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第2章

 北アフリカの西部、北太平洋側に位置する小国カルダーラ共和国は、ほとんど資源を持たない国であったが、唯一、カタ湖といわれる湖の豊富な水量により、その地の民は生かされていた。しかし、あらゆる用途の水をカタ湖に求めたことと地球温暖化の影響を受けた結果、西暦2000年を過ぎたころから急激に水量が減少し、命の水の枯渇は時間の問題とされていた。カルダーラ政権はカタ湖のくみ上げ規制を実施したが、この政策は失敗し、農業用水の不足から深刻な食糧不足へと問題を拡大させてしまった。このため、カルダーラの国民は幾つかのグループに分かれて対立し、やがて国土の北東部に展開していた陸軍が反政府ゲリラの支援に回ると、渇きと飢えをめぐる争いは激しい内戦へと拡大していった。さらに、イスラム原理主義者のグループがカルダーラ政府要人の暗殺を開始すると、政権は瞬く間に崩壊し無政府状態に陥った。

 これに対しアメリカ政府は、人道支援と民主主義の回復を理由に武力介入し、旧政権を中心とした暫定政府を発足させた。その後、国連平和維持軍が派遣されたことで内戦は鎮静化に向かって進み出し、日本政府は根本的な問題を解決するために、ODAによる海水淡水化プラントの建設を決定した。

 このプラントの建設と運営を受注した相模重工は、カルダーラの海岸に世界最大規模となる20基もの淡水化プラント群を建設した。プラントで生成された水はカルダーラを潤し、水と食糧の問題をかなり解消することに成功した。また、この水はカルダーラの周辺諸国にも輸出され、カルダーラは世界で最初に国家レベルで水ビジネスに成功した国となった。しかし、国民の審判を得ていないカルダーラ暫定政権は腐敗が進み、水の恵みは恣意的にコントロールされるようになっていった。当然のことながら、暫定政権の打倒を目指すグループの活動は活発化し、元カルダーラ正規軍のヘルバン・サイード大佐が率いる元陸軍を中心とした反抗グループは、カタ派と名乗り祖国を取り戻すための戦いを繰り広げた。

 カタ派のカタはカタ湖に由来する。彼らの主張は、カタ湖の恵みを分かち合いながら平和に暮らしていた昔のように、プラントの水と利益を国民に平等に分配しようというものだった。主張は極めて正当であり、よって国民の支持を広く得たカタ派だったが、強過ぎる正義感は過激なゲリラ活動となって行使され、国内情勢は再び混乱へと進んでいった。

 カルダーラ北東部のフルムという街は、カタ派の重要拠点となっていた。アルジェリアと国境を接するこの地域は、アルジェリア経由でロシアと中国からの支援を受けるカタ派の生命線である。そのフルムから西に15キロほど離れた暗闇と砂に囲まれた渓谷で、男たちは息を潜めて獲物が来るのを待っていた。時刻は7月5日月曜日の1時(日本時間同日10時)。その獲物とは、アメリカ軍がフルムの西にあるベースキャンプに配備するために輸送している誘導ミサイルだった。

 数日前、サイード大佐のもとにカルル・アリヴィアーノヴィチ・バビチェフと名乗るロシア人の男がやって来た。この男は、カタ派を支援するロシアの諜報(ちょうほう)機関――ロシア対外情報庁のエージェントから紹介された男で、流暢(りゅうちょう)なアラビア語で次のような取引を持ち掛けてきた。

 「アメリカ軍は高機動誘導ミサイル、HMG-2を3機、西のベースキャンプに配備し、大佐を暗殺しようとしています。私はそのミサイルの輸送ルートに関する詳細な情報を持っています。そこで、大佐にお願いがあるのですが、そのミサイルを奪っていただきたいのです。そして、私にそれを譲ってほしいのです。もちろん、報酬はお支払いします」

 カルルは更に「報酬は全額前払いします」と言って札束をサイード大佐の前に山積みにした。そして、C-17輸送機から搬出されるHMG-2の衛星写真と、搬送ルートを記した地図を見せながら、HMG-2は2台のハンヴィー(高機動多用途装輪車両)とたった6人の兵士によって、待ち伏せに格好な渓谷を通って搬送されると説明した。

 「話が出来過ぎている」

 サイード大佐がそう言うと、男はにやりと笑ってこう言った。

 「その通りです。半分はこちらが用意したシナリオですから…… つまり、私はどうしてもHMG-2が欲しいのです」

 「どうしてロシア人のあんたがアメリカの情報を持っている」

 「私はロシア人であると同時にオルグのメンバーです。オルグは国際的なネットワークを持ち、秘密裏に様々な活動を行っています。もちろん、オルグにはアメリカ人もたくさんいます。これでは答えになりませんか?」

 サイード大佐はオルグという秘密結社のうわさを聞いたことがあった。退行主義を実現するために、世の中の裏舞台で暗躍する集団と聞いている。

 オルグかぁ…… そんなやつらならこのくらいのことは平気でできるのかもな。それに……

 目の前に積まれた金はサイード大佐にとって魅力的なものだった。これだけあれば、診療所の設備や医薬品、発電機などを買い増しすることができるし、子供たちに本や鉛筆を買ってやることができる。サイード大佐は条件を出した。

 「ミサイルを無事に持って帰ってくるまで、あんたを拘束する。それで良ければ引き受けよう」

 ロシア人は笑顔で答えた。

 「どうぞご自由に。どのみち私はミサイルを受け取りに来なければなりませんから……」

 こうして、サイード大佐自らが率いる14名のカタ派ゲリラたちは、渓谷を走る道路を上から攻撃できる斜面の両側に、息を潜めてハンヴィーがやって来るのを待つことになった。そして……

 暗闇の中を車の音とヘッドライトの光が近づいてきた。サイード大佐は暗視スコープで予定通り2台のハンヴィーが近づいてくることを確認し、作戦開始を無線で指示した。ハンヴィーが襲撃ポイントに近づくと、ゲリラの一人が道路の中央に向かって対戦車ミサイルを撃ち込んだ。すさまじい爆音と舞い上がる砂ぼこりで先頭のハンヴィーが急停車すると、後続のハンヴィーは前の車両に追突した。敵だっ! という認識を持つ時間はあっただろう。しかし、その後アメリカ兵たちは考える時間も、反撃する時間も与えられずにゲリラたちの放つAKS-47の銃弾で体を裂かれながら死んでいった。

 「打ち方止めっ!」

 サイード大佐は無線でそう命じると、暗視スコープで蜂の巣になったハンヴィーを確認したが、そこにはもう敵の姿はなかった。サイード大佐は「よし、行け!」と命じ、自らも斜面を駆け下りハンヴィーに近づいた。部下が二人がかりで長さ1.8メートル、重さ60キロのケースを一つ、ハンヴィー後部の荷台から下ろし、それを開けるとU.S. ARMY HMG-2と刻まれたミサイルがフラッシュライトの明かりに浮かび上がった。

 約30分が過ぎたころ、通信の途絶えたハンヴィーの捜索にアメリカ陸軍のアパッチ攻撃ヘリが1機現場にやって来た。仲間のかたきを討つべくアパッチは電子装備を使ってしばらく周辺を索敵したが、ラクダとラクダの引く荷車で移動しているサイード大佐たちを見つけることはできなかった。

