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夢は泡沫となりて

作者: 朝野黒

3/7 加筆修正

 最近、いつも同じような夢を見る。

「小暮君おはよう!」

 彼女は俺を見ると肩にかかる黒髪を揺らしながら駆け寄ってきて、隣に並んだ。手を彼女の方に伸ばすと彼女はその手を掴んだ。繋がれた手から伝わる体温が心地いい。

 かすかに肩が触れ合うほどの距離で、すっかり葉が散ってしまった並木道を歩いていく。

 同じようなというか、登場人物がいつも同じなんだ。

 俺と、彼女と。

 二人だけの時間がいつまでも続けばいいのに。

 現実でないことなんて、わかってはいるけど。それでもそう願ってしまう。

 だけど現実は、そんなささやかな願いさえ許してくれない。

『pi,pipi,pipipi…』

「…んー」

 ぼーっとした頭のまま目覚まし時計に手を伸ばす。手探りでスイッチを押すとうるさい音が鳴りやんだ。

 それからようやく意識がはっきりとしてくる。

 身体を起こして周りを見ると、パソコンと本棚とちょっとした家具がおいてある。

 つまりは俺の部屋だ。決して並木道なんかではない。

「また、か」

 俺は一日の中で朝が一番嫌いだ。

 この浮ついた気持ちが、一気に現実に引き戻される感覚がどうしようもなく嫌いなんだ。

「涼、起きなさい」

「起きてるよ」

 母さんに呼ばれる声が聞こえたので、ひどい気分のままリビングに行った。

 用意された朝食を食べ終えて急いで学校に行く支度をする。慌てて物を詰め込んだカバンを持って玄関に向かった。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい。最近は随分早くに出るのね」

「まあね」

 適当にはぐらかして家を出て、逃げるように急いで足を進めた。

 実際、学校には3,40分ほど余裕を持って行っている。

 俺が真面目だとか、そういうわけじゃない。もっと不純な理由でこんなことをしている。

 プラットホームに電車が来ると、流れていく窓から中を覗いた。

 よかった、今日もいる。

 前から5両目の左から3つ目の奥側の座席。吉野朱里はいつもそこに座っている。

 偶然それを見てからは登校時間を少しずらし、吉野を見るのが毎日の楽しみになっていた。

 気持ち悪いのは自覚してるけど、どうしてもやめられなかった。

 ドアが開くと吉野が顔を上げた。

 吉野はこの駅に停まったときはいつもドアの方を見ている。それを見るといつも胸が痛む。

 この駅から乗る学生は割と多く、もちろん男もそれなりにいる。その中に彼女の好きな人がいるんじゃないかって、そう思ってしまう。

 素知らぬ顔で吉野の前を通り過ぎ、斜め前の座席の遠い方の端っこに座った。

 吉野の正面も空いているけど、そこに座ると彼女を見ているのがバレてしまいそうで怖くてできない。だからここが俺の定位置になっていた。

 学校の最寄り駅に着くと同じ高校の生徒が一斉に降りてゆく。その流れに身を任せて俺も電車を降りた。

 改札を出てすぐ脇に寄って定期を直していると後ろから吉野が出てきた。 

「あっ」

 一応同じクラスで向こうも俺のことは知っている。だからか吉野はチラッと俺の方を見た。

 だけど何事もなかったかのようにそのまま歩いて行ってしまった。

 その後を追いかけるようなことはしない。気持ちを気づかれたくないから。拒絶されるのが怖いから。

 所詮、現実ではこんなもんだ。

 手をつないだり一緒に行ったりするどころか、声をかけることすらできない。

 

