奇妙な取引
食べかけのサンドイッチを口にした。不味かった。これが最後の食事かと思うとうんざりした。
空腹だったら美味しいと感じたかもしれない。しかしエリアスはここ三日まともな食事を摂っていないにも関わらず、腹が空いていなかった。
腹が減るということは躰が栄養素を欲しているということだ。栄養素を欲すということは、まだまだ生きたいと望んでいるということだ。
つまりこの貧弱な肉体も、ご主人がとっくに生きる活力を失っていることを察し、無様な叫び声を上げることを諦めたのかもしれない。いや、生きる活力どころか、今は死に向かう強力な動機が与えられている。あれほど依怙地だった腹の虫も屈服しようというものだ。
夜風が生温い。廃棄された旧魔術科棟の周辺には人の気配がない。自分の死体がいつ発見されるのか――翌朝か、あるいは数日後か。まさか長期休暇が明けても放置されるということはないだろうが、少々気掛かりだ。
「もう少し右に移動したほうがいい」
人の声。ぎょっとした。振り返って闇に目を凝らす。間もなく、相手のほうが明かりを点けた。小柄な女学生だった。照明魔法でも焚いたのか、背後が発光し濃い影を帯びているおかげで顔がよく見えなかった。
「なんだ、あんたは。いつからそこに」
「そこから飛び降りると二日前に自殺したアラグの頭蓋とご挨拶するかもしれない。まだ誰も発見していないからな……。かと言って左に移動するとゲロ吐きながら落下していったオンラゼンのポイントに近い。こちらの遺骸は回収されたが、誰も汚物を掃除していないから、あるいはきみの死体に誰も近付こうとしなくなるかもしれない」
エリアスは恐怖した。なんだこの女は。
「あんた誰だ。ここで他に誰が自殺したって……?」
「ここは自殺の名所だよ。より精確に言うなら取立屋が債務者に自殺を勧める場所だ。あまりにもここでの自殺者が多いからろくな調査も行われずに処理される。きみの自殺動機も借金苦ってところだろう」
「違う。僕に借金なんてない」
エリアスは答えた。しかしカネが必要なことに違いはなく、借金を抱えているのと大差はない。それなのに見栄を張ってしまった。
女性はくすりと笑った。
「そうか。すまないね、私自身悪趣味なレッテルを貼られることに抵抗しているのに、きみを苦学生だと思い込んでしまっていた。となると――恋愛のもつれとか」
「僕の自殺動機なんかどうだっていいだろう。どこかに行ってくれ」
「相当に決意が固いようだな。普通は誰かに発見されたら日を改める。ますます興味が湧いてきた。自殺の邪魔はしないから、どうかワケを聞かせてもらえないか」
エリアスは女を睨みつけた。普段の彼なら見ず知らずの人間にこんな込み入った事情なんか話すわけがなかった。しかし死を前にして興奮しているのか、自棄になっているのか、自分でも気付かない内に口が動いていた。
「カネが必要なんだ。妹が病気で――その治療費に」
「何と言うか、どこかで聞いたような話だな。いや、馬鹿にするつもりはないが」
と言いつつ女性の声音はやや呆れているように思えた。そうだ。傍から見れば間抜けな野郎に映るかもしれない。
「――しかし治療費が必要だというだけなら、借金するなり働くなりしてどうにかできそうなものだがね。そうしないのは何故だ?」
「時間の猶予がない。僕の実家は遠く離れた山国だが――学業に支障があるといけないからと言って、両親が最近まで妹の病気のことを隠していたんだ。そのくせ、ここの学費はきちんと払ってくれていたのだから、おかしな話だよ」
「優先順序が違う、と。なるほどね、しかしきみに病気の話を隠そうとしていたのは、実は両親ではなく妹さん自身なのではないか?」
エリアスは仰天した。屋上のふちに立つ彼はそのまま地面に落下しそうになった。かろうじて踏みとどまる。
「どうして分かるんだ?」
「よくある話だよ。そしてきみは兄思いのいじらしい妹さんを救うべく、治療費を捻出する為に保険会社と契約してここで自殺をするってわけか」
「止めるなよ」
エリアスは女を睨みつけた。女はしかしそれを聞いてにやりと笑った。
「止めないさ。止めるわけがない。私がここで夜を明かしているのは、自殺する為にわらわら集まってくる人生の落伍者の話を聞きたいが為だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「そうか……、なら、いいんだ」
奇妙な女だった。他人の死の間際を観察しようとするこの人間が異常だと思ったし、そんな彼女に見送られる自分の人生の末期というやつがおかしく思えた。ただ、やるべきことは変わらない。全ての手続きは済んでいる。
女に背を向けた。いよいよ飛び降りる。あまり恐怖はなかった。眼下は深い闇。遠くに街灯の明かりがあったがここまでは届かない。