 サイード大佐はラクダに揺られながらつぶやいた。

 「拍子抜けするくらい、楽な仕事だった。しかし、これを何に使うんだ……」





 7月12日、月曜日。岡林敦はいつものように起床し、電車に乗ってみなとみらい線の日本大通り駅を降りると、相模重工本社までの道中にあるコンビニでおにぎりと野菜ジュースを買い、自分のデスクでインターネットのニュースを読みながら朝食をとるという朝の恒例行事を済ませた。そして始業時間になると、ASMOS運用管理センターに出向き、システムの状態についてオペレーターと確認し合うことがもう一つの日課だった。

 ASMOS運用管理センターには、ASMOSコアと呼ばれるコンピュータ・システムが設置されていた。これにはEYE’sが収集した人美のデータから旧世代制御システムであるSMOSソモスの学習データ、市場投入されたASMOSや実験中のSOP-X1まで、あらゆるASMOS系システムから集められた学習データのすべてが蓄積され、各種のローカル・システムでは処理しきれない学習データの再生成が強力なEFC(Experience Feedback Control:経験帰還制御)エンジンによって24時間365日行われていた。

 例えば、EYE’sを例にもう少し説明すると、人美の脳波はスマートフォンに送られ、そこで学習データと比較することで人美の状態――サイパワーを使っているのか否か、それはどのように使われているのか――を認識し、制御波をバイオフィードバックしている。この時用いる学習パターンの生成は、非力なハードウェアであるスマートフォン――それは搭載するCPUやメモリ容量、消費電力の問題などで、スマートフォンの容積では搭載できる性能に限界がある――では実行することができない。そこで、EYE’sは一定容量に達した脳波データをASMOSコアに送信し、ASMOSコアは既に蓄積されている学習データを参照しながら新たな学習データを再生成することでデータの洗練化を行い、これをスマートフォンが再受信することで学習データを更新している。制御対象によって処理フローの違いはあるが、基本的な流れはすべてのASMOS系システムで同じであり、ASMOSコアは、その名の通りASMOSを機能させるための核であり、同時にあらゆる制御対象の学習パターンが蓄積されたASMOSデータストアを併せ持っている。

 岡林はASMOSコアが正常に動作していることを15分ほどで確認すると、今度は沢木がエクストリームセンスと名付けた新システムの開発に没頭し、時刻が終業を告げると家路についた。定時退社、この当たり前に思える行動も、岡林にしてみれば久しぶりに迎えた通常の就業モードである。開発が佳境を迎えれば、会社に泊まることも日常茶飯事であり、数か月会社で生活していたことさえあった。もちろん、相模重工の就業規則、労使協定、沢木の指導はそのような岡林の行動を支持するものではなかったが、彼の開発者としての情熱がそうさせていたのだ。

 岡林が相模重工本社の1階にあるセキュリティゲートを抜けロビーを歩いていると、自分の名を呼ぶ声に脚を止められた。声の方に首を向け、白いスーツ姿の髪の長い女を認めた岡林は、いつものように素直な感想を心に浮かべた。

 うわ! かわいい……

 その女は「岡林敦さんですね。私、インダストリアル・ニュースの杉本美花(すぎもとみか)といいます」と言いながら名刺を出した。インダストリアル・ニュースはインターネット配信専門の産業ニュース・メディアであり、大手の経済新聞社が運営しているサイトの一つだった。岡林は業界でも知名度のあるニュース・メディアの記者と杉本を認めると、改めて彼女の顔に目をやった。幼さの残る顔立ち、少し厚めの下唇、薄茶色の流れるような長い髪、スーツに窮屈そうに収まった胸、そのどれもが岡林の好む範囲に収まっていた。

 「そうだけど、僕に何か?」

 答える岡林に杉本が言った。

 「ASMOSに関する記事を企画中なのですが、そこではASMOSの開発に携わった技術者の声をお聞きしたいのです。岡林さんは沢木さんの片腕として、ASMOSのソースコードの多くを書いていると聞いていますので、是非、取材させていただきたいのです」

 悪い話ではなかった。岡林は沢木聡にこそ認められてはいるものの、そのあまりにも大きな沢木の存在のために、岡林にスポットライトが当たることは社内外を通じて少なかった。しかし、ASMOS開発をはじめとする相模重工への貢献度に一定の自負を持つ彼にしてみれば、もう少し日の目が当たってくれてもいいのではないか、というささやかな野心があった。そして、今回の取材の話は彼のささやかな野心を十分に満足させるものだった。要は目立てばいい。彼の野心とはそのような類のものだった。それに加えて取材となれば、幾ばくかの時間をこの自分好みの女性と過ごすことになるのだろう、という期待からも、杉本の申し出を断る理由は見当たらなかった。しかし……

 「個人的には断る理由はないけれど、うちの会社は結構細かい取材規程があるんですよ。僕の判断だけでは取材に応じられるかお答えできないですね。すみませんが、広報を通してください」

 杉本は答えた。

 「もちろん、必要な手続きはきちんと行います。今日は、岡林さんへのごあいさつ、というより、個人的な興味もあってお目にかかりたいと思ってお待ちしていたのです」

 岡林は魅力的なフレーズに反応した。

 「個人的な興味というと?」

 「エクスフィールで書かれたソースは数百万行になる規模と聞いていますが、そのような規模の画期的なソフトのプログラム構造設計と実装、テストケースを主導しているのが岡林さんであれば、その能力は天才を支えるもう一人の天才なのでは? という考えからいつか取材したいと思っていたのです」

 岡林は照れながら言った。

 「いやぁー、天才なんて程のものではありませんけど、確かにプログラム・レベルの設計からコーディングまでがチームでの僕の基本的な役割です。最近は製品実装のためのインテグレーションも多くなってきましたけど」

 杉本は岡林に一歩近づくと、にっこりと笑いながら明るい声で尋ねた。

 「岡林さん、よろしければ食事でもいかがでしょう? 正式な取材願は明日にでも手続きしますが、今日伺える範囲でお話できたらと。ASMOSというと沢木さんのEFC論理や思考検出デバイスにスポットライトが当たりがちですが、私は大規模ソフトウェア開発プロジェクトを成功裏に導いている岡林さんの功績を世の中に伝えたいのです。もちろん、岡林さんや相模重工の許可なく記事にしたりはしません。お約束します。いかがでしょう?」

 悪い話ではなかった。このまま帰れば誰もいないマンションの一室で、オンラインゲームをしながらビールとカップラーメンの夕食。そんな私生活が寂しいわけではなかったが、刺激がないのは間違いない。杉本美花、このかわいらしい記者と食事をしながら自分の強みについて語るというのは、岡林のみならず、多くの男にとって魅力的なことかもしれない。

 「いいですよ。じゃあ、せっかくだから、おいしいものを食べましょうか」

 岡林が笑顔で答えると、杉本は「はい」と元気よく明るい声音を発した。

 この後、二人は中華街で食事をしながら談笑し、多少のアルコールを口にした岡林は上機嫌で開発者としての武勇伝を語った。途中、上着を杉本が脱ぐと、白いブラウスに透けた黒い下着の陰が岡林の目にとまった。そして視線を彼女の顔に移すと、満面の笑みで自分を見つめている。29歳独身、彼女いない歴数年。そんな岡林が杉本に興味を持たないはずはなかった。しかし、今日はここまで。駅前で杉本と別れた岡林は、今日見た彼女の姿を思い浮かべながら幸せな気分で家路についた。

 この翌日、相模重工の広報・IR課に岡林への取材願が提出され、その目的、方法が明らかにされると、経営企画部長、経営本部長、沢木と承認フローが回り、その日の夕方にはインダストリアル・ニュースへの取材許可が下りた。広報・IR課と杉本からのメールを確認した岡林は、鼻歌を歌いながらコーヒーを取りに席を立った。





