宇宙ジン
「知ってるか、きみ」
そういってマスターは銀ピカのシェイカーを振る手を止めた。
神妙な面持ち、しかしその口元はなんらかの衝動を無理に押さえつけているような。
わたしは、彼の言葉の続きを待つ。
この店は、あいかわらず薄暗くて埃っぽい。窮屈な棚に収まったボンベイサファイアの瓶が、なぜか、ピキンと音を立てた。
「きみね、きみ。宇宙ジンって知っていますか?」
宇宙、ジン。
「……いえ、知りませんよ。なんですかそれ?」
心底不思議そうな表情を作りながら、わたしはそう返答する。でも、知ってる。それは、マスターの、いつものあれだ。
「宇宙ジンっていうのはね、きみ、宇宙的なパワーを凝縮したジンなんですよ」
「はぁ」
「ぼくが考案した新メニューなんですがね、ほら、これ……」
またはじまった。もう、うんざり。
「さあ、試飲してみてください。もちろんお代はいただきませんよ? ほら、どうぞどうぞ」
そういってマスターは白銀のシェイカーから名状しがたき冒涜的な緑色に発光するドロドロした液体を、グラスに注いだ。
それを、わたしの目の前の恭しく差し出す。
「さあ」
「……」
わたしはそれを飲み込もうとする。が、その刹那、水面に何か奇妙なものが浮かんでいるのを発見した。でも、気になんかしない。ここではいつものことだから。
「いただきます」
軽くグラスを上げて、少しずつ液体を口に注ぎ込む。
「どうです? コクがあるでしょ?」
「ええ、おいしいですね」
「そうでしょう、そうでしょう、ははは!」
マスターは、子供のように破顔してその禿頭をピシャリと叩く。
「隠し味、気づきました? そら、そこの」
「ええ」
わたしはその「隠し味」を、指先でひょいとつまみ上げて、彼の眼にわざとらしく見せつけるようにする。
「これですね」
「そう! まさにそれなんです!」
マスターは、自慢げに腕を組む。
わたしはその奇妙なモノをグラスに戻し、煙草に火をつけた。
「それで、どうしたんです? これ」
「ああ、それですか、話せば長くなるんだが……」
「三行でお願いします」
マスターはウフッ、と変な声を出した。
「夢でね、見たんです。そしてバーを開けようとしてね、昼ごろここへ来たんです。そしたらね……そいつが、カウンターの上に」
「はぁ……」
「でね、わたし直感しましたよ。こいつは夢で出会った通りだ! 宇宙人、宇宙からやってきた贈り物ですよ! 爬虫類型のね」
「わたしは……」
「ん?」
「わたしは、こいつの名前、知ってますよ。レプティリアン」
彼はわたしの言葉を聞いたとたん、手に持っていたグラスを床に落とした。
ガシャン、という音が、他に客のいないこのバーに響く。
「な、なんで知ってる……まさかおまえ」
わたしは、宇宙ジンをまた一口飲み、こともなげに言った。
「ネットで見たんですよ、サイズは違うけど、これとそっくりのやつ」
「ネット?」
マスターは、平成も終わらんとするこの世では珍しいタイプの人間……すなわち、インターネットを使うことのできない男だった。
「ヒラリーが、これなんですってね。ほら、アメリカ大統領選の。他にも、イギリスでは……」
マスターは、明らかに気落ちしていた。
「じゃあ、これは、そんなに珍しいものではないっていうのかい?」
「まあ、そうなりますね」
「ふむ……」
なんだかわたしは、マスターが哀れになってきた。父が死ぬ前、こんな風に急に小さく見えたものだった。
「でも」
なにか、勇気付けるようなことを言いたかった。不合理でもいい。
わたしは言葉を続けた。
「こんないい味出すレプティリアンは、世界で一匹かもしれませんね」
マスターは、腕組みしたまましばらく黙っていたが、やがて、ホッとしたような泣きそうなような、妙な笑顔になった。
「……そうだ、そうだな! 世界に一つ、れぷてぃりん? の、宇宙ジンが飲めるのはここだけ! ふふ、これは隠しメニューだなぁ」
そういってマスターは、グラスの中で泳ぐ小さなレプティリアンを愛おしそうに眺めた。縦肘をついて、にこにこにこ、と。
わたしも同じようにした。
レプティリアンは、緑色のグラスの中を浮かんだり沈んだり、たまに螺旋状にくるくると泳ぎ回ってみせたりした。
……わたしたちは、何時間でもこの「宇宙ジン」を見ていられるような気がした。