昼間だったら足が竦んでいただろう、それくらいの高さはある。重心を少しずつ前に傾けた。
「ところで、きみ――治療費はどれくらい必要なんだ?」
女の声。せっかく精神を集中させていたのに、気分が台なしだった。
振り返ることなく、
「国際通貨換算で二〇〇万だよ」
「相当な大金だな。ここを中退して働いて返そうと思ったら、就職先に恵まれていたとしても捻出するのに五年はかかるってところか。いや、引き止めて済まなかった。もうこれ以上は何も聞かない」
気を取り直して、屋上のふちに立った。エリアスはこれまでの人生を振り返った。田舎の寒村で生まれ育ち、たまたま村を訪れた宣教師にその学業と魔術の才を認められ、地元の文法学校に進学することとなった。そこでも抜きん出た成績を残し、大陸随一と評判のここ大精霊学院に奨学生として入ることとなった。
しかし奨学金の給付を受ける為には優れた成績を維持する必要があった。大陸中の天才と秀才を掻き集めた学院内で、エリアスは田舎出身の凡夫に過ぎなかった。間もなく奨学金を打ち切られ、多額の学費を払わなければならなくなった。
中退を考えた。しかし両親は学費を払うと言ってくれた。向こうの暮らしも楽ではないはずなのに。その言葉に甘えてしまった。考えてみれば、そのとき既に妹の病気は発覚していたはずだ。多額の治療費が必要なことも。それなのにエリアスの将来を優先した。
両親に対し言いたいことは山ほどあった。しかしきっと妹が兄の将来を邪魔したくないと言って口を閉ざすことをお願いしたのだろう。奨学金を打ち切られたエリアスに非があるのに。奨学金さえ受け取っていたら、両親には妹の治療費にカネを回す余裕があったのかもしれない。
これは自分のせいなのだ。自分の責任だ。妹の余命は幾許もない。カネを手っ取り早く稼ぐ方法はこれくらいしか思いつかなかった。
妹は悲しむだろう。とてつもなく重い十字架を背負うことになる。でも、妹よ、お前も兄に対して同じことをしようとしていたのだ。お互い様だ。大人しくお前は治療を受けろ。少しくらい兄らしいことをさせてくれ。子供の頃はお前のことをからかったりいじめたりしたこともあったけれど、本当はお前の笑顔が何より好きだった。だから笑わせようとして上手くいかなかったとき、恥ずかしさと苛立ちで、つい意地悪してしまった、それだけなんだ。
だから……。
「ねえ、きみ、ちょっといいか」
また声。エリアスは自分がとっくに飛び降りているかと思っていた。実際はその寸前だった。タイミングを逸し、その場にしゃがみ込んでしまった。
「何だよ、あんた! 僕の邪魔をするな!」
少し泣きそうになりながら振り返ると、女が申し訳なさそうに手を振っていた。
「悪い、悪い。しかしよく考えてみたら、そこから飛び降りるのはまずいな。真下が花壇になっていて、ふかふかの土がある。万が一にでも、助かってしまう可能性がある。そうなるとカネは手に入らないし、ご両親はきみの治療費にも頭を悩ませなくてはならないし、良いことなんて一つもない」
「……そうか。教えてくれてありがとう」
ぶっきらぼうに言ったエリアスは首を振りながら横歩きになって場所を移動した。
「ここでいいか?」
「そこは下が藪になっていて、見つかりにくいかもな」
「あんたが明日の朝にでも、死体を見つけたと報告してくれればいいことだろ。それくらいしてくれ」
「そうしたいのは山々だが、私は過去に何度も遺体の第一発見者になっているので、構内警察の精霊騎士から目をつけられている。だから最近は観察するだけにとどめているんだ」
「そうかい。じゃあ、ここは?」
「そこはいいな。うん、下は頑丈に舗装された道で見晴らしも良い。近くに水道があるから掃除も楽で清掃員も納得だろう」
「じゃあここで――」
「ところで、きみ、もしここに二百万あったらどうする?」
女が言った。エリアスはもう振り返らなかった。
「あるだけじゃ意味がない。それが僕のものでないと」
「ここにあるんだ。奪えばいいだろう。そして逃げる。手段を選んでいられる状況じゃないはずだ」
「そんなことをしても妹は喜ばない。法的に正当な手段でないと」
「そうか。きみは真面目だな。――もう一つだけ質問、いいか」
「本当にあと一つだけならね……」
「私がきみに二百万くれてやると言ったら、どうする?」
時間が止まった。心臓の鼓動が早くなる。しかし、すぐに自分に冷静になれと必死に言い聞かせた。
「――なるほど」
エリアスは言った。声が震えていた。
「それがあんたの本性か。そうやってカネに困って窮地に立たされた自殺志願者をからかい、ぬか喜びさせて、更なる絶望の淵に突き落としてやろうってところか。まあ、こんな場所にたむろってる人間がまともなはずはないか」