 男と女は獣のように激しく愛し合っていた。互いの体は汗で光り、男の額を流れる汗は女の揺れる胸にポタポタと垂れ続けた。男の鍛えられた筋肉は極度に緊張し、女の弾力のある体はつま先だけが緊張していた。男の名はイム・チョル、元北朝鮮人民軍の兵士で37歳。女はユン・ヨンといい27歳だった。

 この日、イムは久しぶりに大きな仕事を得て、その前金として2,000万アジアもの大金を手に入れた。正確にいえば、仲間を雇わなければならないのですべてを自分のものにできるわけではないが、成功すれば更に3,000万アジア。手元には少なくとも2,000万アジアは残るとイムは考えていた。大金の入った紙袋を小わきに抱え、イムは走ってユンの待つアパートに帰ってきた。そしてユンの前に紙袋に入った札束をばらまくと、「仕事だ、ヨン。いい仕事が舞い込んできた」と言ってユンを抱きしめた。貧しさからだろうか、最近は愛し合う回数が減っていた彼らだったが、大金が入ったことによる心の緩みは彼らを燃え上がらせた。そして、もうこれ以上は無理だというところまで汗をかくと、二人はシャワーを浴び、高級料理店で食事をし、酒を飲んだ。

 上機嫌のイムは大きな声で尋ねた。

 「ヨン、楽しいか?!」

 ユンは「うん」とうなずいてイムに抱きついた。その姿をいとおしく思いながら、イムは心の中でつぶやいた。

 この仕事が終わったら、結婚しようなヨン……

 コリアン民国の首都、ソウル特別市東大門区(トンデムン=グ)にある清凉里駅(チョンニャンニ=ヨク)は、正確には鉄道公社とソウルメトロの二つの駅がある。その清凉里駅から歩いて数分の清凉里青果物市場近くの古びたアパートに、イムとユンは二人で暮らしていた。

 二人は北朝鮮北部の咸鏡北道(ハムギョンプク=ト)清津市(チョンジン=シ)で出会った。そこは朝鮮人民軍陸軍第9軍団の駐屯地であり、イムは軍人として、ユンは軍団司令官の世話係としてそこにいた。

 当時の駐屯地はひどい状況だった。ろくに食べ物もなく、厳しい訓練だけは毎日続き、多くの下級兵士が戦闘ではなく飢餓で死んでいった。当然兵士の士気は落ち、上官に反抗する者も出てくるが、そのような兵士は上官にリンチされて死んでいった。イムの仲間の中には、いっそ死んでしまった方が楽だ、どうせなら仲間を殺した上官を道連れに死んでやる、といって自ら死を選ぶ者もいたが、当時26歳のイムは、いつかはこんな状況も変わるはずだと信じて歯を食いしばって生き続けた。

 そんな厳しい駐屯地での毎日であったが、時折見かける少女にイムは好意を持っていた。もっとも、駐屯地で唯一の女性がその少女であるのだから、すべての男が少女に何らかの関心を持っていただろう。その少女がユンであり、当時16歳だった。イムの目に映るユンは、表情がなくいつもうつろな目をしていた。笑ったらどんなにかわいいだろう? イムはユンの笑顔をいつか見てみたいと願っていた。

 現在のイムは、日雇いの肉体労働で生計を立てていたが、北朝鮮の崩壊から朝鮮半島統一、OEC(オリエント経済共同体)設立などの混乱期には、金のためなら何でもやって生き抜いてきた。特に、旧北朝鮮の復活を夢見る元軍人たちを”狩る”仕事では、警察やコリアン軍、OUF(オリエント連合軍)、CIAなどに情報を売って小遣いを稼いでいた。しかし、そのような仕事がいつまでもできるわけがない。身の危険を感じたイムはユンと仲間のキム・ウォンの三人でソウルに移ってきたのだ。その彼の前に、昔世話になったCIAのエージェントが突然現れ仕事を頼まれた。その内容は驚くべきものだったが、マフィアとなった軍人たちの報復を恐れることなくユンと幸せに暮らすことを夢見るイムは、一世一代の賭を決意した。そして、大金を手にしたのだ。





 埼玉県川口市の南部、荒川と京浜東北線が交差する辺りに小さな鉄工所があった。6人の従業員で、孫請けかあるいはもっと下請けなのか、とにかくそれを見ただけではどんな製品になるのかさっぱり分からない金属部品を製造していた。

 この鉄工所の経営者、田中龍男(たなかたつお)64歳のもとに、前田煙火工業の山中(やまなか)という男から電話が入った。

 「新型の花火を開発中なんだけど、これは今までのものとぜんぜん発射方式が違って、専用の発射台が必要なんですよ。いろいろ当たったら、田中さんは腕もいいし仕事も速いっていうので、これを作るのをお願いしたいんですよ」

 花火の発射台…… なかなか面白そうな仕事だった。

 「どんな花火なん?」

 「それは企業秘密ですけど、8月の花火大会でドーンと打ち上げる予定ですから、その時にはご招待しますよ。とにかく、見たらぶったまげるような花火なんですよ」

 「ほう、それはすごいね。ほんで設計図はあるん?」

 「ええ、これから伺ってもいいですかね?」

 こんなやりとりをして、田中は少しウキウキした気分で男を待つことになった。





 7月13日火曜日の19時過ぎ、捜査部長の里中涼はSOP本部の自席でデスクトップPCを操作し、対テロ国際情報ネットワークの情報を閲覧していた。これは、国連を中心とする国際協力の中で構築されたもので、加盟各国の情報機関、警察、軍隊などが保有するテロ情報を共有するための基盤となっている。日本においては、対テロの基幹組織となるSOP――警察庁戦術法執行部隊が情報の集約、展開のための起点としてこのネットワークに加わっていた。

 里中が海外の退行主義過激派の動向について検索していると、「里中さ~ん」という甘い声音とともに私服に着替えた星恵里が現れた。

 「やあ、恵里さん。あがりですか?」

 星は里中のデスクに腰掛けて答えた。

 「うん。もう疲れたぁ…… 40時間も待機させられたわ」

 口をアヒルのようにしている星の顔は、とてもSOP史上最強の戦士には見えなかった。

 「お疲れ様」

 「まだ終わらないの? おなかすいたよ」

 「恵里さんがそう言うなら、帰りましょうか」

 里中がそう言うと、PCから新着情報を告げる効果音が鳴った。里中と星が共に画面へと視線を移すと、ポップアップウィンドウが画面の隅に表示されていた。

 Alerting information: Missile has been deprived.

