ショックな心と後悔の気持ち
「へぇ…あの理事長が痴漢なんてしてたのか…」吉田先生は目を丸くして驚いた。
二人は食後のコ―ヒ―を飲みながら、ゆっくりとした時間を過ごしていた。
「その後の理事長はどうなったんだい?」
「警察に行って、理事長は辞めました。今はどうなってるかわからないですけど…」
「そうか。大学側が二葉君に痴漢を見つけてもらったって公表したとなると、女子生徒に言い寄られるようになったんじゃないのかな?」
吉田先生はいたずらな目をしてニヤリと不敵な笑みを浮かべた。宏明は不意をつかれたように顔を赤くして下を向いてしまう。
「それが答えってわけか。ふ―ん…」
腕を組み、深くイスにもたれかかる吉田先生。
「あ、あの…言い寄られたとかモテるとかそんなつもりじゃ…」
吉田先生のいたずらな目に、思わず早口になる宏明。
「わかってるよ。でも、ただ痴漢騒ぎの犯人探すためだけだったんだろ? それなのに、なんで人探しとか殺人事件の犯人なんか…?」
吉田先生の問いに、宏明はしばらく考えると、
「自分のやりたいことを見つけたかったんだと思います。国語の教師を目指すこと以外に、自分が夢中になれるもの。自分で気付かないうちに、ずっと探してたんだと思うんです」
コ―ヒ―が入ったカップを見つめて答えた。
「自分のやりたいこと、夢中になれるもの、か…」
吉田先生は呟くと黙ってしまい、自分の学生時代を思い出しているのか、考え込んだ表情になる。
しばらく二人の間に沈黙が流れた後の吉田先生は口を開いた。
「なんか、そういうのカッコイイよな」
「えっ…?」
「手探りで自分のやりたいことや夢中になれるものってのを探していく。なかなかそういうのは出来ないもんや。今の世の中、やりたいこととか夢がないって人がいる。二葉君のように探している人は、もちろん僕は尊敬している。中にはやりたいことも探さずに世の中の批判ばかり。そんな風になるのはどうかと思う。やらなきゃいけないこと、自分だけが出来ることはあるよ。こんなこと言っている僕も昔は後者の人間だけどな」
頭をかき、バツが悪そうにする吉田先生。
宏明には意外だった。
「昔っていっても、大学の時だけど、何のヤル気もなかった時期があったんだ」
「でも、国語の教師になるために、教育実習までして頑張ってたじゃないですか」
宏明は目を丸くする。
「国語の教師になること以外はね。夢は夢のままで終わらせたくなかったんだ。今思うと、夢中になれるものをもっとやっておけば良かったなぁ…って、後悔はあるけどね」
優しく微笑んでくれる吉田先生に、なぜかしっくりこない宏明。
再会した今日まで想像していた人物とは、どこか違っていたのだ。教育実習に来たあの頃からずっと、夢である国語の教師以外にも自分のやりたいことをやっているものだと思っていた。それが今日、自分の想像とはかけ離れてしまった。しかし、自分に夢を与えてくれた人物には違いない。
――現実と想像では違うんだってことを見せつけられてしまったな…。
宏明は誰かに胸を突かれたような気分になっていた。
自分がこうだと思っていても、実際に話してみないとわからない。人間はそういうものである。
「吉田先生、今からでも遅くはないと思いますよ。人生は長いんだし、まだまだこれからですって」
宏明の言葉に、吉田先生はふっと笑った。
「そうだな。今からでもやってみるか」
「オレ、先生のことずっと尊敬してるんですから…」
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいよ」
吉田先生は淋しそうな笑顔で礼を言った。
この時、宏明は気に止めていなかったが、吉田先生のその淋しそうな笑顔が、今後の宏明を悩ますことになる。
そして、再び吉田先生と近いうちに会うことになる。会うことになるといっても、今回とは違うシチュエーションで会うことになるとは、宏明は全く予想もしていなかった。