「純粋なる好奇心から聞いている。きみは死ぬのをやめるか?」
女は言った。エリアスは女をちらりと見た。表情がはっきりと見えるわけではない。口元が僅かに視認できる程度。
「やめる。その二百万が本当に僕のものになるのなら」
「そうか。いや、再三引き止めて悪かったな。私はそろそろここを去るよ」
女は背を向けた。そして本当に屋上から去ろうとしていた。
エリアスは溜め息をついた。これでようやく死ぬことができる。今の質問は謎だが、もうどうだっていい。
どうだっていいんだ。もう死ぬ。死ぬのだから何も関係ない。
死に立ち向かっているというより、死に逃げ込んでいるという感覚だった。なんて弱い人間なのだろう。エリアスは自分を恥じた。それでも死ぬことはやめられなかった。本当は死ぬのが怖い。死にたくない。けど仕方ない。妹を死なせてまでここを卒業したいとは思わない。自分はそれほど立派な人間ではない。妹の人生より価値あるものにしなくてはならないという重荷に耐えられない。臆病なのだ、自分という人間は……。
「待ってくれ」
エリアスは言った。女は立ち止まる。
「なんだ。私に言ったのか? そうだな、私ばかり質問して不公平だったかもしれない。きみからも質問を受け付けよう」
「二百万、あるのか?」
「そりゃあどこかには存在するだろう」
「質問が悪かった。あんたは二百万持ってるのか? 僕にそれをくれるのか?」
「二百万持ってるかって? 持ってるよ。それくらいのはした金」
女は素っ気なく言った。エリアスは目を見開いた。女は近くに落ちていた錆びた鋼材に腰掛け足を組む。
「持ってる……、のか、本当に」
「持っている。しかしはした金とは言っても、やはり他人にくれてやるには惜しくなる金額かな。私はケチだから……、たとえ僅かな出費でも、そこに意義を見出したい。きみが二百万という報酬に見合う活躍をしてくれるなら、まあ、くれてやってもいい」
「ほ、本当に……?」
「しかしきみ、死ぬんじゃなかったのか。血色が良くなってきているぞ。これから死に向かうって人間の顔じゃない。さっきまでのほうがよほど死人らしい」
「二百万くれるってのは本当なのか!」
声を荒げた。女は肩を竦めた。
「語弊があった。くれてやるってのはナシだ。契約だ。きみが私の手足となって汗水垂らして働くことを約束するなら――二百万と言わず三百万でも四百万でも一括で渡す。私は金持ちってわけでもないんだが、自由に動かせるカネを持ってる」
よく意味が分からなかった。動かせるカネ、ということは自分の所有物ということではないのか。
しかし今はどうでも良かった。エリアスは足が震えるのが分かった。死のうとしているときは全く震えなかったのに。
「契約って――汗水垂らして働くって、何をすればいい!」
「学生だよ」
「学生――?」
エリアスは理解できなかった。女は笑んだ。
「今まで通り学生をしてくれていればいい。ただ、ちょっとした『収穫物』をきみから頂くことになる。きみはこれから不良学生と呼ばれる可能性がある。だが確認するが、きみ、本当に私と契約するのか?」
「カネをくれるのなら」
「念押しするが、本当に? 一つ言い忘れていたが、私はきみに違法行為の片棒を担いでもらうことになるかもしれない。それでもいいのか」
「別にいいさ。法に少しくらい触れたって。妹の命には代えられないだろう」
女は笑んだ。笑む理由は分かり切っていた。
「さっきと言ってることが違うな、まあこちらが本音なのだろうな。しかし妹の命だけじゃない、きみ自身の命をも守ることになるんだ。個人的には賢明な判断だと思う」
女はそう言うと再び背を向けた。エリアスは追い縋ったが緊張状態が続いていた所為か、何かに躓いて無様に転んだ。
「待ってくれ、カネが今すぐ必要なんだ、これからどうすれば――」
「何を言っているんだ。カネなら既にそこにある」
エリアスは自分が何に躓いたのか見た。信じられなかった。半開きのバッグ。中に入っているのは大量の紙幣。慌てて抱き寄せた。そして中身を確認する。二百万以上あった。新札もあればシミがついた古い紙幣もある。
「契約完了だな。後日また連絡する。契約期間は半年だ」
女は去った。結局彼女の名前も分からなかった。顔もよく見ていない。
これが現実の出来事なのか。こんな美味しい話が転がっているなんて。何をさせられるか分かったものではないが、こうしてカネが手に入ったのだ。もう逃げられないだろう。
涙を流した。妹を助けられるという喜びの涙には違いなかったが、それ以上に、自分は死ななくていいんだという思いが込み上げてきて、涙が止まらなかった。
夜が明けようとしている。エリアスはしばらくそこを動けなかった。大きく腹が鳴った。