 駅で降りた高校生の一団に混じって高校に着いた。当然、その中には吉野の姿も見える。

 この一団にはそれなりに人数がいるはずなのだが、同じクラスの人間は俺と吉野とあと一人だけだ。

 だからもしも一緒に着いて何か言われたりしては申し訳ないので、高校生男子としてはかなり遅い速さで教室へと向かうようにしている。

 そのおかげか、俺が教室に着いたときには吉野はもう席に座っていた。

 これなら何か言われることはないはずだ。安心して俺は吉野の右隣に座った。

 前回の席替えで好きな人の隣のくじを引けたにもかかわらず、全く仲は進展しない。というか話せたことほとんどがない。

 避けられてるわけじゃないし用事などがあれば話すのだけど、私的な会話をするとなるとどう話しかけたらいいかわからなかった。それに頑張って話しかけようとする自分がどこか惨めに思えて、そんな自分を周りに、吉野に見られたくなかった。

 だからきっと、二人きりにでもならなければ俺は吉野と話すこともできないだろう。

 そんな機会なんてそうそうないけれど、だからこそ期待してしまう。

 無駄なこととは知っているけど。

 


 今日もまた夢を見た。だけどそれはいつもとはどこか違っていた。

 ぼんやりと意識が戻ってくると、いつも俺をやかましく起こす目覚ましの音がしないことに気づいた。こうなるのはいつも無意識に目覚ましを止めた時だ。

「やばい!ちこ…く…?」

 慌てて周りを見てようやく、自分がどこにいたのかわかった。

 チョークでうっすらと白く汚れた黒板の前には教壇と等間隔に置かれた机と椅子がズラっと並べられている。俺はその中の椅子の一つに座っていた。

 ここはもう半年近く見続けた俺のクラスの教室で、俺が座っているのは自分の机と同じ位置だった。

 俺は確かに家のベッドで寝たはずだ。ならばこれは夢なのだろうか。

 しかし意識ははっきりとしていてとても夢とは思えない。だったら今が現実なのか。

 少し真剣に考えていると、隣から聞こえた声で意識を戻された。

 俺一人だと思っていたので驚いたが、その驚きはすぐに喜びへと変わる。

「んぅ」

 それと同時にその声の主を見た瞬間、俺はここが夢なのだと確信した。

 だって、現実はこんなに都合よくなんてできてはいないから。

「あれ、私なんで教室に?」

 目覚めた彼女は目をパチパチしながら周りを見た。その挙動は傍から見るとどこか面白くて、さっきの俺もこんな風だったのかと思うと少しおかしかった。

 横を見た彼女は、そこでようやく俺の存在に気づいた。

「へ?」 

 半口を開けたままフリーズしている。俺もそんな彼女に何も言うことができず、しばらくの間、まばたきするお互いの目だけが動いていた。

 一瞬とも数十秒とも思えたその静寂を破ったのは彼女の声だった。

「ええっ!?」

 吉野は若干のけぞったまま俺に驚きと困惑に満ちた目を向けている。

「何で私が教室にいるの!?なんで小暮君がいるの!?」

 俺が聞きたいよ。

 さっき目を覚ましたばかりの俺が吉野に満足のいく解答をできるわけがない。

 だけど不安そうにしている吉野を見ていられなかった。

「根拠はないけど、それでもいいなら」

「うん」

「夢、だと思う」

 現実で、二人きりになるなんて夢のようなシチュエーションはそうそう起こりはしないのだから。だからここはきっと夢だ。

 それを聞くと吉野は脱力したように机に突っ伏しながら顔だけこちらに向けた。

「夢かあ。そう言われるとそう思えてきたかも」

 そこで一旦言葉を切ってクスクスと笑った。

「そっか、夢か」

 彼女はどこか楽しそうで、嬉しそうで。それを見ていると俺もつられて俺も彼女と同じように笑い声を洩らした。

「何で笑ってるの?」 

 ほんの少しだけ怒気をはらませて吉野が言った。馬鹿にしているように見えたのだろうか。

「そっちこそ」

「私は、ないしょかな」

「じゃあ俺も」

「なにそれ〜」

 こんな他愛もない会話がとても楽しい。だから、もっとこうやっていたかった。

 現実では叶わないから、せめて今だけは。 

 だけど、またしても俺の意識はどんどん遠ざかっていった。

 

