宏明の清々しい気持ち
翌日の宏明は、どこか清々しい気分だった。それは昨日、小田に謝ってもらったからだ。
もし、あのまま何もしてもらえなかったら…と思うと、宏明の怒りはどこへぶつけたらいいのかわからないし、揉み消されることは、一番あってはならないことである。揉み消されたとして、再び小田に会うことになるかもしれないとなると、ぞっとしてしまう。ただでさえ、監視されるという行為をされていれのだから、きちんとしてもらいたかった、というのが宏明の心境だった。
そして、昨夜、谷崎警部から宏明のケ―タイに電話があったのだ。谷崎警部の口からある意外なことを聞いた。
「二葉君、今日の件だが、小田君がまた駐在に戻ることになったよ」
残念だというふうな口調の谷崎警部。
「いつ決まったんだよ?」
宏明はわけがわからないでいる。
「今日の夕方だ。今朝会った朝井警部補が上司に報告したら、速攻で決定したってわけだ」
「もしかして、オレのせい…?」
宏明は一抹の不安を胸に抱きながら聞いてみた。
自分のせいではないかと考えてしまったのだ。
「いや、違うよ。二葉君の前にも同じようなことをされた人がいてね。今回、二度目だということで、駐在に逆戻りさせられたんだ」
谷崎警部は宏明のせいではないということを言っておいた。
それを聞いてホッとした宏明は、
「小田さんて自己中だろ?」
苦笑しながら聞く。
「まぁ、自分勝手なところはあるといえばあるな。とりあえず、今日の異動のことを報告しておこうと思ってな」
「うん、わかった。ありがとう」
礼を言った後、ケ―タイを切り、ベッドに寝転んだ。
小田が異動ってこともあり、清々しい気分になったのかもしれない。
――まさか、前にもオレと似たようなことをしてたとは…。二度目だから駐在に逆戻りってことか。それは仕方ないことなのかもしれないな。
大学の駐輪場から校舎の中に入りながらそう思っていた宏明。
――あの朝井警部補って人はいい人だ。自分の部下が市民に事件でもないのに、二度も監視してたなんてことを知ったら、普通は隠そうとするもんだぜ。
朝井警部補の迅速な対応が嬉しかった、というのが、宏明の本音だった。きっと、朝井警部補にとって、小田は自分の部下としては適してはいなかった、ということなんだろう。
「ヒロ、おはよう!」
背後から茂がかけ寄ってきた。
「あ、茂、おはよう」
宏明は振り向き、茂に挨拶する。
「何かあった? ここ数日より顔つきが違う」
茂はいつもと違う宏明を見て指摘する。
「いや、別に…」
ニヤけながら答える宏明。
「なんでごまかすんだよ? あ、もしかして、あの恐面の刑事のこと?」
「茂ってスルドイな。ま、茂はオレの事情知ってるからいっか」
そう言いながら、宏明は観念したように谷崎警部との電話のことを話した。
「へぇー…異動か…。あの恐面の刑事ってヒロの前にも同じようなことをしてたんだな。興味を持った人には近付きたいってのがあるんだと思うけど、いくらなんでもやりすぎだな」
一限目の教室について、イスにカバンを置きながら言った茂。「これでいいだろうな。小田さんとも会わなくて済むと思えばな。もうこんな思いするのはごめんだ」
「そりゃあな。短期間で色んなことがあったけど、テストが終わるまでテストに専念出来るってわけだな」
茂が言った後に、教授が教室に入ってきた。
テスト前のレポートが終わり、宏明の大学はテスト週間に入った。テスト週間が終われば、約二ヶ月間の春休みなのだが、待ち遠しいくらいだ。
テスト三日目の午後七時、食堂で早めの夕食を終えてから、翌日のテスト勉強をしていた宏明は、シャ―ペンを置き伸びをしていた。家でテスト勉強してもはかどらないため、八時近くまでやろうと思っていたのだ。
――今週いっぱいでテストも終わるし、春休みが始まれば、紀美をどこか遊びに連れて行こうかな。
ご飯を食べに行くというのはあるのだが、最近、あまり紀美と遊びに行っていなかったのだ。
――オレがどこも連れていかね―から、紀美は不満に思ってるかもな。
教科書を見つめながら思う宏明。
「宏君…?」
紀美が宏明の座っているテ―ブルに近付いてきた。
「あ、紀美…何してるんだよ?」
紀美が目の前にいるのには驚いた表情をする宏明。
「図書館で勉強してたんだけど、食堂に行って勉強しようって思ってね。宏君ったら、そんなに驚かなくてもいいのに…」
頬をふくらませながら、宏明の向かいのイスに座る。
「何時まで勉強する気なんだよ? オレはあと一時間くらいで帰るつもりだけど…」
頭をかきながら紀美に聞く宏明。
「私も宏君と一緒に帰る」
「わかった。少しだけど一緒に勉強しよう」
「うん。そういえば、最近、相川君と一緒にいるよね?」
突然、意味深な質問をしてくる紀美。
「一緒にいるって…前から茂とは仲良いからいるけど…」
紀美の質問の意図がわからず、なんて答えていいのかわかないでいる宏明に、紀美はクスッと笑った。
「そりゃあね。今週に入ってからアダルトな話をしてる気がするんだけど、気のせいだったりする?」
事情を知らない紀美は首をかしげる。
紀美の言いたいことは、恐らく小田のことだろう、と直感した宏明は、
「ちょっと色々あってな」
「そっか。色んなことがあるんだね」
「まぁな。さっ、勉強に取りかかろう」
紀美はうなずくと、プリントを広げた。
そんな紀美を愛しく見つめていた宏明がいた。
午後八時、食堂から出た二人は、途中まで帰ることにした。宏明はバイクを押しながら、駅まで歩く。今日の空は、星が輝いていて綺麗な日だ。二人は無言のまま、三分の一の道のりを歩く。
「宏君、迷惑だった?」
紀美は宏明の顔を見つめながら聞く。
「迷惑って…何が?」
「食堂で一緒に勉強したこと」
「いいや。急にどうしたんだよ?」
「私が食堂で宏君に声かけた時、驚いてたから迷惑だったかなって思って…」
紀美の声が少し泣きそうだったのを聞き逃さなかった宏明は、気になりながら、
「全然、迷惑でもなんでもない。いつも、テスト期間中この時間まで紀美がテスト勉強してるなんて思ってなかったからな。でも、紀美がそう思ったんだっら悪かった」
バイクを止めて、紀美の顔をしっかり見つめながら言った。
一方、紀美のほうはうつむいたままで、宏明を見ようとしない。
「決して、嫌だとかそういうのではない」
宏明の一言に、紀美は顔を上げた。
「ごめんね。宏君が驚いてたから、勉強の邪魔しちゃったかな、悪いことしたかなって思ってたの」
涙目の紀美は、くしゃくしゃの笑顔になる。
「オレの態度も悪かったなと思ってる」
「ううん、いいの。宏君、テスト頑張ろう。私、ここまででいい。送ってくれてありがとう!」
一気に言った後に、紀美は駅の方へ走って行った。
宏明は呆気にとられながら、紀美の後ろ姿を見ていた。
――アイツ、最近、自分の気持ちを伝えてくれるようになったよな。前まではそんなことなかったのにな。オレはそれが嬉しいけど…。
宏明は紀美を見届けると、ヘルメットをかぶり、バイクにまたがった。