 二人は口をそろえて、「ミサイル!?」とつぶやいた。それはアメリカ軍から高機動誘導ミサイル、HMG-2が奪われたことを伝えるメッセージだった。





 高機動誘導ミサイル、HMG-2(High Mobile Guided missile - 2)が持つパワー、精密さ、破壊力を意のままに操ることのできる自分に、パク・ジファンは大きな誇りを感じていた。彼はOUアーミー(オリエント連合陸軍)の上等兵として、中国国境付近に駐屯する第4地上打撃団に所属し、HMG-2の射手(しゃしゅ)として任務についていた。

 パクは、コリアン民国の徴兵制度で初めて軍隊を経験した時に、俗世間と乖離(かいり)した世界に強い魅力を感じた。そこはこれまでの無秩序な世界と異なり、厳格な規律が支配する世界だった。軍隊では規律に従っていれば文句を言われることはない。しかし、世間ではルールを守ろうとすればするほどバカをみる。そして、軍隊には明確な組織目標があり、成果は正当に評価された。彼は国を愛し、軍を信じ、誰よりもうまくHMG-2を操れるようになったのだ。

 そんなパクに悲劇が訪れる。ある日、パクは上官たちに誘われて酒を飲んでいた。すると、悪酔いした上官の一人が若い女たちのグループに絡み出した。パクは上官をいさめようとしたが、その行為はむしろ上官の愚行をエスカレートさせた。いつの間にか他の上官たちは姿を消し、醜態をさらす上官とパクだけが残された。上官は女の胸をつかんだ。泣き出す女。パクは上官を殴った。

 次の日、パクは暴行罪などの容疑で軍の警務官に逮捕された。当然パクは無実を主張したが、張本人の上官も被害者の女も、すべてはパクの仕業と証言した。どんなからくりかは分からないが、この世にはびこる私欲の連鎖はパクを有罪に仕立て上げ、その結果、執行猶予こそついたが軍を不名誉除隊処分になった。忠誠を誓った軍に裏切られたパクの自尊心や正義感はズタズタに引き裂かれ、それは深い憎しみとなってパクの心に焼きつけられた。

 7月14日水曜日の18時過ぎ、ソウルの物流センターで日雇いの仕事を終えたパクが繁華街で夕飯は何にしようかと歩いていると、欧米人が話しかけてきた。

 「パク・ジファンさんですね。探してました」

 「誰だ、あんた?」

 「HMG-2の射手を探している者です」

 「なにっ!?」

 「どうです? 食事でもしながら話しませんか?」

 パクはイム・チョルに大金を渡した欧米人とともに焼き肉屋へと入っていった。





 7月16日、金曜日。岡林敦の取材をするに当たって、まずは彼の働く職場を見てみたいという杉本美花は、14時ちょうどに相模重工本社ビル1階のエントランス・ホールで岡林と待ち合わせした。この日の杉本は、白いノースリーブにスカート、髪はアップといういでたちで、うなじから肩、腕と流れる美しい曲線に岡林は胸を躍らせた。そして、先端技術開発本部がある23階に上るエレベーターの中で、人混みに押されて杉本の柔らかな胸が数回岡林の二の腕に当たると、今日はいい日だなぁ…… とささやかな幸福感に包まれた。

 「ここはプロジェクト管理部。その名の通り各種プロジェクトのマネジメントと本部の総務がこの部署の役割です。あそこに座っているのは秋山さん。沢木さんのフィアンセだよ。で、奥のガラス張りの部屋が沢木さんのオフィス」

 そこには沢木聡の姿があった。世界の沢木、日本の頭脳、制御システムの神様――そんな風に形容される人間を目にし、杉本は少し緊張した。

 「紹介するよ」

 その声に杉本は気後れした。

 「大丈夫なの?」

 「心配ないよ。気さくな人だから」

 杉本が沢木と名刺を交換すると、沢木は「あなたの記事は何度か読んだことがあります。技術に対して愛情を感じます。どうか岡林のこともよく書いてやってください」と笑顔で語りかけてくれた。

 技術に愛情…… 私の記事を認めてくれるんだ。世界の沢木が……

 杉本は例えお世辞でも沢木の言葉をうれしく思ったが、同時に後ろめたさも感じた……

 岡林と杉本が沢木のオフィスを出て行くと、秋山美佐子が代わりに入ってきて言った。

 「随分かわいい記者さんね。岡林君メロメロ……」

 沢木は笑いながら答えた。

 「そうだね。あれじゃ岡林、聞かれたことには何でも答えてしまいそうだ」

 岡林に案内された杉本は、中階段を下りてASMOS運用管理センターのある22階に通された。

 「このフロアの目玉はASMOS運用管理センター。世界中のASMOS系システムとネットワークでつながっていて、24時間365日、学習データを洗練化して世界中のシステムにデータを配信してるんです」

 説明を受けながら、杉本は幾つかあるセキュリティ・ゲートを抜け、センターの中に入った。

 「あのガラスの向こうにあるのがASMOSコアと呼ばれる基幹サーバー群。OSはLinuxをベースに僕らが改良したFuture Base。開発言語はエクスフィール。トータル6,000コアでメモリは60テラバイト。計算速度は30ペタフロップス。ただし、これは現時点のスペックで、ASMOSコアはスケールアウトによってほぼリニアに性能をアップしていけます。すごいでしょ! だから、その気になればスーパー・コンピュータの世界ランクを取ることだって可能なんですよ。ただし、フロアのスペースや床荷重の関係で、そろそろサーバーの追加も限界に来ているから、先端技術開発本部ごと移転する構想もあるんです」

 そう話す岡林の顔は輝いていた。世界最先端の現場で生き生きと働く岡林の姿に、杉本は好感を持った。

 「移転ですか。候補地などはあるんですか?」

 「みんな好き勝手なことを今は言ってます」

 岡林は笑いながら続けた。

 「沖縄がいいとか、北海道がいいとか、海外とか。うちは独身の若手が多いので、まともな答えは返ってこないですね」

 「みなさんで決めるんですか?」

 「沢木さんがみんなのアイデアを聞きたいって社内SNSでつぶやいたらそんな反応です。以来、この件について沢木さんがSNSでつぶやくことはなくなりました」

 杉本は笑顔を返した。

 「先端技術開発本部って、もっと堅い印象だったんですけど」

 「うちは雰囲気いいですよ。沢木さん流のマネジメントのおかげかな?」

 「それはどんな?」

 「一言で言えばクロス・ファンクション組織。それを支えるITで沢木さんからペーペーまで、全員のスケジュールやミッションがオープンになっていて、社内SNSによるコミュニケーションが盛んです。後、ラインの管理職の機能がプロジェクト管理部という組織に集約されてるから、ペーペーの立場からすると直の上司がいないんです。だからPMプロジェクト・マネージャーと直の上司に2回報告するみたいな煩わしさがない。例えば、僕がAとBの二つのプロジェクトに関わっていて、Aプロジェクトが遅れ出して優先度を変更しなければいけないとすると、AとBのPMが調整した結果から僕に指示が出ます。プロジェクト間の利害関係をちゃんとプロジェクト管理部が調整してくれますから、エンジニアは技術を発揮することに集中できるんですよ」

 何もかもが違う。杉本はそう思った。杉本はもともとはシステム・エンジニアになることを目指していた。そして実際システム開発会社に就職したのだが、そこは岡林の住む世界とは正反対だった。ラインの上司は技術を知らず、技術系の上司はマネジメントの素人……

 「ちょっと座って休みましょうか?」

 ASMOS運用管理センターを出た二人は、22階に設けられたリフレッシュ・ルームに移動した。窓際のソファにコーヒーを手に落ち着いたところで、杉本は岡林に質問した。

 「岡林さんと沢木さんの出会いはどのようなものだったんですか?」

 「専門学校を出て、ダメ元で相模の採用試験を受けたら合格しました。とにかくプログラミングが好きだったから、どんな仕事でもゴリゴリとコーディングしてましたよ。周りのプログラマーはなかなか品質が出せなくて苦労してたけど、僕はテスト駆動でやってたんで、バグの入ったプログラムをビルドすることなんてなかったです。でも、だからといってそれほど高い評価はしてもらえませんでした。まあ、それもそうですよね。バグがないのが当たり前ですから…… それに、テスト駆動だとテストを書くぶん周りに比べて効率が悪いように見える。トータル的な生産性は僕の方がいいはずなんだけど、当時の上司とはソフトウェア開発に対する考え方に大きな違いがあって、職業プログラマーというものにだんだん魅力を感じなくなってきてたんです。ゲーム会社にでも転職しようかなぁ、何て考えていた時に、沢木さんが入社してきて、開発スタッフを社内から選考する、そんな話題で周りは盛り上がってたけど、沢木さんみたいなエリートが僕みたいな人間に興味持つわけないよな、何て勝手に決め込んでしらけてました。何せ相手は東京工大からMIT。こっちは専門学校ですから。そしたら沢木さんから呼び出されたんです。で、沢木さんのオフィスに行ったら、いきなり分厚い設計書を渡されて、感想を明日聞かせてくれって言うんです。それが、SMOS(ソモス)の設計書だったんですよ。興奮したよ。夢中になって読んで気がついたら朝だった。それから沢木さんのところに出向いて、すごいですねって面白くも何ともない感想を言ったら、やってみるか? って聞くんだよね。だから、はいって答えてその日の夕方には沢木さんの下に異動になりました。後で沢木さんから聞いたら、僕の開発経歴、開発手法、実際のソースまで見てこいつだって思ってくれたらしいです。うれしかったですよ。神様はちゃんと見てるんだなぁ~、って実感しました」

 神様かぁ…… 私のことも神様は見ているのだろうか……?

