救うのだ。今は自分や息子のことなど度外視してでも、帰らなければいけない。そう思った。
左腕だけではなく、どうやらあばらも何本か折れているようだ。地面を踏みしめるたびに激痛が走る。そして、痛みを感じるたびに意識が飛びそうになる。
ぼやける視界のせいで、まともな方向に進めているかもわからない。それでもランダバードは走った。