 目を覚ましたのはやはり俺の部屋だった。

 珍しくアラームより先に起きれたのでやかましく鳴り響く前に止める。

 いったいあの夢は何だったのだろうか。

 目が覚めた今になっても夢とは思えないほどにリアルな夢だった。

 もしかして、と考えてすぐに首を横に振る。そんなものは架空の産物なのだから。

 ここまでいくとどうしようもないな、と自嘲気味に笑って部屋を出た。

「あら、今日は雪でも降るのかしら」

「降らないよ」

 俺だってたまには早く起きることだってある。

 用意されたご飯を食べていつものように家を出た。

 ようやく残暑も終わり、むき出しの首筋を冷たい風が撫でる。上着を持ってくればよかったかと思ったけど、今から取りに戻ると電車に間にあわなくなるので、カッターシャツをかけなおして首を覆った。

 駅についてから数分で電車がやってきた。

 電車が止まり吉野の姿を確認するとあちらも外を見ていて目があってしまった。少し俯きながら電車に乗っていつもの場所に座る。

 俺を見ていたのだろうか。

 そうじゃないと思う自分と、そうであって欲しいと思う自分がいる。それで気になってまた吉野を見てしまう。

 吉野の少し下に落とされた視線の端にそんな俺の姿が映ったのか、ちらりとこちらに視線をやった。

 俺はその目線から逃げるように反対側を向く。

 高鳴る鼓動は、電車の揺れる音にかき消されていった。

 

 電車を降りて駅から出ると、いつものように定期を直すために脇による。

 ふと改札口の方を見たけど吉野の姿は見えなかった。

 もう先に行ったんだろう。なら追いつくまでは普通のペースでいいか、といつもより少し速く歩き出した。 

 結局俺が吉野に追いつくことはなかった。それも当然の話で、吉野は俺が教室についてから数分後に吉野は教室に入ってきた。

 いつもは定期を直している間に追い越されて、そのまま吉野が先につくのだが今日は後ろにいたらしい。

 吉野が席に座るときに一瞬訝しげな目を向けられた気がした。見返すとすぐに視線を外されてしまう。

 理由を知りたかったけど本当に見られたという確証もなく、その意図を尋ねることはできなかった。

 

 今日はいつもより少し早くベッドに入った。

 また昨日みたいな夢を見たい。そんなことを半ば無意識に期待していた。

 恋に正解なんてないなんていうけど。夢なんかを願っているのはきっと間違っているのだろう。

 それでも…。俺はそっと目を閉じた。

 

「あ、小暮君おはよう」

 希望通りというか、起きた場所は教室だった。まさか本当に叶うとは思っていなかったけど。

 夢の中でも、好きな人におはようと言われて嬉しい反面、少し緊張してしまう。

「ああ、おはよう。吉野の方が先に起きてたんだな」

「ついさっき起きたところなんだけどね」

 少し照れた様子ではにかみながら彼女はそんなことを言った。

「それにしても」

 またここに来てしまった。やはりどう見ても違和感がない。

「またここで会ったね」

 しかも彼女との会話もまったく不自然さを感じない。

 本当に夢の中なのかという疑念が少しずつ大きくなってきていた。 

「ねえ、小暮君。一つ聞いてもいい?」

「どうかしたか?」

「なんでいつも学校に着いた途端にゆっくり歩いてるの?」

「は?」

 まさかそんなことを聞かれるなんて思ってもおらず呆然としてしまった。

「今朝は普通に歩いてたのに」

「別に、特に理由なんてないよ」

 噂をされたら申し訳ないから、なんて言えるはずもなくそう言って誤魔化した。これがただの夢なら普通に言えたかもしれないけど、ここで吉野と会話を交わすうちにどこか違うような気がしていた。