吉田先生との再会から二週間、いつもどおり宏明は授業を終えて、紀美と一緒に帰ろうと約束していた。四限目の授業は、紀美と別々のクラスなので、宏明は紀美が受けている授業の教室の前で待つことにした。
待つこと五分、紀美は教室から出てきた。
「宏君、お待たせ」
「うん。さ、行こうか。これからどうする?」
「どうしようか? まだ四時半だしねぇ…」
紀美は考えながら歩く。
今日は久しぶりのデートの日だ。この前のパスタ屋さんに行ったきりだから、一ヶ月近くもデートをしていない。
「そういえば、もうすぐでクリスマスだね。何か欲しい物ってある?」
紀美は思い出したように宏明に聞く。
「もうそんな時期か。欲しい物は特にないんだけど、強いていえばカレンダーかな。来年、就活あるし、ちょっとしたことでも書き込めたらなって…。手帳でもいいけど、毎日持ち歩くにはなぁ…。紀美は?」
「私は財布かな。別にブランドじゃなくていいけど、オバさんが持ってるのは嫌かな。可愛いのがいいな」
紀美は笑顔で答える。
「カレンダーと財布の違いか…」
ポツリ呟く宏明。
「あ、いや、財布じゃなくてもいいの。宏君がくれる物ならなんでも嬉しいもん」
早口で一気にいってしまう紀美。
「嫌味で言ったんじゃね―よ」
プッと笑ってしまう宏明。
その時だった。
ケ―タイが鳴って出る宏明。
相手は知り合いの警察官の谷崎警部からだった。
しばらく谷崎警部との会話をすると、宏明の顔色が変わった。
――マジで…? そんな…。
放心状態でケ―タイを切ると、その場で立ちつくした。
「宏君…?」
紀美が心配そうに宏明の服の袖を引っ張る。
「これから署に向かう」
静かな口調で言う宏明。
「何があったか知らないけど、私も行っていい?」
二人が署に着いたのは、五時半前だった。
宏明は谷崎警部から告げられたことを、紀美には言わなかった。
宏明に呼び出された谷崎警部は、二人をある場所へと連れて行った。
そこは霊安室だ。
「二葉君、いいか?」
谷崎警部の問いかけに頷いた宏明は、大きく息を吸った。
宏明の頷きを見た谷崎警部は、白いシ―ツをめくった。死体を見た宏明は、ショックで声が出てこない。
その死体は、二週間前に会ったばかりの吉田先生だった。
「吉田先生の通っている高校の体育館の倉庫で首吊りで亡くなっていた。自殺だそうだ」
「自殺…?」
やっとの思いで言葉が出た宏明。
「あぁ…。今日の五限目が終わった後、職員室に戻ったんだが、六限目が始まる前にはいなくなった。そして、終礼になっても先生が来ないとクラスの生徒から言われて探したところ、吉田先生が体育館の倉庫で亡くなっていた、というわけだ」
谷崎警部は同僚の先生に聞いたことを、二人に説明した。
宏明は何も考えられず、吉田先生をじっと見つめることしか出来なかった。
「…警部、なんでオレを呼んだんだよ?」
「吉田先生のケ―タイのメモリー中に二葉君の番号が登録されてて、それでな。とりあえず、会議室に行こうか」
谷崎警部は白いシ―ツをかけると、霊安室のドアを開けた。
会議室に着くと、宏明は一気に憔悴しきっていた。そんな宏明は見かねて、谷崎警部は自分の机からお菓子をそっと持ってきてくれた。
「二葉君、吉田先生と知り合いだったんだな」
いつもより優しい口調で言った谷崎警部。
「うん。中二の時に教育実習に来てくれた人で、二週間前に偶然、再会したんだ」
「そうか。吉田先生も国語の教師らしいが、もしかして吉田先生を目指して文学部に…?」
「そう。ずっと憧れてて、いつか再会したいって思ってて…。二週間前にやっと再会出来たところだったのに…」
そう言うと、宏明は深くため息をつき、頭を抱えてしまう。
宏明の脳裏には、吉田先生の淋しそうな笑顔が浮かんだ。
――あの時にはもう自殺を考えてたんかな? オレは久々に会えて嬉しかったけど、吉田先生の胸の内は色んな葛藤があったはずなのに、なんでオレは汲み取ることが出来なかったんだろ…?