 杉本は、最初に就職したソフトウェア開発会社でマニュアルを執筆する仕事を与えられた。まあ、一人前になるまではどんな仕事でもしなくては、と思い手を抜くことなく努力した。すると、彼女の意に反してその文才が認められ、いつの間にかテクニカル・ライターという肩書きで技術文書の執筆をするのがメインの仕事になった。しかし、それは悪い仕事ではなかった。むしろ自分では気がつかなかった自身の強みを発見できたと前向きに捉え、更に伸ばしていこうとインダストリアル・ニュースに1年前に転職したのだ。そして上司に相模重工を取材すると言えば、すんなりとOKがもらえるくらいの信用を得て、先端技術の最前線をこうして取材できるのだから、決して不遇とはいえないだろう。しかし、杉本には背負っているものがあった。それを考えると、神の存在は希薄に感じられた……

 17時38分、取材を終えた杉本を見送るために乗ったエレベーターの中で、岡林はどうしようかと考えていた。もう少しこの楽しい時間、杉本と一緒にいる時間を楽しみたかった。食事に誘うべきか否や。断られて今後の取材が気まずくなるのは嫌だし…… 岡林の脳は相当なスピードで様々なケースをシミュレーションしたが、結論として当たって砕けろというシンプルな答えにたどり着いた。

 エントランスホールに着くと、以外にも杉本の方から切り出してきた。

 「私、今日は直帰なんです。岡林さんの都合がいいならご飯でも行きませんか?」

 助かった、という安堵あんど感とヤッターという喜び、それは「はいっ!」という一言に集約された。岡林は「ちょっと待っててください」というとダッシュで23階に戻り、就業管理システムの退社処理もせずに杉本のもとへと戻った。


 「んん、あの女は誰だ?」

 出先から進藤章とともに戻ってきた情報管理室の室長、渡辺昭博(わたなべあきひろ)は、岡林と杉本の後ろ姿を見て言った。

 「ああ、多分記者だと思いますよ。岡林さんに取材願が出てましたから……」

 「記者? 随分と仲良さそうじゃないか」

 渡辺は上着の内ポケットからスマートフォンを取り出し、専用アプリから相模重工のネットワークに接続して取材申請の内容を確認した。

 「インダストリアル・ニュース、杉本美花。今日が取材初日か……」

 進藤はうれしそうな顔で言った。

 「岡林さん、もう口説いちゃったんですかね?」

 「そんな行動力があるとは思えないな……」

 渡辺は楽しそうに歩く二人の後ろ姿を今一度確認すると、心の中でつぶやいた。

 念のため、調べてみるか……


 二人は宮崎の地鶏(じどり)料理の店に入った。そして、岡林が杉本と酒にいい加減に酔った時、杉本はタイミングよく質問をした。

 「岡林さんが今一番没頭している技術って何ですか? やはりASMOSですか?」

 岡林は杉本の方に身を乗り出し、小さな声で言った。

 「ASMOSはもう古い。僕たちは既に次世代ASMOSの開発に着手してるんだ」

 「次世代ASMOS?」

 「しっ! 声が大きい」

 「でもぉ、ASMOSはまだ商用利用されて間もないじゃないですか?」

 岡林は得意げな顔をして言った。

 「僕らの開発スピードは桁違いだからね」

 「どんなものになるんです?」

 岡林は再び前のめりになり、ひそひそと話した。

 「絶対に秘密だからね。今のASMOSは思考をアウトプットとしてシステムに送るだけだけど、次世代ASMOSはシステムの処理結果を脳にインプットできるんだ。つまり、脳とコンピュータがダイレクトに通信できるようになる。すると、脳とASMOSコアが一体化された処理系ができあがる。人間の高度な推論能力と、コンピュータの高速大容量演算、これが一体になった時どうなると思う?」

 「具体的には分からないですが、全く新しいコンピューティングができそうですね。応用範囲もすごく広そう……」

 「その通り。第六感とも言うべき感覚を人間に付与できるとともに、その応用範囲は無限大と言っても言い過ぎではないよ。そんなシステムを、もう僕らは実現してるんだ」

 「すごい! 岡林さんってすごい!」

 「いや、すべては沢木さんのアイデアだけど」

 「でも、その実現に岡林さんが貢献しているわけでしょう? そんな人が目の前にいるなんてすごいわ」

 「いや、それほどでも」

 「その新システムは何ていうんです? 開発コードネームとか、あるんでしょう?」

 「んん、それはね。エクストリームセンスだよ」

 「かっこいいですねぇ~」

 こんなに早くたどり着けるとは…… 杉本は心の中でガッツポーズをした。そして続けた。

 「それなら取材計画を見直して、そのシステムが完成するまでのプロセスを世の中に伝えたいです。どう思いますか?」

 「んーん、悪い話ではないけど、エクストリームセンスは未発表だからね。直接取材対象にはできないと思うよ。僕がしゃべったのもばれちゃうし……」

 苦笑いする岡林に杉本は言った。

 「大丈夫です、そこはうまくやりますから…… それに……」

 杉本の間に岡林は注目した。

 「それに、私は岡林さんをもっと知りたいですから……」

 これがアニメーションであったなら、きっと岡林の周りを花が包む演出となるだろう。

 「うれしいです。杉本さんみたいな人に興味を持ってもらえて……」

 純粋で正直な人――杉本は岡林のことをそう思うと罪悪感を抱いたが、舞のため! そう心の中で叫んで日本酒を一気に飲み干した。





 7月17日、土曜日。イム・チョルとユン・ヨンの二人は、イムの弟分であるキム・ウォンと合流するためにソウル特別市中区の明洞(ミョンドン)にやって来ていた。

 イムとキムの二人は、旧朝鮮人民軍・陸軍第9軍団の駐屯地で出会った。そして、行軍訓練中に負傷し歩けなくなったキムを、イムが10キロもの道のりを背負って歩いたことをきっかけに、キムはイムを兄貴分としたうようになったのだ。キムは、イムとユンと三人でソウルに来て以来、この街の中心街である明洞で、イムたちと分かれて生活していた。

 イムとユンの泊まるホテルで三人は会い、イムは仕事の内容をキムに説明し仲間に誘った。この誘いをキムが断るはずがなかった。苦しい駐屯地時代を共に乗り越え、その後も協力しながら生きのびてきた二人は、堅く結束していた。キムは二つ返事で仲間に加わり、報酬1,000万アジアの前金として500万アジアを手に入れた。そして次の日、イム、ユン、キムの待つホテルに、CIAのエージェントから仲間にするようにと指定された人物、パク・ジファンが尋ねてきた。

