前編
「姉ちゃん」
弟の璃浦が、前触れもなく私の部屋に入ってきた。私は電話を切って、璃浦の方を見た。
「また香凛さんと?」
「そ。大学、どこにするか悩んでるみたいで。今になって理系に行ったの間違いかも、とか言ってるし」
香凛は私の恋人、というやつだ。香凛とは幼稚園の頃からの付き合いだが、本当に付き合い始めたのは小学校の終わりか、中学に入ってからだ。
「何それ。二年に上がる前に、もうちょっと考えたらよかったのに」
「香凛、その辺あんまり考えてないのかも。あの子は大学に行かなくても地位が保証されてるし、仮に保証されなくても、私と一緒に暮らしていければいい、ってことしか考えてないから」
「お気楽だな」
もちろんそれじゃダメだということは、私は香凛に何度も言っている。香凛は世界でも指折りの巨大持株会社の娘で大金持ちだから、このまま何もせず遊んでいても暮らせるらしい。けれど香凛の親御さんの次に近くにいる者として、私はせめて大学に行くか行かないかだけでも決めろと、散々言っている。
「璃浦からも、何か言ってやって」
「オレがなんか言って聞くような人じゃないと思うけどな、香凛さんは」
「……ま、そうなんだけど」
もちろん私も、このまま何もせず香凛と遊んで暮らしたい、と思わなくはない。女どうしだから、ということもあって、昔は私たちの関係に大反対していた香凛のお父さんも、今は半分くらい許してくれている。昔に比べて、香凛の家に泊まりに行くことも増えた。香凛が私との子どもが欲しい、と気まぐれに無理なことを言った時、私も香凛と同じことを思っていた。
香凛のことを考えているようで、結局甘やかしてしまっているのかもしれない。
「……で、どうしたの?突然私の部屋に来て」
「香凛さんとは全然関係ない話なんだけど。いい?」
「別に」
「……オレさ。退妖獣使になって、いいのかなって」
「……その話か」
私は退妖獣使といって、人間を喰う妖獣、と呼ばれるバケモノを討伐する仕事をしている。女子は中学生から、男子は高校生からなれるその退妖獣使を、私は中学一年の頃からやっている。
私は今年高校二年生で、璃浦は一学年下の高校一年生。すでに退妖獣使になっている私の後を追って、璃浦もいよいよ退妖獣使の仕事を始めようとしているところなのだ。
「姉ちゃんが退妖獣使になりたての頃って、オレ学校でからかわれてばっかだったからさ。みんな男は高校生にならないと退妖獣使にはなれない、なんてこと知らないし。でもオレ、悔しかったんだ」
どうしてお姉さんはあんなに立派に仕事をしているのに、あなたはぐうたらしてるの。
璃浦は時々、友達の親にまでそう言われたらしい。それだけ、退妖獣使という仕事の知名度は低い。退妖獣使が一晩でも仕事をやめれば、腹を空かせた妖獣が街に出て、何十人も犠牲になるというのに。当の人間は自分や親族が襲われでもしない限り、さして興味を持たないのだ。
「璃浦の気持ちは分かるよ。私も時々、璃浦みたいに本をたくさん読んでおけばよかった、って思うし」
まだ退妖獣使になれなかった璃浦は、代わりに妖獣の歴史や退妖獣使についての書物や論文を一生懸命読んで、知識をつけた。璃浦の知識量は本物で、妖獣を専門に研究している人と、有意義な議論ができるほどらしい。
「……それは、まあね」
ところが璃浦の顔は暗かった。それだけの知識を持って戦えば、敵の妖獣に対しても終始有利な立ち振る舞いができるはずだ。知識をよく持ち合わせているのは、経験を長く積んだのと同じくらいすごいことだと、私は思うのだが。
「何か気がかりでも?」
「でも正直、オレがまともに戦えるのかな、って。オレ、別に体力があるわけでもないし」
それを言えば、私だって。
私も別に体力があるわけではない。香凛の強力なサポートがあってこそ、ここまで四年近く退妖獣使を続けてこられたのだ。私一人だったら、とっくの昔に敵に負けて死んでいる。
「姉ちゃんには香凛さんがいる。サポートは全部香凛さんがやってくれて、姉ちゃんは目の前の敵を倒すことだけに集中すればいい。けど、オレは違う。姉ちゃんたち二人がやってることを、全部一人でやらなきゃいけない。オレにそれができる自信が、まだないんだ」
それは慣れの問題だ。いきなり一人で仕事をこなすなんてことは、まずない。大抵最初の一年はベテランのサポートがつく。私も最初は、同じ学校の草壁先輩に教えてもらいながら、仕事を覚えた。
しかしそう言おうとすると、遮るようにして璃浦が再び口を開いた。
「それに、オレにはきっと、覚悟が足りない。……姉ちゃんは、母さんが死んだ時のこと、覚えてるだろ」
「……」
母は、私が小学生の時に亡くなった。狩るべき相手の妖獣に逆襲され、致命傷を負いながらなんとか帰ってきて、家でみんなに看取られながら死んだのだ。私はきっとこれから先も、あの日のことを忘れはしないだろう。
「姉ちゃんは意識しなくても、分かってるはずなんだ。退妖獣使って仕事がどれだけ危ないかってこと。いつも死と隣り合わせの仕事だって。でもオレは違う。母さんが死んだって事実ばかり頭の中で駆け巡って、退妖獣使が危険な仕事だ、って認識に結びついてない。そんな気がする」
あの時の璃浦は、後にも先にもないほど涙を流していた。それは母が死にそうだから泣いていたのではなく、ただただ、普通でないみんなの雰囲気を感じてパニックになっていた、ということなのだろう。