「本当?」

 彼女の視線が俺の目を射貫く。心の中を覗かれているようで、たまらず目を逸らした。

「本当」

 そんな状態でそう言っても説得力なんてまるでなく、彼女は依然として訝しげな目を向けていた。

「俺も一つ聞いていいか?」

「何?」

 追求から逃れようと話を変えた。

 だけどそれだけじゃなくて、もしもここが夢じゃないとしたら学校で聞けなかった答えが聞けるかもしれない。

 そんな淡い願いを込めて尋ねた。

「駅で何見てたの?」

「駅?」

 端折りすぎたせいかまったく意図が伝わっていなかった。 

「ほら、俺が乗るとき目があったような気がしてさ」

「…うん」

 歯切れが悪いからやはり勘違いだったかもしれない。

「ええっと…」

 今度は彼女が目を逸らす。

「…別に、何も見てないよ?」

 さっきの仕返しと言わんばかりの台詞だった。

「目を逸らしながら言っても説得力ないぞ?」

「小暮君だってそうだったじゃん」

「俺は嘘なんてついてない」

 今度は目を逸らさずに言った。こんなに至近距離で見つめ合ったことは最初に夢を見たときぐらいで、しかもあのときは余裕なんてなかったから、まじまじと彼女の顔を見るのは初めてだった。

 夢だというのに顔が熱くなってくるのを感じながらもその目は吉野を見つめ続けた。

「じゃあ私もついてない」

 すると彼女も俺の目を見た。

 しばらく見つめ合うだけの時間が続いた。そんな状況がどこかおかしくて、口から笑いが漏れた。

 それにしてもつられたのか、彼女がクスクスと笑いだした。

「変なの」

 それは何に向けての言葉だったのか。

 それを知る前に意識が遠のいてしまった。

 

 

 それから毎日、あの奇妙な夢を見るようになった。

 夢の中で何度も吉野と言葉を交わしているうちに、所詮は空想だと切り捨てていたことを認めざるをえなくなっていた。

 俺と吉野は間違いなく夢の中で会っている。もっと言うのならば、多分同じ夢を見ているのだ。

 ほんの少しではあるけれど、二人で同じ時間を過ごしている。たったそれだけのことなのにわずかでも希望を抱いていた。

 

 今日もいつものように少し早い時間に家を出て電車に乗る。だけどこの時間を物足りなく思い始めていた。

 夢の中の方がもっと吉野と話せる、関われる。そんな思いが胸の中で渦巻いていた。

 電車を降りて学校に向かっていると吉野の後ろ姿を見つけた。

 どうやら吉野はいつもよりいくらかゆっくり歩いているようで、そのせいで追いついてしまったらしい。

 それなら追い越して先に着いたほうがいいかと思い、普通の速さで歩いた。

 ちょうど吉野の真後ろあたりに来たとき、すぐ後ろから足音が聞こえたからか吉野が振り返る。

 俺と彼女は前と比べたら随分話すようになったけど、それは夢の中でだけで。現実で話しかけるのはまだ躊躇ってしまう。

 追い越そうと横に並んだ時、吉野は俺の方に胸の前で小さく手を振った。首を振って周りを見たけどその手の先にいるのは俺しかいない。これで勘違いということは流石にあるまい。

 俺も周りに気づかれないように小さく手を振った。

 それを見た吉野は何かを言いたげにしていたが、結局は何も言わずに口をつぐんでしまった。

 何を言おうとしたのか聞きたかったけど、それなりに人がいるのでずっと横並びで歩くわけにもいかず少し歩調を速めて先に行った。

 だんだん開いていくこの距離が、どこか寂しかった。

 挨拶ぐらい、夢の中でならもうとっくにしているのに。現実だとどうしてこんなにももどかしいのだろう。

 追い越す時にちらりと見えた吉野の悲しげな横顔が、ずっと頭から離れなかった。




「日直、今集めたプリント全部番号順に並べて職員室に持ってきてくれ」

 