「吉田先生ってなんで自殺したのかわからないんですか?」
紀美は宏明の代わりに聞いた。
「校長や何人かの同僚から聞いたんだが、十月に行った中間テストで国語の不正行為があったんそうだ」
「不正行為…?」
「あぁ…。吉田先生のクラスだけが満点に近い点数が続出したそうだ。元々、成績優秀者が90点台を取れるのはわかるんだが、赤点や成績が悪い生徒までも90点台を急に取れるはずがない。気になった別の国語教師が、調査したところ、事前に吉田先生が答えを教えていたことがわかったんだ」
「それで学校関係者から叩かれていたってわけか…」
谷崎警部の説明で、全てを理解した宏明は、今まで抱いていた吉田先生への理想が音を立てて崩れていった。
中二の時に感じた自信に満ちた吉田先生が、宏明が目標としていたあの吉田先生が、あろうことか自分の働いている高校で不正行為をしていたのだ。
自分の目標としていた人が、まさか不正をするなんて思ってもみなかった。それに、宏明はそういうことは正す人物だと思っていた。だからこそ、なんで?という疑問が自然とでてくるのだ。
宏明は大きなショックの中、深いため息をついた。
「それでその後はどうなったんだ?」
「吉田先生の高校で大きな問題になって、理事長や校長に経緯の説明を求められたそうだ」
「吉田先生の説明は…?」
あまり聞きたくなかったが、避けて通れないため、宏明は事実を聞くことにした。
「赤点を取っている生徒に少しでもいい点数を取って欲しかった。自分のクラスから赤点を取る生徒をだしたくなかった、と言っていたそうだ」
気持ちはわからないがという表情をする谷崎警部。
――クラスから赤点を取る生徒をだしたくない、か…。
「そんなことのために、吉田先生は不正をしたのか。もっと別のやり方があったはずなのに…」
力なくポツリ呟く宏明。
「まぁ、吉田先生なりの生徒への思いなんだろう。やり方は間違っていたけど…」
「きっと生徒を思い過ぎて、不正をしてしまったと思う。生徒思いの先生だから、生徒にも人気があったはずだよ」
紀美は宏明を元気づけようとする。
「二葉君の目指していた人物が亡くなったんだ。立ち直るまで時間はかかるけど、自分の目標に向かっていって欲しい。時間は戻ってくれないんだからな」
谷崎警部も紀美同様、宏明を勇気づけようと一つ一つ言葉を選んで言った。
宏明も二人の気持ちを汲み取っていたが、当分、吉田先生の自殺を受け止めて前に進む気にはなれない。
――吉田先生の淋しそうな笑顔。なんでそんな表情をしているのか。きちんと聞けば良かった。答えてもらえなくても聞くべきだった。人の気持ちをわかることは難しいことだけど、もう少し気を使うことが出来ていたら…。
宏明の中で、悔やまれることが多い。
「警部、吉田先生の処分ってのは…?」
「まだ確定していなかったみたいだが、来年の四月から違う高校に異動が有力だったみたいだ。異動なんてさせずに、もう一度チャンスを与えてあげたら良かったのに…」
「そうなんだな…」
これ以上の言葉が出ない宏明は、下を向いて教育実習の最終日に吉田先生が言ってくれた言葉を思い出していた。
……辛いことや嫌なこともたくさんある。それらから逃げたら負けになるから……
――そう言ってくれたのに…。結局、言った本人が辛いことから逃げて、自殺してしまった。これじゃあ、矛盾してるな。逃げるなとは言わないけど、自殺してしまうなんてズルイ。ズルすぎる。
「やっぱり、学校で白い目で見られてたのかな?」
「多分、白い目で見られてたんじゃないかな。一度、不正をしたら、嫌でも他の先生にも知られてしまうからな」
「そんなの悲しすぎる。確かに不正はしてはいけないことだけど、何も白い目で見るなんて…。同じ教師なのにね」
紀美は伏せがちに言った。
「まったく皮肉なもんだよ。不正すると違う学校に異動させるなんて…」
ため息まじりでなんともいえない表情になる谷崎警部。
宏明もなんともいえない表情になり、胸の中にはポツンと穴が開いていた。
谷崎警部の言うとおり、吉田先生がいなくても、自分の目標に向かわなくてはいけないし、もう後戻りは出来ない。いつまでも落ち込んでいても、吉田先生は生きて戻ってはきてくれない。今回のことをバネにしていかなくちゃいけない。
――これから先、自分は何を目標としたらいいんだろう…?
こんなに悩むのはオレらしくないっていうことはわかってる。だけど、もう少しだけ前に進むのはやめておきたい。今は前に進むのはしたくない。こんなに苦しむのなら、吉田先生と再会しなければ良かった。
後悔ばかりになっているが、いつかはそんなふうに思わなくなる日も来ると信じて、宏明の脳裏には吉田先生の顔が浮かんだ。
「宏君、辛いけど一緒に頑張ろう。きっと、吉田先生は嬉しかったと思う。再会出来て、自分を目標として教師を目指してくれるなんて、教育実習に来ていた時には思ってもみなかったと思う。最後の最後に、宏君と再会したことが、吉田先生にとって今までの最高の思い出になったんじゃないかな。もちろん、宏君と語れたこともね」
紀美は一つずつ言葉を選んで、宏明に伝えた。
宏明には、紀美の言葉が胸に響いた。
「そうだな。オレも頑張らないとな。吉田先生とのこと後悔ばかりになってたけど、人と出逢う縁に後悔はないんだよな。出逢うってことは、何かの縁なんだから、出逢わなければ良かったってことはないんだな。第一、オレ自身が吉田先生と再会したいって強く願ってたんだしな」
宏明はさっき自分が思っていた、吉田先生と再会しなければ良かったという気持ちを訂正した。
「そうよ。宏君は宏君らしく、自分のペースでいこうよ」
「僕は見守ることしか出来ないが、しっかりと自分が選んだ道へと歩いてくれ」
谷崎警部は微笑んで言った。
――吉田先生、オレは先生の分まで頑張る。吉田先生の気持ちは十分に伝わっているから…。
宏明は空の上にいる吉田先生にメッセージを込めながら、窓の外を見た。