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半年後


 今期最後の科目の試験が終わった。出来は上々だった。試験会場の外に出ると既に日が暮れている。学生たちがぞろぞろと帰途に就く中、エリアスは立ち止まった。出入り口の幅がそれほど広くなかったので行き過ぎる連中からは睨まれたり舌打ちされたりした。しかし今はそれどころではなかった。


「行こうか」


 顔も知らない、背格好も記憶が曖昧、だがそのひんやりとした声音はしっかりと憶えていた。半年間待ち焦がれていた『連絡』を漸くする気になったのか。


 突如として現れたその女性は、笑みを含んで歩み出した。エリアスはそれについて行くしかない。二人は他の学生とは違う方向へ進んだ。演習地と公園に繋がる遊歩道に入った。

 しばらく二人は無言のまま歩き続けた。エリアスは何度も質問をしようと試みたが、そのたびに見せる彼女の思わせぶりな横目と微笑が、それを思い留まらせた。


 街灯が点いた。完全に日が暮れて辺りは暗闇に包まれる。女性は突然立ち止まり、近くにあったベンチに腰掛けた。そこは公園の入り口だった。近くには子持ちの学生向けの託児所があったが人の気配はない。既に営業を終えたようだった。


「セティラだ」


 女性は言いながら隣を指し示す。座れということだろうか。距離を置いて腰掛けた。すると女性のほうが距離を詰めてきた。周りから恋人だと思われかねない距離感で少し緊張した。彼女の黒髪からは柑橘系の匂いがした。


「セティラって……、あんたの名前か?」


「とりあえず学籍ではそういうことになっている」


「あんたも学生だったのか」


「あと一年で卒業だが、そうだ。きみと同じ魔術科だよ」


 セティラは真正面を向いたまま喋っていた。相当な小声で、神経を集中させなければ聞き取ることができない。エリアスも彼女に倣って小声になる。


「半年間、待ち焦がれてた」


「私との再会を? ふふ、私も罪な女だな」


「半年間の契約と言っておきながら、あの夜以来、何の連絡も寄越さないんだからな。気が気じゃなかった」


「言っただろう。きみに課すのは『学生』であることだと」


「確かに言ってた。けど意味不明過ぎる。それだけで二〇〇万以上も貰えるなんて」


「きみが優秀だからさ」


 セティラは一瞬だけエリアスを見て笑んだ。間近で見ると相当な美人だったが印象に残らない顔をしていた。中肉中背で服装もありきたり。声の冷たさは特徴的だったが意図してその特徴を殺そうと話し方に注意を払っているようにも感じる。


「……どういう意味だ?」


「きみが優秀だったから契約の説明を放棄した。余計な重圧を与えるのは得策ではない。私のこれまでの経験から、そう判断した。それは間違いではなかったと思う」


「意味が分からない。分かるように話してくれないか」


「今はまだ話すつもりはない」


「いつになったら話す気になるんだ」


「永遠にそんなときは来ないかもな」


「僕をからかってるのか」


「いや。違う。今日私がきみに会いに来たのは、新たな契約について話す為なんだよ」


「新たな契約……?」


「その新たな契約に同意するなら、これまでの契約についても話す。同意しないなら、私はこのまま去る。きみとは二度と接触しない」


 エリアスはセティラの思惑を量りかねた。だがこの女性には恩があった。彼女に逆らってはいけないという強迫観念に似たものがあったし、彼女の纏う冷たく硬質な雰囲気に圧倒されている部分もあった。困惑しつつも何とか質問をする。


「新たな契約というのは……、つまり僕にもっとカネを稼いでみないかってことか?」


「そうだ。きみが優秀なので、今回は四〇〇万ほど用意してきた。出来によっては上積みも検討しよう」


「悪いが、僕はもうカネに困ってない。いったいどんな契約なのか分からないが、応じる気はもうないよ」


「そうか。そう言うと思っていた。ここ半年、きみをずっと観察していた。勤勉で、真面目で、堅実な性格をしている。交友関係は広くないが知人からの信頼は厚い。運動能力もそこそこある。そしてここが重要だが、きみは依然カネに困っている」


「困ってないと言ってるだろ」


「確かに半年前ほどの絶望的な状況ではない。しかしきみが学費の支払いを実家に頼っていることは事実だし、一日一食の質素な生活を続けていて、たまに友人から食事のお零れをあずかって何とか空腹を紛らわせていることを私は知っている。そして、きみは実家から二〇〇万の治療費が必要だと説明されたが、実際の治療費はもっと高額で、きみのご両親がさんざん金策に走り悪魔に魂まで売り渡す覚悟をして、それでも足りなかったのが二〇〇万という金額であり、実家はもうきみの学費を払うだけの余力がないことも、私は知っている」


 鳥肌が立った。どうしてエリアス自身が最近知った事実を全て知っているのだ。セティラは笑みを消して無表情になっていた。


「……あんた、いったい何なんだ。どうしてそこまで知ってるんだ」


「調べたんだ。別にそう難しいことではない。そんなことよりきみについてだ。きみはここの退学も視野に入れて生活を送っていた。何とかカネを工面したいが策はない。今回はどうにかなってもきみがここを卒業するにはあと三年、どんなに上手くやっても二年はかかるだろう、その間の学費を払い続けるだけの財力が果たして実家にあるのだろうか、いやあるはずがない、きみはそう考えている」