 パクはユンの姿を見ると言った。

 「女がいるなんて聞いてないぞ! まさか日本にも連れて行く気じゃないだろうな!?」

 イムが答える。

 「一緒では何か問題があるのか?」

 「足手まといになるだろう?」

 その言葉にイムもキムも笑った。

 「何がおかしい?」

 パクがそう言うと、ユンは立ち上がりソファにあったクッションをパクに渡し、「構えて」と言った。パクがクッションも胸の前で構えると、ユンは回し蹴りをクッションに入れ、パクは後ろによろけて尻餅をついた。イムは「キョクスル(撃術)だ。俺が教えた」と言いながらパクに近づき、手を差し伸べて「問題ないだろう?」と問いかけた。パクはイムの手を取り起き上がり、「ああ、そのようだな」と言って苦笑いした。





 地中海に面したアルジェリア第2の都市オラン。その南、20キロほどの小さな空港に駐機されたビジネス・ジェット機には、3つの木箱が積み込まれるところだった。木箱は長さ2メートル、縦横30センチ程度の長方形で、重量は65キロほどあった。

 アラブ人たちの荷積みを見守っていたロシア人の副操縦士は、カルル・アリヴィアーノヴィチ・バビチェフに尋ねた。

 「これ、何なんですか?」

 カルルは答えた。

 「契約書読んでないの? 申告通り鉱石のサンプルさ」

 「どんな鉱石なんです? 金になるんですか?」

 カルルは笑った。

 「そりゃ、金にならないものをわざわざチャーター機で運んだりはしないだろう?」

 このビジネスジェット機がアルジェリアを離陸し4時間弱が経過して、間もなロシアのクラスノダールへ到着しようとしているころ、ソウルを出発したイム・チョルたちはプサンに到着した。そして観光客らしい身なりを整えるため繁華街に出向いた。

 キム・ウォンは、初めて手にした大金を使い日本製のデジタル・カメラを買った。駐屯地にいたころ、上官からカメラを見せてもらったことがあり、この時の驚きがキムの心に焼きついていた。いつか自分もカメラを手にし、美しい自然やイムたちとの思い出を残したい。昔と違う新しい人生、その記録を彼はカメラで切り取りたいと考えたのだ。

 パク・ジファンは、買い物を終えるとネットカフェに行き、アメリカに行くために必要なことを調べていた。彼は自分を裏切った国にとどまる気はなく、この仕事を終えたら渡米して、知らない土地で一から新しい人生を築いていこうと考えていた。

 イム・チョルは、仕事に必要なもの――特に重要なものは持ち運び可能なナビゲーション・システム――をそろえると、ユンの買い物に付き合った。自分が欲しいものなどは何もなかった。ユンさえいればそれで良く、彼女が幸せであることが彼の望みだった。

 ユン・ヨンは、生まれて初めて大きなデパートでの買い物という体験をした。北朝鮮で生まれ、田舎で育ち、軍の駐屯地に奉公させられ、その後はイムと野良猫のような暮らしで27歳まで生きてきた。まとまった金を手にしたことはなく、化粧はせず、服はどれも地味なものばかりだった。

 「ヨン、観光客になりすますんだから、おしゃれな服を買えよ」

 イムにそう言われても、どんな服を選べばいいのかユンには分からなかった。すると定員が声をかけてきた。ユンは素直に何を選んでいいのか分からないと伝えると、親切な店員は、「なら着てみるのが一番よ」と言ってユンの手を引いた。

 服なんて何を着たって変わらない――これまでのユンはそう考えていた。しかし、楽しかった。店員に進められて次々と試着をし、そのたびに鏡に映る自分の姿はどれも別人のようだった。そして、服を替えるたびにウキウキした。普通の女は、こんな風に人生を楽しんでいるのだろうか……

 「あなたはとてもチャーミングだわ。どれもよく似合うわよ」

 店員は言いながら、ユンがアクセサリーを何も身につけていないことに気がついた。

 「アクセサリーは?」

 「つけたことないわ」

 「そう、少しアクセントをつけると雰囲気が変わるわよ。待ってて」と言って店の奥からネックレスを持ってきた。

 「さあ、つけるわよ」

 店員の言うことは本当だった。十字架と星が合わさったようなデザインのシルバーのネックレスは、胸元で輝き顔の表情を明るくした。

 「ねえ、変わるでしょ」

 ユンは鏡の中の自分にほほ笑んだ。





 7月22日火曜日。19時を少し過ぎたころ、杉本美花は東京大田区の蒲田にある蓮沼(はすぬま)総合病院を訪れていた。彼女の妹、杉本舞(すぎもとまい)19歳が、視床下部過誤腫という難病を患いこの病院に入院していたからだ。

 舞の治療のためには施術が必要となるのだが、脳深部に過誤腫があるために、脳の正常な部分を傷つけずに切除することが難しいとされていた。唯一、ロサンゼルスの医師が新しい施術法により二つの成功例を持っているが、渡米して治療を受けるためには40万ドル、約4,000万アジアもの金が必要だった。

 美花と舞の両親は、美花19歳、舞13歳の時に交通事故で他界し、以来、親が残した家で姉妹二人で生きてきた。美花は短大を出るとソフトウェア開発会社に就職し、舞を学業に専念させるために夜はキャバクラでバイトした。そのかいあって、舞はかなり成績のいい都立高校に進学し、その後は奨学金で大学に進もうと計画していた。しかし、舞が高校2年の時に病状――めまい、吐き気、けいれんが目立つようになり、その秋に現在の病気と診断された。

 この日の舞は、会話が時折途切れることがあった。発作の回数も徐々に増えているという。

 早くしないと…… 美花は焦りを感じた。

 舞は言った。

 「お姉ちゃん、無理しないでね」

 美花はこぼれそうな涙をこらえて答えた。

 「何いってるの? お姉ちゃんは平気だよ。絶対に治してあげるから……」


 「ちょっといいですか?」

 杉本美花を尾行してきた渡辺昭博は、通りがかったナースに話しかけた。

 「杉本舞さんは、どんな病気なんです?」

 「お身内の方ですか? プライバシーに関することはお答えできませんが」

 「舞さんの姉、美花さんの会社の上司です。インダストリアル・ニュースの渡辺と言います。力になってやりたいのですが、なかなか美花さんが言わないので、こうして様子を見に来ました。ですが声をかけづらくて…… せめて病名だけでも教えていただけませんか?」

 ナースは姉妹の抱えている問題をよく知っていた。少しでも協力者が増えてくれれば…… そんな思いから「視床下部過誤腫です。後はお姉様とお話しください」と言って立ち去った。渡辺はスマートフォンで病名を検索し、金のかかる難病であることを知った。





 「いよいよ出発だ!」

 そう言うイム・チョルに、昨日までとは別人のような身なりのユン・ヨンがほほ笑んだ。キム・ウォンは、「日本進出の記念写真だ。パクも入って!」と言ってはしゃいだ。パク・ジファンは「お前たちは本物の観光客だ。誰も疑わないよ」と言いながらカメラのフレームに収まった。

 7月23日、金曜日。イムたちを乗せた日本行きの水中翼船は、10時ちょうどにプサン港を出港し、およそ3時間の航海の後、12時55分に福岡市の博多港国際ターミナルに到着した。


 13時26分。デスクで仕事をしていた里中涼の内線電話が鳴った。かけてきたのは同じフロアに隣接するICC(統合司令センター: Integrated Command Center)を仕切る情報部長の真田薫(さなだかおる)警部だった。里中が顔をICCに向けると、こちらを見つめる真田と目が合った。