 俺達のクラスでは席が男子列と女子列に別れていて、日直は隣同士の男女がペアになり、一周したら席替えをする。

 今日は俺が日直の当番だった。隣の女子はもちろん、吉野なわけで。

 普段ならやりたくない雑用でも、今日ばかりはありがたかった。なんなら先生に感謝するぐらいに。

 HRが終わり生徒がぞろぞろと帰っていく中、俺と吉野は二人で教室に残った。

 先生が置いていったプリントの山を教卓から机に持っていく。

 プリントは四種類。二人でやるにしてもなかなかの量だ。


「小暮君、半分貸して」


 返事をする前に吉野は俺の机から二つの山を持っていって、隣に座って作業を始めた。

 こうしていると夢の中みたいだなと思った。

 向こうも同じことを思ってるのか聞いてみたかったけど、できるはずもない。あれがただの夢なら頭のおかしいやつだと思われるから。

 それに今はあの夢とは何かが違うのだ。その証拠に二人の間に言葉はない。

 紙が擦れる音がやけ大きく聞こえていた。

 しばらくの間そうやっているとようやく作業が片付いた。吉野の方もちょうど終わったようだ。

「小暮君終わった?」

「終わったよ。じゃあ持っていこうか」

 お互い二つの山を抱えて教室を出た。

 横目で隣に並んだ吉野を見る。とはいえ頭半分くらいの身長差があるから俺からは吉野の頭しか見えない。

 彼女は今、どんな表情を浮かべているのだろう。そうやって見つめていると視線に気づいたのか吉野は顔を上げて、俺と目があった。すると彼女はすぐにまた前を向いてしまう。

 職員室までの道がいつもより短く感じた。

『コンコン』

「失礼します」

 俺が扉をノックして先に入り、吉野もそれに続く。

「おお、終わったか。そこに置いといてくれ。時間取らせてすまんな」

「いえ、失礼しました」

 プリントを先生の机の上に置いてすぐに職員室から出る。作業の割にあっけない気もするが長居をするような場所でもない。

 やることはやったし帰ろうかと、扉の前に置いた鞄を掴み顔を上げると、吉野がこちらを見ていた。

「小暮君って何か部活やってるの?」

「いや、帰宅部だけど」

「そっか…」

 まただ。また、吉野は朝と同じように何か言いたそうな顔をした。

 今度は逃げるわけにもいかず、この空気に耐えられなかった俺は間を埋めるために口を開いた。

「吉野は何か部活やってるのか?」

「やってるけど今日は休みなの」

「そうか…」

 なら、と続けたかった。だけど行動に移す勇気は俺にはなかった。

「また、な」

「うん。また、ね」

 お互いにそれだけ言って歩き出した。

 『また』のあとに空いた間は、『また』のあとに『明日』と言わないのは、やはりそういうことなのだろうか。

 ふと振り返って見えた吉野の表情は、あのときのようにどこか寂しげだった。

 

 その日の夜もいつものように夢を見た。

 重いまぶたを開きながら隣を見るとまだ吉野は眠っている。

 俺と吉野はどっちかが毎回先に起きるということはなくほぼ半々だったりする。 

 そもそも先に起きるといっても時間差はあまりない。その証拠にちょうど彼女も目が覚めたようだ。

「おはよ」

「おはよう。今日は小暮君の方が早かったかぁ」

 彼女は何故か少し残念そうにしていた。

「なんでそんなに残念そうなんだ?」

「だって寝顔見られるの恥ずかしいじゃん。変な顔してなかった?」

「特には。可愛かったよ?」

「う〜ん、嬉しいような嬉しくないような」

 彼女は何とも言えない、といったような複雑な表情をしていた。

 ちょうど会話が途切れたので聞きたかったことを聞いた。

「そういえば今朝、何か言おうとしてなかったか?」

「え?」

「ほら、職員室の時も。何を言いたかったんだ?」

「その…」

 彼女は視線を右往左往して逃げ場を探しているようだった。

 やがて諦めたのか、顔を俯けながら小さな声で呟いた。

「…一緒に登下校とか…してみたかったなって」

「えっ?」

「だめ?」

 好きな人に上目遣いをされて断れる人間なんて、多分どこにもいない。まして自分もしたいことならなおさら。

「今度、一緒に帰ろうか」

「うん!約束だよ!」

 彼女は満面の笑顔でそう言った。こんな笑顔を見せられて、こんなことを頼まれて、期待しない人間なんてきっといない。

 俺も例にもれず、そんな人間だった。

 