「どんなに調べても、僕が何を考えているかなんて、分かるはずがない」


 誰にも話していないのだから。しかし図星ではあった。


「きみの性格については大体分かっている。そしてきみが直面している現実を見れば、そう的外れな分析というわけでもないと思う。いいか、四〇〇万だぞ。それだけあればきみは実家に送金して無理な金策の歪みを正すことも可能だし、自らの学費も十分賄うことができるだろう。きみはこれだけの好機をみすみす見逃すのか」


「……随分勧誘に必死だな。半年前はもっと素っ気なかったのに」


「言っただろう。きみは優秀なんだ。だから契約金も倍増させた。これが私の誠意だ。投資家は気持ちを金額で語るものなんだ」


 エリアスは混乱していた。カネに困っているのは事実。実家の両親や今も入院中の妹が心配なのも事実。

 だがセティラと名乗るこの女の契約が不気味なのは違いなかった。半年前は必死だった。しかし今回は半年間丸々思索の時間が与えられていた。その結果、やはりこんな旨過ぎる話には裏があって然るべきだというごくごく当たり前の懸念が浮上していた。


「……考えさせてくれないか。時間をくれ」


「駄目だ。今ここで決めろ」


 セティラは強い語気で言う。エリアスはぎょっとした。


「どうして。時間くらいくれたっていいじゃないか」


「私も暇ではないし、きみに私の連絡先や居場所を教えてやるほど信用しているわけでもない。まあ、それはお互い様だろうが」


 セティラは溜め息をついた。


「考える時間なら幾らでもあっただろう。きみには既に適切に判断する材料が与えられているはずだ。今、ここで、決めるんだ」


 エリアスは知っていた。この申し出を断ったら死ぬほど後悔するであろうことを。申し出を受けて新たな契約とやらを結んでも、やはり後悔するかもしれない、だがそれによって救われる人間もいるということを忘れてはならない。


「判断する材料が与えられてるって? 冗談じゃない。あんたが僕にさせようとしていることは、適法とは言えないんだろう。じゃなかったらこんなにコソコソしているはずがないもんな」


「きみは既に一度契約に合意していることを忘れるな。潔癖でいたいと思うのは余裕のある人間の発想だ。きみはそんな人間でいられるほど豊かなのか。潔癖でいられないなら破滅を選べるほど清らかな人間なのか。これは確かに慈悲ではある。きみは契約を蹴って私と訣別する道が残されている。だがその道の先にあるのは何だ? 希望か? 平穏か? 向上か? いや違う。絶望と苦難と沈下だ。私が慈悲と言ったのはつまりこういうことだ、きみには道を選択する自由がある、そしてどの道を往けば成功が待っているのか分かっている。この問題には既に正答が示されているというわけだ」


「脅しじゃないか。判断する自由なんて、ないじゃないか」


「私がきみに借金をかぶせた張本人なら確かに脅しだろうな。しかし実際、私は手を差し伸べているに過ぎない。これを脅しと感じるのはきみが窮地に立たされているからだ。あくまで脅しではなく慈悲なんだよ、エリアス」


「……もういい、分かった。今決めるよ。でも、ちょっと待ってくれ、ちょっと……」


 エリアスは知っていた。自分がセティラとの契約を承諾することを。そしておそらく彼女も知っている、エリアスが新たな契約を結べないかと内心期待していたことを。

 そう長い時間黙り込んでいたわけではなかった。ふと額に触れるとびっしょりと冷や汗をかいていた。取り返しのつかないことをしようとしているのではないか。そんな不安が拭い去れるわけではない。


「一つ聞かせてくれ」


 エリアスは言った。セティラは首を傾げた。


「まだ判断する材料が足りないというのか」


「……あんたは僕の味方なのか」


「味方ではない、もちろん敵でもないが」


 セティラは即座に答えた。迷う様子は微塵も見られなかった。

 エリアスは苦笑した。


「味方だって言ってくれれば、迷うことなく了承したんだけどな」


「嘘はつけない。きみの能力が不足していると判断したときは、何らかの方法で債権は回収する。まあ、それほど心配はしなくとも大丈夫だとは思うが」


「僕が優秀だから?」


「そう。きみは優秀だ。私が惚れてしまいそうなくらいにね」


 セティラの笑みに、エリアスは腹を据えた。彼女は小さな鞄を持っていた。垣間見えるのは札束。今回の契約金が四〇〇万と言っていたがまさにそれくらいはありそうだった。


 これだけのカネで得体の知れない契約を結んでしまう自分は浅はかだろうか? エリアスは自問自答する。ここ半年間はこんな苦しい思いをしてまで学院に通い続ける意味を模索していた。家族にも迷惑をかけている。仮に契約を結ばず、無事に卒業まで漕ぎつけたとして、それで得るのは上等な職である。そして上等な職を獲得して得られるのは、ちっぽけな名誉と地位、それからカネである。


 一番カネが欲しいときにカネをくれてやると言ってくれる人がいる。それに応じるのは合理的だろう。かけがえのないモノを失ってしまう前に、動くべきだ。

 人生の岐路と言って差し支えないだろう。エリアスは自らを幸運だと思った。セティラの言った通り、正答は既に示されている。


 数十分後、エリアスは自らが借りている寮の部屋に戻って床に寝転んでいた。札束が入った鞄を枕にして。あれほど渇望していたカネが取るに足らないモノに思えた。枕には向いてないな、とそのゴツゴツとした感触を後頭部で味わいながら呟いた。


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