二人の気持ち
その日の放課後、宏明は紀美と共に、宏明の最寄りの駅からすぐのところにあるデパートへと出掛けた。
昼休みの出来事があったせいか、紀美はなんだかぎこちない。手をつなぐのでさえもためらってしまう。
あの後、紀美は宏明が抱擁したせいで、午後の授業は真面目に教授の話を聞いて、授業を聞いているどころではなかった。昼間から、しかも誰かに見られていたかもしれないと思うと、授業に専念出来なかったのである。それに、友達とか知っている人が見ていたら…と思うと、気が気ではない。
――私を安心させるためのものだったんだろうけど、やっぱり宏君は優しいよね。それにしても、恥ずかしかったな…。
紀美は歩きながらふと思う。
午後の授業の間、紀美の脳裏の中で、昼休みの出来事が何度もリピートして蘇ってくる。
当分、いや、一生忘れることはない出来事であろう。紀美にとってそれくらい衝撃だったのだ。
「…紀美?」
宏明が紀美を呼ぶ。
「え、あ…」
自分の目の前に宏明がドアップで写り、驚いてしまう紀美。
「何度も呼んでるのに…。まったくボ―ッとしちゃって、ノンちゃんてや―ねぇ…」
宏明は京子の真似をしながら言う。
京子と同じ口調を宏明がするため、思わず笑ってしまう紀美。
「ククク…宏君ってば京ちゃんの真似しちゃって…。なんか、キャラ変わってる―」
「やっと笑ってくれた。あの娘に言われたこと気にしてたせいもあって、元気なかったからな。まぁ、今のはオレなりに元気づけようとしてたんだ」
宏明は顔を赤くさせながら言う。
「ありがとう、宏君。心配かけちゃってごめんね。明日、京ちゃんにもお礼言わなきゃ」
「じゃあ、今から京子に何かプレゼント買う?」
「うん! 京ちゃん、お風呂セットが欲しいって言ってたから、お風呂セットをプレゼントしてあげようよ」紀美は前に京子が言っていたことを覚えていたのだ。
「お風呂セットってどこで売ってるんだよ?」
「雑貨屋さんに売ってるよ。安いので500円くらいかな。物によっては、けっこういい物が入ってるんだよ」
「雑貨屋さん…。あぁ…そういえばあったな、そんな店…」
デパートの中に雑貨屋があったのを思い出していた宏明。
店の前を通ったことはあるが、女の子向けの店のため、今まで一度も入ったことがなかった。
「どんなのがいいかな。色んなのがあるからね。色はピンク以外でいいよね? 京ちゃん、ピンクはあまり好きじゃないって言ってたし…」
「そうだな。どんなのかは店に行ってからでもいいんじゃない?」
そう言うと、宏明はデパートの駐輪場にバイクを置いた。
二人はデパートの中に入ると、すぐに雑貨屋さんに向かい、千円程のお風呂セットを買うと、最上階にある食堂街に行った。その食堂街の一つの店に入った。
「京ちゃん、喜んでくれるかな?」
紀美は可愛らしく包装されたお風呂セットを見ながら言った。
「喜んでくれるだろ? 自分の欲しい物だし…」
おしぼりで手を拭きながら言う宏明。
「そうだね。…ねぇ、宏君…宏君はどうして京ちゃんのこと、京子って呼び捨てにするの?」
突如、紀美は真顔で聞いてきた。
「なんでって…」
答えに困る宏明。
「いや、あの…なんていうか…」
「あ、ごめんね。変な質問しちゃって…」
紀美は慌てて謝ると、下を向いてしまう。
今日一日で色んなことがあったせいか、京子のことをなぜ呼び捨てにするのか気になったのだ。
「女友達の一人だからな。紀美と付き会う前から仲良かったし…」
ここはきちんと答えなくては、と思い、宏明は答えた。
「紀美の気持ちはわかる。今日のことがあったから、不安になってるんだろ?」
宏明の質問に、コクリと頷く紀美。
「京子のことを呼び捨てにしてるからって、京子とは何もない。わかってるだろうけど…」
きっぱりと言う宏明。