 

 起きてからも、登校中も、学校に着いてからも。ずっとあの言葉の意味を考えていた。

 もしかして、いや違う。でも、と何度も何度も繰り返したけどその答えは出てこない。

 だけど、俺の心は否定よりも肯定に傾いていた。

 それが天使の導きか悪魔の囁きかは、まだわからない。

 

 放課後になって帰る支度をしている時、昨日の約束を思い出した。

 いや、思い出した、というよりはずっと覚えてはいたけど意識し始めた、という方が正しいかもしれない。 

 ずっとしてみたいと思っていて、約束もしたのに。どうにかして逃げようとしている。

 その一言を吉野に言うことが恥ずかしくて。拒絶されるのが怖くて。夢の中での不確かな約束だから余計に言い出せなかった。

 横を見ると吉野も帰る準備をしていた。言うのなら今しかないんだろうけど、どうしても言えなかった。

 椅子と椅子のわずか1メートル程度の距離が、途方もなく広かった。

 

 

 その後、結局言えずに家に帰ってしまった。

 多少の罪悪感と後悔があるものの、ずっと昨日の夢のことばかりが頭に浮かんでいた。

 一緒に帰りたいと、そう言ってくれるということは少なくとも多少の好意は持たれているはずだ。

 だけどそれがどの程度かがわからない。 

 人間は、特に恋愛においては、何かを期待する生き物なのかもしれない。

 何かが起こるかもなんて同じ電車に乗っていたように。

 知られたくない本音を、心のどこかで知ってほしいと思うように。

 散々悩んだ末に出した答えは、期待に満ちたものだった。

 

「おはよう、小暮君」

 今日は彼女が先に起きたらしく、俺が目を覚ますと吉野は笑顔で小さく手を振った。

 もはやその笑顔一つ、その挙動一つにすら意味を見出そうとしてしまっている。

「なあ、吉野」

「何?」

 彼女はきょとんと首をかしげた。

 俺は、ずっと胸に溜め込んでいた思いを今伝えよう決めていた。

「俺さ、吉野が…」

 何度も胸の内で繰り返したのに、いざその時となると続きが口から出ない。 

「私が、どうしたの?」

 少し微笑みながら彼女はその先を待っていた。彼女はこの言葉の続きを、もう気づいているのだろうか。

「吉野のことが…」

 うつむきながらポツリとこぼれるのはさっきと同じ言葉で、伝えたいことはいつまでたっても心の中でだけ反芻する。

 何度言おうとしてもその想いは口から出ることはなく、夢は覚めてしまった。

 

 

 翌日、起きたときの気分はかつてないほどに悪い。

 勇気を振り絞ろうとはしたけどその前に夢が終わってしまった。神様というやつは無慈悲だった

 あのまま続いても言えたとは思えない。だけど何かのせいにしないとやってられなかった。

 そんな自分が嫌になる。だけどそれ以上に、夢が覚めて心のどこかで安堵している自分が何よりも許せなかった。

 

 そんな思いで過ごした今日は、彼女とまともに顔を合わせられずにいた。電車に乗るときも、教室に入るときもずっと彼女から目線を外した。

 それは恥ずかしさからくるものじゃなくて、もっと情けないもので。

 一度逃げてしまったら、それが癖になってしまうらしい。

 今日こそは伝えようと思っても、根拠のない自信は少しずつ薄らいでいっている。

 多分次が最後だ。

 次に逃げてしまったら、もう二度と伝えられないだろう。

 だから、今度こそはと、そう思ってまぶたを閉じたのに。

 

『pi,pipi,pipipi』

 