「もうすぐオレの初仕事の日だ。……たぶん、その時に、オレがこれから先本当に退妖獣使としてやっていけるのか、分かると思う」
璃浦は一方的に話を終えて、私の部屋を出て行ってしまった。私に引き止めることはできなかった。
「あきらくんの気持ちも、分かるよ」
「香凛?」
ふいに机に置いていたスマホから、香凛の声が聞こえた。
「かおるん間違えたんじゃない? 切るボタンとスピーカーのボタン。今の全部聞こえてたよ」
「盗み聞きは趣味悪いんじゃない?」
「聞かれたらまずい話でもないでしょ。ま、自分の進路にルーズなのは認めるけど」
あれこれ言って香凛に追い打ちをかけようかと思ったが、今話したいのはそのことではないので、私は口を閉じた。
「……で、璃浦の気持ちが分かるっていうのは?」
「あきらくんはお母さんが亡くなった、ってことだけで頭の中がいっぱいだって話してたけど、きっとあれだけ自信をなくす理由は他にもある。例えば、かおるんが死にかけたこととか」
「それは……」
三年前。私はそれまで戦ってきた中でも相当な強さを誇る妖獣と戦って、瀕死にまで追い込まれた。倒れた後、次に目が覚めたのが病院のベッドの上だったので、私自身はよく覚えていないのだが、死んでもおかしくないほどだったらしい。
「お母さんだけじゃなくて、かおるんまでいなくなるかもしれない。あきらくんはその時そう思っただろうし、だとすれば記憶には強く焼きつけられてるはず。かおるんがまた同じ目に遭うかもしれないのは怖いけど、自分が死ぬかもしれないことも、同じくらい怖いんだと思うよ」
「……怖い、か」
私と違って璃浦の場合、男だから、という周りの期待も大きい。退妖獣使は男がなってこそ、という考え方はとっくに旧世代的なのだが、いまだに女性の退妖獣使の存在をよく思わない人はいる。
私の知らないところで、璃浦もいろいろ言われて焦っているのかもしれない。
「でもあきらくんは今のところ、退妖獣使をやりたくないって言ってるわけじゃない。ただやっぱり、不安ってだけで。だから、見守るしかないよ。初仕事の日、全力のサポートをして」
「……分かってる」
私だけではサポートが不十分になるかもしれないと、草壁先輩にも来てもらうことになっていた。私は自分の部屋に戻ったのだろう璃浦のことを思って、そっと深呼吸した。
* * *
「……すげえ」
璃浦は自分が身にまとった白装束をまじまじと見つめて、そう声を漏らした。
「なかなか悪くないでしょ。妖獣の血に侵されないように、たっかい素材使ってるからね」
妖獣の血は服や地面を溶かしてしまうという、厄介な性質を持っている。妖獣を退治する仕事をする私たちはまず、その血が飛び散ってもいいような服を着ることから始めるのだ。
高校生と言ってもやはり仕事初日で不安も少し忘れたのか、璃浦は興奮気味だった。そんな璃浦になぜか自慢げに説明する香凛。
「香凛さんも、近くで見たことなかったから知らなかったです。そんな翼だったんですね」
「コンパクトでなかなかいかしてるでしょ?」
私の戦闘中、香凛は絵画によくある天使の翼に姿を変えて私の背中にくっつき、敵の位置や行動を指示してくれる。私が退妖獣使として活躍できているのも、香凛の強力なサポートのおかげなのだ。
「よし。私が璃浦君の全般的な指導をする。遼賀と花宮は上空からの情報を拾ってくれ」
「「はい」」
予定通り私たちは上空に飛び上がり、璃浦の死角になる方角から妖獣が来ていないかどうか見張り始めた。戦闘に慣れてきた退妖獣使でさえ複数の方角から襲いかかる敵の動きを見切るのは困難なのだ。初めて仕事をする璃浦にはとても不可能である。
「……今のところいないね。気持ち悪いくらい、整列してあきらくんの方に向かってきてる」
「整列……」
璃浦がうまく妖獣たちを討伐できるよう、誰か別の人が妖獣を誘導している。
そう思ってしまうほどの行動だと、香凛は感じたらしい。
「璃浦は……うまくやれるかな」
「もしダメそうでも、草壁先輩がすぐ近くで見てるから。それにあきらくんが危ない目に遭わないための、かおるんとわたしでしょ」
地上を見ると、いったん草壁先輩はわずかに璃浦と距離をとって、璃浦だけが妖獣の方を向いていた。草壁先輩も璃浦がかなり妖獣についての知識を勉強して得ていることは知っているので、まずは好きなようにやらせて、後で注意点を言っていくつもりなのだろう。私もそうやって指導された記憶がある。
璃浦が私のと同じ短刀を手に、目の前の妖獣から順に狩っていくのが見えた。それを見て私は安心していた。少し動きがぎこちないと言われればそうかもしれないが、私が退妖獣使の仕事を始めた頃よりはうまくいっているように見えた。先日の璃浦の心配は杞憂に終わったのだ。
「あれなら大丈夫そう。ねえ、」
「かおるん!」
緊張にまみれた香凛の声が届いた。
「あの動き……あきらくんを襲おうとしてる」
「……!!」
私もその存在を、すぐに目で追いかけた。おおよそ列を作っている妖獣が大半を占める中、イレギュラーな動きをする何体かは視界に入ってきた。気づいた私はすぐその妖獣を狩るべく急降下を始めた。
「草壁先輩はたぶん気づいてない……急いで!」
「分かってる!」
しかし私がその妖獣に接近したタイミングで、向こうも気づいたらしく璃浦に向けてスピードを上げた。その距離と速さからして判断がついた。
「間に合わない……!」
醜い顔をした妖獣が、鋭い爪で璃浦を傷つける瞬間だけが、私の目に映った。