夢をくれた人
十一月中旬、風が冷たく吹く中、私立大学に通う二葉宏明は大学内にある図書館へと向かっている最中だった。目的はレポートを書くためだ。
昼休みが終わり、三限目の授業をとっていない宏明は、翌日の一限目に提出しなければいけないレポートを、あともう少し書き加えたいと思ったのだ。
図書館に入ると、心地よいくらいの暖房が入っている。宏明はレポートに関する本を三冊手に取り、隅の席へ座ると軽くため息をついた。そして、図書館全体を見渡す。
図書館には、宏明のようにレポート提出のため、レポートを書いている人や、授業の予習や復習をしてる人もいる。そんな人達に後押しされてか、宏明もレポートに取りかかる。
文学部の国文科にいる宏明は、国語の教師を目指している。
国語の教師を目指し始めたのは、中学二年の秋からだった。
当時、四回生だった男性の大学生が、宏明と同様、国語の教師を目指していた彼は、宏明のクラスに教育実習に来て、後に宏明にとって大きな存在となった。
教育実習の最終日、学級委員をやっていた宏明と一緒にやっていた女子に、“この二週間ありがとう。このクラスは不良が多くて大変だったけど、君たち二人がいてくれたから、安心して教育実習を終えられた。君たちのこれからの人生、楽しいことばかりじゃない。辛いことや嫌なことがたくさんある。それらから逃げたら負けになるから…”と、言ってくれた言葉が、宏明の心の中に今でも残っている。
もし、あの時、何も言ってもらえなかったら、教師を目指そうとは思わなかった。別の職業を選んでたかもしれないし、文学部には入ろうと思わなかったのだ。
たまに教育実習に来てくれた彼と逢いたいと思ったこともあったが、大学名はおろか住所や電話番号も聞いてはいないのだ。聞いたところで、教えてはもらえないというのが、もっともな理由だろう。
いつか逢えると思い、その日を待っているのだが、なかなか再会が出来ないというのが、実情だ。再会が出来る日が来ると思いながらも、宏明の心のどこかで、もう二度と再会は出来ない、来ることはないと半ば諦めているというのも事実である。
もし、再会が出来るのであれば、宏明は伝えたいことがあるが、それも言えそうにないと考えている。一番、再会したい人に再会出来ない。そんな矛盾を感じながら、今日まで過ごしてきた。
なんでも叶うことが出来る魔法があれば…と思うことが多いこのごろである。しかし、なんでも簡単に願いが叶ってしまえば、何一つ努力はしなくてもいい。
なんでも叶ってしまえばと思う反面、すぐに自分自身の中でその考えを否定してしまう。
そんな思いをもどかしく思うもう一人の宏明がいた。
大学の授業が終わり、オレンジ色の夕焼けが空いっぱいにひろがっている。
宏明は彼女の西野紀美と一緒に、四限目の授業の教室から校舎の外へと出てきたところだ。
「宏君、今日はバイト?」
「今日はバイトないんだ。紀美は?」
「私もない。家に帰っても何もすることないんだ」
宏明よりも二十八cmも低い紀美は、笑顔で答える。
「じゃあ、晩ご飯でも食って帰る?」
「いいよ。宏君、何かあった?」
急に紀美は真顔で聞いてきた。「何かって…?」
「時々、帰りたくなさそうな顔をする」
「そんなことないと思うけど…」
そう言った宏明には、思い当たる節があったのだ。
だけど、人には言うべきことではないと思い、ずっと心の中に隠していたのだ。
「私の気にしすぎかもしれないし…ごめんね、変なこと聞いちゃって」
「ううん、いいよ」
内心、ホッとする宏明。
「何食べる? 私、駅前のパスタ屋さんがいいなぁ…」
紀美はさっきと違う明るい口調で言う。
「そこ行こっか? オレ、ついでに買い物もあるんだけどいいかな?」
宏明の来てと、うなずく紀美。そんな会話をしているうちに、バイクの駐輪場に着いた。
ヘルメットが宏明の分しかないため、駅までの十五分間の道のりを、二人は歩く。
近頃は学内でしか二人で歩くというけとはしない。
デートは久しぶりといえば久しぶりだ。
デートといっても、毎日、学校で会っているため、別にしなくてもいいくらいだ。
二人は駅前に着くと、宏明の買い物を終えると、紀美が行きたいと言ったパスタ屋さんへと向かった。
そこのパスタ屋さんは、一ヶ月半前に出来たばかりの店で、インテリアに凝ったいい雰囲気だ。店内には宏明達より少し上の人や年輩の人が数人いる。
二人は注文すると、改めてホッとした。
「ねぇ、宏君、明日提出するレポートは書けたの?」
「うん。書き直す前よりも詳しく書いてしまったけどな」
宏明は自信満々に答えた。
「気合い入ってるじゃない?」「当たり前だろ? 教職の授業だし、オレはヤル気十分だ」
「教師か…。でも、なんで、国語なの?」
