前編
社会科の準備室は、職員用のロッカールームを挟んで職員室の隣にあった。職員室のすぐ隣と言ってもいいほどの場所にありながら、なぜか社会科の教師達はあまり居ついておらず、普段は単なる資料置き場と化している。
「失礼しまーす」
ノックしてからドアを開けると、薄暗い室内には人影がなかった。当然の事ながら目当ての人の姿もなく、意気込んでいただけに、暫し呆然と佇んでしまう。
やはり職員室に行けばよかっただろうか。しかしそうなると、先生を外に誘い出す口実が必要になる。超がつくくらいの正直者というまったく嬉しくない評価を友人達からいただいているわたしには、適当な口実を考える事さえもできなかったのだ。
「悪いけど、通してくれないかな」
不意に耳のすぐそばから聞こえたその声に、危うく腰が抜けそうなくらいに驚いた。慌てて飛びのいた先にあった机にぶつかり、山高く積まれていた本やらプリントやらが雪崩を起こす。受け止め損ねた挙げ句バランスを崩してひっくり返りそうになり、さらなる二次災害を覚悟して目を固く閉じた。
紙や本が床に落ちる音がようやくやみ、恐る恐る薄目を開けてみる。どうやら手にも足にも痛みを感じていないらしい事に気付き、ほっと息を吐いた。
「あんた、相変わらずそそっかしいねえ」
さっきの比ではないくらい近くから耳に直接響くその声に、ぞわりと肌が粟立つ。どうやら二次災害を免れたのは単なる幸運ではなく、先程わたしに声をかけた人が咄嗟に体を引き寄せてくれたからだったらしいと、この時になってようやく気付いた。
「セ、センセー?」
そして今その人の腕の中に抱きこまれている事に気付いてしまい、慌てて体勢を立て直そうと試みる。
「はい、なんでしょう」
胸の下。お腹に回されている腕の存在に、居心地の悪さを感じて身を捩ってみた。けれど、その力はいっこうに緩む気配がない。
「あのー、手、離してください?」
きっと間違いなく先生の腕には、異常に早くなっているわたしの鼓動が伝わっているはずなのだ。さらにはお互いの洋服越しに触れ合う熱に、頭がぼうっとしてきそうだった。
「ああ、手、ね」
本当に今気付いたと言わんばかりの口調で、あっさりと解放されてしまう。
ようやく体が離れても、胸の鼓動はすぐにおさまるわけもなく。ごまかしを兼ねてきょろきょろと辺りを見回し、やがて足元に散らばった本と紙に気付いた。
「うわー。これ、誰のですか」
先生が挙げた別の社会科教師の姿がすぐさま脳裏に浮かび、なるほどと頷いてしまった。坊ちゃん刈りの頭に牛乳瓶の底のように分厚い渦巻き眼鏡と厚めの唇。わたしと大差ない、男性にしてはかなり低めの身長で、いつもスーツを身に着けている。決して不潔にしているわけでもないのになぜだか野暮ったく見えるのは、きっとそのぼんやりとした身のこなしのせいだろう。
でもまあたぶん、あの先生ならこの程度の事で怒られる事もなさそうだ。
「怪我、していないか」
「あ、はい。センセーがが助けてくれたお陰で、なんとか」
本当は机にぶつけた腰骨の辺りが少し痛んだが、怪我らしい怪我は他にない。青あざくらいはできてしまうのだろうけれど、手当てするほどの事もなさそうなので意識の外に追い出した。
「あの先生はねえ。真面目が過ぎて時々こういう事が起こるんだよねえ」
どうやら授業に使うための資料やプリントを作成するための問題集などを片っ端から集めて来ては、収納場所がなくて机の上に積み上げてしまっているらしい。そしてその被害に遭った者は、わたしだけではないそうだ。
とはいえ崩れたのはわたしの責任に他ならず、床の上の物を拾うためにしゃがみこもうとした。
「いたっ」
腰を曲げる時に感じた鈍い痛みに、思わず小さな声が漏れる。
「さっきぶつけたところだな」
ごくごく自然な動きでわたしに向かって伸びて来る腕をごくごく自然に見つめてしまい、さらにはその手に制服のスカートの上から腰骨をそっと撫でられるに至り、ようやく我に返った。
「セセセセセ、ン、セー?」
先生の手を慌てて払いのける。触られた場所が場所なので、ようやくおさまっていた動悸がまた激しくなってしまった。
「見せてみ?」
「は?」
見せるって何を? 言葉の意味を把握できず、わたしはぽかんと口を開けて呆けてしまう。
「って、これじゃまるでセクハラオヤジだな。保健室に行きますか」
わたしの腰に触れていた手を離し、今度はその手で自分の頭をがしがしと掻いている先生を、わたしはただ呆然と眺めるしかない。
そしてセクハラという言葉に、見せろと言われたのがぶつけた腰の事だと思い至り、さっきまで腰にあった手の感触を思い出して、とたんに恥ずかしさがこみ上げて来た。
先生はわたしの心臓を壊す気だろうか。
「や、ちょっとぶつけただけですから。それよりもここ、片付けないと」
できる限り平静を保っているふりをして、床の物に手を伸ばす。
「ああ、僕も手伝いましょ」
先生の口調がいつもと違う事に気付き、思わず顔を上げた。予想外に近くにあった先生の銀縁眼鏡に、思わず声を上げそうになるのを堪えた。
「ん? どうかしたのか?」
「い、いえ、ナンデモナイデス」
そのレンズ越しの視線から逃れるように身を引き、忙しなく手を動かす。
机の上での分類は先生に任せ、わたしはひたすら落ちている物を拾っては先生に手渡していく。
「やーっとおわったー」
一体どこからこれだけの資料を集めて来たのやらと呆れるほどのその量に、なるほどこの机で仕事はできないだろうなと納得した。他の先生はここまでひどくはないものの、それでも机のかなりの面積が様々な物で埋まっている。
「センセーの机って、意外ときれいですよね」
そう。先生の机の上は、他の先生方の物と比べると格段に物が少ないのだ。
「不真面目がモットーだからねえ」
そんな事を言いながら、先生はいつの間にやら淹れていたお茶を、わたしの前に置いてくれた。
生徒会顧問としては不真面目サボり魔で有名な先生だが、授業に対しては面白おかしく至極真面目だという定評がある。つまり今の言葉は、半分正しくて半分間違えていると言えた。
「あ、すみません。いただきます」
「はい、どうぞ」
いつもと違うその口調に、どうも調子を崩されてしまう。
「それで、どの先生に用があったの。まさか雪崩を起こしに来ただけってわけじゃないでしょ。今日は生徒会の会議もなかったはずだから、書記として来たわけでもないよなあ」
ぎくりと肩が跳ねるのが、自分でも分かった。
「え。あ。えーっと」
「もしかして、この間の答え合わせに来た、とかだったりして」
机に頬杖をついた上に顎を乗せている先生は、なぜだか楽しげに目を細めている。鼻歌でも歌いだしそうなその雰囲気に、不覚にも頬が上気してしまって困った。
「あー、はい。一応、は」
春休み中だった四月一日。屋上に先生を探しに行った時に出された、春休みの「宿題」。その答え合わせを始業式の日にするのだと、先生が言っていたのだ。
ちなみに今日の始業式の予定は、既に全て終わっている。全校生徒は速やかに下校して、残っている人はほんの僅かしかいないはずだ。
「じゃあ、とりあえずあんたが考えた答えを聞かせてもらいましょうか」
日頃授業中に見せている楽しげな笑顔ではなく、どことなく人を食ったような皮肉さを含むその表情に、眩暈を覚えずにはいられなかった。