 やはり神様は無情らしい。

 なけなしの覚悟は、夢とともに泡沫となって消えてしまった。

 

 

 最後に夢を見てから一週間が過ぎた。

 あれから吉野と一度も話せていない。ただ話すことですらひどく難しい。

 結局、俺と吉野の関係は何一つ変わっていなかったのだ。夢を見る前も、終わった後も。

 それに気づくのはあまりにも遅すぎた。

 もっと現実で話しておくべきだった。関わっておくべきだった。

 後悔が何度も浮かんでは消えていく。

 もう、全部終わってしまうのだろうか。 俺と彼女を繋いでいたのはあの夢だけで、もう夢は消えてしまったのだから。

 いや、そもそもちゃんと始まってすらいなかったのかもしれない。きっと自分の物じゃない何かにすがって、頼って。始まった気になっていただけなのだから。

 なら、全部終わらせよう。この中途半端な状況を。形にならなかった想いを。

 もう一度始められるかはまだわからない。

 けど、だけど。

 伝えなければいけない。伝えたい。あのとき言えなかった言葉の続きを、今度は現実で。

 

 次の日の放課後、俺は吉野を体育館裏で話があるからと呼び出した。

「小暮君、話って何?」

 それが一週間ぶりに聞いた吉野の声だった。

 顔が熱い。足が震える。鼓動がうるさい。それでも、

「あのさ、俺…」

 覚悟を決めろ。もう逃げるな。また逃げてしまったら、きっと次はもうないから。

 顔を上げて吉野をまっすぐ見据える。その姿は夢の中よりもずっと魅力的に見えた。

「吉野のことが好きです!」

 ただこの一言がずっと言いたくて。

 ずっと溜め込んでいた想いは今までの分と言わんばかりに辺りに響いた。

 吉野からの返事はない。驚いているのか、傷つけないように言葉を選んでいるのか、しばらく吉野は何も言わなかった。

 やがて吉野の口がゆっくりと開いていく。脈打つ心臓はさらに速さを増した。答えを、拒絶を聞くのが怖くてたまらず目を逸らす。

「私も、私も小暮君が好きだよ」

 最初はその言葉が信じられなかった。だけど彼女の目を見るとそれが本気なのだと嫌でもわかる。

「本当に?」

「うん」

「そっか」

 心の中に浮かぶのは驚きと、安堵と。そこに喜びがないのは多分まだ実感がないからだろう。

「えっと、その、付き合ってください」 

 俺がぎこちなく言うと、吉野はクスッと笑った。

「遅いよ」

 それは、告白したあとに言うのは、ということか。それとも―。

「こちらこそよろしくお願いします」

 吉野はそう言って一歩先に進んで、振り返った。

「小暮君、一緒に帰ろ?ほら、約束」

「え?あ、ああ」

 まさかこんな日が本当に来るなんて思わず、うまく返事ができなかった。

 吉野は立ち止まったままの俺に手を伸ばす。

「どうしたの?行こ」

「あ、ごめん」

 俺はその手をためらいながら握る。たったそれだけで鼓動が速くなるのを感じる。

「えっ!?」

「えっ?」

 手を握った瞬間、吉野が驚いた声を出した。

「手を繋ぐってことじゃなかったのか?」

「まさか本当に握られると思ってなくて…」

「…ごめん」

 俺は慌てて手を放した。だけどすぐに、手に温かく柔らかいものが触れた。

「このままでいい。ううん、このままがいい!」 

 顔が熱くなってくる。それを隠すように、俺はちょっとだけ横を向いた。

「俺もこのままがいい」

「うん!」

 それから、どちらからというわけでもなくゆっくりと歩き出した。

 すっかり色づいた並木道を二人で歩いていく。

 俺と、君と。

 二人だけの時間がいつまでも続くようだった。

やはりヘタレな主人公は書いてて楽しいです。次は捻くれさんに挑戦してみたい。

感想、評価お待ちしております。

よろしければ前作も読んでみてください。

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