紀美はずっと気になっていたことを聞いてみた。
「中二の時に教育実習に来た人が、国語は教師を目指したっていうのもあるけど、国語は答えが一つじゃないってわかったからだ」
「確かにね」
紀美も同感する。
「それまで国語は苦手だったけどその人が教育実習に来てくれたおかげで、色んなことを学んだってところかな」
頬づえをついて言う。
「じゃあ、その人が宏君の人生を決定づけたっていうこと?」「そういうこと」
うなずきながら答えた宏明。
「その人に逢いたいけど逢えない。伝えたいこともあるのに伝えられない。人生ってこんなものかなって思ってるとこだ」
そう言うと、宏明は教育実習に来てくれた大学生の顔を思い出していた。
――今頃、教師になってるかな。志が高い人だったから、なんとしてでも叶えてるだろうけどな。
「教師の夢、ちゃんと叶えないとね」
紀美は宏明を見つめて言った。「その人が教育実習に来てなければ、文学部に入ろうなんて思わなかったんだから…」
「まぁな。教師になるっていう夢をもらったんだしな」
宏明は自分が教壇に立った時のことを想像していた。
あの頃――中学二年の時は自分が将来、何になるのか、自分の夢というものがなかった。
一度、小学生の時に「シェフになりたい」と思ったこともあったが、中学に上がる頃には、その夢も自分自身の中から消えていた。そのことに気付いた時、宏明は“シェフになりたいと思ってたけど、そんなになりたいわけじゃないんだ”と思った。そして、自分の夢が見つからないまま時は過ぎ、あの教育実習の大学生との出逢いがあった。中肉中背で爽やかなスポーツタイプで、本当に教師を目指していますという雰囲気の大学生だった。
宏明にとって、初めての教育実習に来る大学生だったが、自分の夢のためにこんなに頑張れるんだという希望をもたらせたのだ。
「宏君、私に何か出来ることがあったら言ってね。話を聞くぐらいしか出来ないけど…」
紀美は照れを隠して言った。
「ありがとう」
そう礼を言った後、頼んでいたパスタが運ばれてきた。
紀美とパスタ屋で食事をして、三十分ほど話をしてから店を後にした。そして、二時間カラオケに行った後、お互いの家路に着いた。
宏明が家に戻ると、午後九時半近くだった。
台所に行くと、冷蔵庫からお茶が入っている入れ物を取り出し、マグカップへと注いだ。
宏明はお茶を一口飲むと、マグカップを見つめた。
「あら? 宏明、帰ってきてたの?」
母が二階から降りてきて、宏明に声をかけた。
「あ、うん…」
「ところで今は事件は起こったりはしてないの?」
母は椅子に座りながら聞いてきた。
事件というのは、宏明は自分が遭遇した起こった事件を解決したことが何度かあるのだ。そのことは家族や友達は当然知っている。
「今のところはない」
宏明も母の向かいに座ってから答えた。
「事件ばかり解決してないで、大学をちゃんと卒業して、いい会社に入ってくれないと…。フリータ―なんてされると、大学に行かせた意味もないし、お金がもったいないんだから…」
母は当たり前のように言う。
「色んな企業に面接に行けば、採用してくれるはず」
宏明は母に話を合わせる。
母は宏明の夢を知らない。
「さっ、早くお風呂に入って寝なさい」
「わかった」
宏明は返事だけすると、荷物とマグカップを持ち、自分の部屋へと向かった。
部屋に入ると、荷物とマグカップを机に置き、ベッドに寝転んだ。
――いい会社に入ってくれないと…、フリータ―されると困る、か…。まぁ、親からするとそうだろうな。でも、オレは教師になりたい。何がなんでも叶えてみるけどな。
宏明は母が言った言葉を胸に留めておきながら、自分の夢を叶えるという決意をした。
――途中で挫折するかもしれないけど、やるだけやってみるか。もし、叶わなければ、夢を追いかけてたっていう証があればいいんだけど…。
天井を見つめながらそう思う宏明。
教師の夢は、母以外にも父や二人の兄も知らない。つまり、家族は誰一人も知らない。
別に言うのが嫌だというわけではない。ただ、宏明の中で家族に否定されるのではないかと思う気持ちが強いのだ。
二人の兄は、自分の夢を実現している。二人の兄が夢を実現しているからといって、自分の夢が必ずしも実現するとは限らない。自分に関わる全ての人に、“教師になりたい”と言ったところで、夢は実現しない。
宏明はそのことを知っているからこそ、家族には言えないままなのだ。
宏明の夢は紀美と紀美の友達一人と高校時代からの友達の三人しか知らない。
――教師の夢、家族に言ったほうがいいかな。今から伝えることは遅くはないけど…。
一瞬そう思った宏明だが、もう少し後から伝えようと思い直した。
「あの人に再会したい…」
ボソッと独り言のように呟くと、風呂へと向かった。