宏明と紀美が知り合ったのは、一回生の前期だった。元々、京子と入学と同時に仲良くなったのだが、紀美とは顔を知っている程度だった。
そして、ゴ―ルデンウィークが終わった五月中旬、宏明や茂の男友達や京子の女友達、計十三人と遊びに行くことになった。そこに京子の友達の一人として紀美がやってきた。
一見、大人しそうだが、話してみると将来の夢など自分をしっかり持っている紀美に一目ボレした宏明は、猛アタックの末に七月下旬、テスト終了後に付き合うようになったのだ。
実はというと、その前に京子に告白されていたのだが、宏明は“今好きな娘がいて、京子の気持ちには応えてあげられない”と、少し申し訳ない思いで言ったのだった。
後に京子に紀美のことが好きだとわかってしまい、付き合うまで冷やかされてきたのはいうまでもない。そして、紀美と付き合うことになった宏明は、大切にしたい、辛い想いをさせたくないという気持ちからか、何かあればすぐに言ってくれ、と紀美に伝えたのだった。
「でも、こうやって言ってくれるほうが、オレは嬉しい。これからも言って欲しい」
宏明は笑顔を向けて紀美に言った。
「私もどこか悪いとこがあったら言ってよね」
「紀美の悪いとこなんてね―よ。むしろ、オレのほうが悪いんだって。紀美のこと不安にばっかさせてるし…」
「ううん。不安になるのは辛いけど、そのほうが絆が強くなることない? ケンカしたりとかさ」
紀美はさっきの真顔から、なんとなくホッとした表情になっている。
本当のところ、不安になりたくはないけど、恋だけじゃなく何事にも不安な気持ちはつきものだということは、紀美にもわかっているため、さっきのようなことを言ったのだ。
「そうだな。あまり我慢はしないでくれ。紀美は今日のあの娘のように我慢することがあるから…。京子からのメールでビックリした」
宏明は京子からのメールを見た時の心境を紀美に伝えた。
「別れてって言われるまで睨まれてただけだったし、今日みたいなことがあるなんて思わなかったんだもん。睨まれてるだけで何かされたり言われたりなんてことないからいいかって思ってたんだもん」
紀美はアハハ…と笑ってみたりしながら話す。
「バカ。何考えてるんだよ。睨まれてる時点で、紀美に敵視してんのまるわかりだろ? 早く気付けよ〜」
宏明は呆れ返ってしまう。
「だって、宏君のファンとしてサインもらってて、好きなんだな―ってことは気付いてたけど、まさか別れろって言われるなんて思ってなかったんだもん」
「まぁ、そりゃそうだけど…紀美って鈍感だな」
宏明は苦笑するしかない。
そんな宏明の様子に、紀美も苦笑してしまう。
「オレはそういう紀美が好きだけど…」
宏明はボソッと独り言のように言った一言に、
「私も宏君好きよ」
顔を赤くさせながら、宏明をまっすぐ見つめて紀美は言った。
「あのさ、思ったんだけど、なんかオレって人目を気にせずに好きとか言ってるよな」
宏明は急に自分の行動が恥ずかしくなってくる。
たまに見境もなく行動することがある。
「それが宏君のいいところだと思う」
「紀美のように言ってくれる人が多いけど、中にはウザイって言う人もいるんだ。ウザイって言われてもオレはオレだしな」
そう言うと、宏明はグラスに入った水を飲んだ。
ウザイと言われたのは、高校一年の時だ。
真面目で成績優秀な女子から、「二葉君、前から思ったんだけど、はっきり言ってウザイのよ」と、嫌味のように言われ、まるで扱いにくい人間のような目で見られたのだ。
その言葉にめげずに今までやってきたのだが、たまに自分はそうなのかな、ウザイのかなと思うことが時々ある。
「人それぞれ見方は違うし、あまり気にすることはないと思う。言う人は言う。そういうことよ」
「まぁな。世の中、自分と同じ考え方の人ばかりじゃない。色んな人がいるってことか」
宏明は神妙な表情で言うと、何かを考え込むように紀美を見た。