 真田はICCの開設と同時にやってきた情報分析の専門家であり、近代情報戦では欠かすことのできないSOPの戦力となっている。その彼女は36歳。里中と同じキャリアであり、冷静な分析力と強気な姿勢を併せ持った人物として知られている。

 「報告事項がありますのでこちらへ」

 その言葉に里中は捜査部の居室を進み、一段高くなったICCへの階段を登り切ると真田に言った。

 「どうしたの?」

 「本日13時1分、フォートップスから注意人物の入国アラートがあがりました」

 フォートップスとは、Facial Recognition Type Pursuit Systemの略、FRTPSからきた顔認識型追跡システムのコードネームである。日本国内に設置された監視カメラの映像は、テロ対策法によって設置されたフォートップスの端末により解析され、登録された人物を検出するとSOPのICCにアラートを送るようになっている。

 里中が「見せて」と言うと、ICCの中央ディスプレイにパク・ジファンの顔写真と、博多港国際ターミナルの監視カメラが捉えた静止画像が表示された。

 「博多港、コリアンからの入国か。アラート理由は?」

 「パク・ジファンは元OUアーミーに所属し、HMG-2の射手(しゃしゅ)をしていた経験があります」

 里中は10日前のミサイル強奪情報を思い出した。

 「なるほど、そこと紐付いたのか」

 「追跡しますか?」

 「そうだね、念のため追跡しよう」

 「では、サインを」

 フォートップスを利用して個人を追跡するためには、捜査部長である里中の許可が必要だった。、そのため里中は真田の差し出したスレートPCを使って電子追跡の書類に電子署名した。これでアラート以後のパクの追跡が可能となる。里中は指示した。

 「最新情報を出して」

 「13時16分。福岡ナショナルホテル前の防犯カメラの映像です。次がホテルの受付です」

 二つの映像にはパク以外に二人の男と一人の女が映っていた。

 「んーん、男三人と女一人で観光かぁ…… よし、この三人もフォートップスに登録して追跡してくれ。何か動きがあったら教えてね」





 15時に会う約束をした渡辺昭博が、沢木聡のオフィスに入ってきた。渡辺はソファに腰掛けると、早速用件を話し出した。

 「岡林を取材している杉本美花という記者について調べてみたが、なかなかの苦労人だ」

 沢木が尋ねた。

 「ほう、どんな?」

 「両親が6年前に交通事故で亡くなってる。以来、6歳年下の妹の親代わりだ。しかもその妹は難病を患っている。視床下部過誤腫という病で、脳にある腫瘍によって障害が出る病気だ。けいれん、吐き気、めまい、言葉を話せなくなることや突然死の可能性もあるらしい」

 「妹さんは幾つです?」

 「19」

 「若いのにかわいそうに…… 治療方法はあるんですか?」

 「手術すれば治るそうだ。しかし、その施術ができる医者は今のところ一人しかいない」

 「海外ですか?」

 「そうだ。渡米して治療するためには40万ドル必要だそうだ」

 「そんなに……」

 「あの女には注意した方がいい。金が必要なやつの常識は変化する」

 「というと、詐欺とかスパイとか?」

 「まあ、そんなところだな。用心に越したことはないだろう」

 「分かりました。情報ありがとうございます。岡林にはそれとなく私から注意しておきます。また何か分かったら教えてください」

 そこへ秋山美佐子がコーヒーを持って入ってきたが、渡辺は次の用があると言ってオフィスを出て行った。秋山はソファに座ると渡辺に出すはずだったコーヒーを自分に、もう一杯を沢木の前に置き、渡辺との会話を尋ねた。

 「あの記者さんにはそんな事情があったんですね」

 秋山はコーヒーを一口飲んだ後に続けた。

 「で、もしスパイだとしたらどうします?」

 「そうね、ひとつだけかな」

 「何です?」

 「人美さんの情報だけは気をつけないと。後は別にどうでもいいさ。僕らの技術を盗んだところで、僕らを超えることはできないからね」

 沢木はニコリと笑った。

 「相変わらず余裕ですね」

 「20年かけてるからね。おいそれと他人にまねできるはずないさ」

 「となると、取材変更の申請はOKですか?」

 「んん、今の段階で断る理由はないさ」

 この後、沢木はインダストリアル・ニュースのWebサイトにアクセスし、杉本が書いた記事を読み直してみた。よく勉強している。丁寧な取材で、技術を伝えるだけでなく、そこで生まれる人間ドラマや問題点に迫りつつ、常に技術や技術者に対する敬意が払われている。いい記事だ…… 沢木はそう感心した。そして社内システムにアクセスし、広報・IR課から出されている取材許可の書類に電子捺印なついんした。





 16時。里中涼はパクたちの動向をICC(統合司令センター)の真田薫に尋ねた。

 「パクたちはどこを観光してる?」

 「博多からJRで海の中道(うみのなかみち)へ移動し、水族館で4人とも一緒です」

 中央ディスプレイに監視カメラが捉えた映像が分割して映し出された。それは、パクたちの泊まるホテルの監視カメラ、街中の監視カメラ、駅、施設など、ありとあらゆるところに設置されたフォートップス端末付き監視カメラにより実現された映像だった。

 「おお、いいじゃない。ちゃんと観光してるね。ライブ映像は出せる」

 「やってみます」

 真田は水族館の監視カメラ映像をICCでダイレクトに受信し、フォートップスの識別結果をリアルタイムで表示させた。中央ディスプレイには、水族館でイルカショーを楽しむパクたちの姿が映る。

 「んん、楽しそうだ。で、パク以外の三人の身元は分かったかなぁ」

 「まだです。OEC刑事警察機構、OUアーミー情報局などにも情報提供を呼びかけていますが、まだ回答はないです。これだけ照会に時間がかかるということは、北朝鮮の出身者かも知れません」

 「OK、分かった。引き続き追跡を頼む」


 パク・ジファンは旧大韓民国の一般的な家庭に育ったので、旅行や娯楽などはそれなりに経験している。子供のころには、本当の観光で福岡に来たこともある。対して朝鮮統一後も貧しい暮らしをしていたイム・チョル、ユン・ヨン、キム・ウォンの三人にとっては、異国の地の見聞とは驚きと発見、感動の連続だった。イルカが芸をするのはテレビで見たことがあったが、ライブで見るイルカショーは迫力があり、イルカの持つ芸は彼らの想像を超えていた。

 イムはふと仲間たちに目をやった。横に座るユンが手をたたいて喜んでいる。キムはデジカメを忙しそうに操作している。平和だと思った。こんな日がずっと続くようにしなくてはならない。そうだ、自分はそのためにこの勝負に出たんだ。何としてもやり遂げて、残りの金を手にしなくては…… イムは決意を新たにした。

 ユンは、ついこの前までは貧しくともイムと一緒に生きられるのならそれ以上に望むものはないと考えていた。何度も死のうと思った少女時代、それから比べれば北朝鮮崩壊後の生活は十分なものだと思っていた。しかし、イムが大金を手にし、高級料理店で食事をし、生まれて初めておしゃれをし、こんな風に観光というものを楽しむと、たった12日間の出来事が自分の価値観に大きな影響を及ぼしていることを実感した。仕事がうまくいけば新しい人生を築ける。そう信じて、いや、そうするためにイムを支えよう。例えそれを他人が罪と呼ぼうとも。ユンもまた、覚悟を新たにしていた。





 17時42分。仕事を終えた岡林敦が本社ビル1階のセキュリティゲートを抜けると、彼のスマートフォンがメールの着信を知らせた。

 お疲れ様です、杉本です。長期取材の許可が出ました(^^)v。これで岡林さんの活躍をしっかりと世の中に伝えることができます。お祝いしませんか?

 ヤッターっ! 岡林は即座に返信しようとしたが、今度は電話が着信した。

 「何だよ、仕事か?」

 見ると杉本美花からの着電だった。

 「もしもし、今メールの返信をしようと思ったところです。しましょう! お祝い!」

 「よかった。実は、もうすぐそばにいるんです」

 岡林が辺りを見回すと、エントランス・ホールの隅で手を振る杉本の姿を見つけた。

 およそ30分後、みなとみらいのドックヤードガーデンにある牛肉料理店で、二人は食事をしていた。その席での杉本は、取材延長の申請が通ったことを心から喜んでいた。

 岡林は杉本の容姿はもちろんのこと、ジャーナリストとして自分に興味を持ってくれたことや、ハキハキとした率直な物言い、女性ならではの仕草や精神的な側面に夢中になっていた。もともとほれっぽい性格の彼ではあったが、これまで彼が接してきた女性たちは、ソフトウェア工学などの彼の得意分野について興味を示すことはなかった。しかし、この杉本という女性は、システム・エンジニアを目指したことがあり、今はソフト産業を専門に取材する記者だけあって、専門知識もありコミュニケーションにギャップを感じることは少なかった。しかも、仕事はそこそこがんばるが、プライベートは多少ルーズというようなところも共通であり、趣向などでも共有できるものが多かった。しかるに、岡林が杉本に対する気持ちにブレーキを踏む理由は一つもなかった。

 食事を終えた二人は、桜木町の駅に向かってみなとみらいの美しい夜景の中を歩いていた。ちょうど日本丸のそばに来た時、杉本は日本丸に続く階段に腰掛けた。

 「なんだかぁ、家に帰るのもったいない……」

 そうつぶやく杉本の隣に座りながら岡林は尋ねた。

 「どうして?」

 「だって、このきれいな夜景と日本丸。夢の世界みたい。駅に着いた途端に現実だよ。何だかつまらないよね」

 岡林は冗談っぽく言った。

 「じゃあ金曜日だし、朝まで遊ぼっか!」

 杉本は「いいよ!」と元気よく答えた。岡林は心の中でえっ?! と思いながらも、「酔ったんじゃない? だいじょぶ~」とふざけてみた。

 「だって、岡林さんといると楽しいもん。何だか好きになっちゃいそう……」

 「ええっ、誰を?」

 「誰って」

 杉本はわからないの? というような表情で岡林を見つめた。しばし見つめ合う二人…… 杉本は岡林のほほにそっとキスをした後に、息のような声音で言った。

 「ここにはあなたしかいないでしょう」

 その唇の動きはとてもセクシーだった。岡林は反射的に杉本の唇に自分の唇を合わせた。その瞬間、やり過ぎたかぁ? と思ったが、杉本の手が岡林の肩に掛かると、彼は杉本の肩に手を回した。

 信じられない! こんなドラマみたいなことがあるんだ……

 岡林はそう心の中で叫んだ。しかし、このドラマのシナリオは杉本によって書かれていたのだった。


 職安のようなものはあるのだろうか? 履歴書は必要なのだろうか?

 7月の初旬、そんなことを考えながら、杉本美花は川崎の風俗店が並ぶ街を歩いていた。すれ違う男たちのいやらしい目つき。ここで働くということは、こういう男たちを相手にすることだと思うと、悲しい気持ちになってきた。しかし、これまで多くのことを調べ、様々な人に相談し、思案に思案を重ねた結果がこれなのだ。今更迷ってなどいられない。彼女は辺りを見回し、比較的きれいなソープランドを認めると、深呼吸をしてから店へと歩みを進めた。

 「やめときな。あんたの欲しいのはもっと大金だろ。こんなところで働いたって、たいしちゃ稼げないぜ」

 男の声に杉本は振り向いた。

 「誰?」

 見ると180センチはありそうな、精悍(せいかん)な顔立ちの男がバリッとしたスーツ姿で立っていた。男は言った。

 「あんたの妹を助けられる唯一の人間だ」

 「ええ! なぜそれを!」

 「あんた杉本美花だろ。ビジネスの話がしたい。ついて来い」

 杉本はその誘いに躊躇(ちゅうちょ)した。

 「安心しろ、あそこのファミレスだ」

 男はそう言うとスタスタと歩き始めた。

 妹を助けられる……? 杉本は男の後を離れてついて行った。

 ファミリーレストランに入り、それぞれの前にコーヒーが来ると、男は静かに話し始めた。

 「俺の名前は橋本、まあ何でも屋みたいなもんだと思ってくれ。あんたのことは知っている。妹が難病で、そのために40万ドル必要なんだろう?」

 「なぜそれを?」

 「あんたキャバクラで働いてたろう。苦労を愚痴ることもあったはずだ。そういう情報を俺は集めて、ビジネスをコーディネートするのさ」

 「40万ドル、稼げる仕事があるというの?」

 「ああ、あんたにぴったりの仕事だ」

 「どんな?」

 「あんたなら沢木聡を知っているだろう」

 「相模重工の?」

 「その通り。その沢木がエクストリームセンスといわれる新しいシステムを開発しているらしい。俺はそのシステムに関する情報が欲しい」

 「沢木に近づいてスパイしろということ」

 「話が早いな。しかしターゲットは沢木ではない。片腕のプログラマー、岡林敦という男だ」

 橋本は上着の内ポケットから写真を取り出し杉本の前に置いた。

 「俺が言うのも何だが、ソープでハゲやデブのおやじを相手にするよりはよっぽどましだろう?」

 確かに、童顔で優しそうな顔の写真だった。

 「あんたの顔とその体、キャバクラで身につけた男の操縦術。それらがあればこんな青二才、手のひらで遊ばせられるはずだ。どうだ、やってみるか?」

 「本当に40万ドルもくれるの?」

 橋本は給与振り込みに使っている口座の残高を確認してみろと言ったので、杉本はスマートフォンを使って残高情報を確認した。すると、

 「はっ!」

 杉本は息のような声を発した後、思わずスマフォをテーブルの下に隠した。

 「1,000万アジア、前金だ。残りの3,000万アジアはあんたの働き次第だ」

 杉本はしばし考えた。こんな男を信じていいのだろうか? でも、金の一部は既に自分の口座にある。ASMOSが巨額の利益をあげていることを考えれば、その情報を得るためにこのくらいの投資をすることは十分に考えられる…… そうだ、沢木がMITを卒業する時には、世界中の有名企業が何億という金をちらつかせて沢木を勧誘したという。それに、妹のためとはいえ、やはり体を売るのは最後の手段にしたい。この男一人なら、金のためと割り切って何とか自分を偽ることができそうだ。

 「分かった。引き受けるわ」

 橋本は笑って答えた。

 「賢明な判断だ」


 みなとみらいから岡林と杉本の二人はシティホテルに移動した。そして二人はベットに入ったのだが、岡林はその行為の最中もとても優しかった。短大にいる時は彼氏がいたが、妹を進学させるためにキャバクラで働き出すと、そのことがばれて彼氏とは別れた。以来4年近くボーイフレンドがいない暮らしの中で、25歳の杉本の肉体が性的な欲求に満たされることは一度もなかった。しかし、岡林との相性はいいようだった。久しぶりの快感は、杉本の体を震わせた。セックスを楽しみ、同時に妹を救えるのなら、こんないい話はないと杉本は思った。だぶん…… きっと…… そう信じながら杉本はシーツを握りしめた。

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