第2話 友人・先生・路地裏
――――街へ向かって歩を進める道すがら、龍司はこんなことを思い返し、改めて自分が如何に幸運だったのかを実感していた。少しでもその幸運が欠けていれば、自分はあっさりのたれ死んでいたかもしれないのだ。これらの件に関して、龍司は『神』という存在を信じずにはいられなかった。
そのままこの世界に来てからの事を思いだしつつ歩くことしばらく、オレンジ色の空の半分が藍色に染まるころ、龍司は街の門の前まで到着した。
今ではもう馴染み深いものになってはいるのだが、龍司は奇妙な感慨にとらわれ、改めてぐるりとまわりを見回す。
門の幅はおよそ50メートルほど。 この街――――ここイルナビア大陸の、マルディア王国という国の貿易都市、ブルーグラス――――は大陸を横断縦断する街道群の交差地点にあたる場所にあり、ひっきりなしに商隊がやってくるため、都市内部への入り口はかなりの広さをとってある。
ただ、もう既に夕刻遅いこの時間とあっては商隊の姿もなく、手の空いている衛兵達が慌ただしく松明に火を灯し、夜に備える準備を始めていた。
ぼんやりと周囲を見回す龍司、その姿を不審に思ったのだろうか、重装備に身を包んだ1人の衛兵が龍司に近寄ってくる。
「おいそこのお前! 何をキョロキョロしている! 怪しい奴め!」
意識の外、魔物の襲撃の心配がなくなったことでぼーっとしている所に後ろから突然かけられた大声に、龍司はびくりと体を震わす。 ……しかし、すぐに表情を緩めると、声の主の方を振り返った。 この声には、聞き覚えがあるのだ。
「……突然おどかすなよ。 心臓に悪いぞミュート」
「いや、悪いねリュージ。 そこまでびっくりしてくれるとは思わなかったからさ」
龍司の抗議の声に、厳つい重装備に似合わない明るい少年の声が応えた。堅牢な兜の下、面甲を引き上げると、そこにはやはり年若い少年の顔。短髪の燃えるような赤毛と漆黒の瞳が覗いている。
「依頼の帰りかい?」
「そんなところ」
「お疲れ様だね、リュージ」
「ありがとう。でもお前もこれから仕事だろ? 頑張れよ」
「まーね。でもどうせ交代まで6時間くらい突っ立ってるだけだよ。楽すぎて楽すぎて、辛いくらいさ」
苦笑いを浮かべ、肩をすくめてそんなことを言う彼の名前は、ミュート・ウェルステッドという。龍司のこの世界で初めて出来た友人の1人だ。背丈は龍司とほぼ同じで、そこまで鍛えているわけでは無い龍司より更に線の細い体形をしている。しかし、途轍もない怪力を体に秘めており、重武装しつつこれまた重たい大剣や槍を軽々と振り回す。そのうえ技術もかなりの物であり、『ブルーグラス守護騎士団』最年少団員でありながら、総合的な実力は団の中でも、恐らく大陸全土で見てもトップクラスだ。
「ああ、そういえば」
ふと、手のひらをポン、とうつ古典的かつ大げさなジェスチャーと共にミュートは言った。
「『まだ帰ってこないのかな』ってミーナが心配してたよ。もしリュージを見つけたら伝えてくれって頼まれてたんだ」
「……やっぱりか」
ミュートの言葉に思わず龍司はそう呟いた。
「まあまあ。そんなにしかめっつらしないでさ。できるだけ早く顔を見せてあげなよ。あーんなにかわいい女の子に心配かけたんだから、ね」
にやり、といった擬態語がしっくりくるような、目と口元に笑みを含んだ表情でミュートは言う。
「……わかってるよ」
龍司のその言葉に満足したのか、ミュートはさらに笑みを深めると、「じゃっ!」と手を振って颯爽と持ち場に向かって走っていった。相変わらず装備の重さを感じさせない、素晴らしいまでに軽やかな走りだった。
(……よくもまあ、自分の妹の事を手放しに褒められるもんだよあのシスコン!)
苦笑いを浮かべつつミュートを見送って、門の所に立つ衛兵に一礼して、今ではもう馴染み深い場所になった街の門をくぐり、龍司は街中へと入っていく。
▽▽▽▽
イルナビア大陸の4分の3程を占めるマルディア王国の最大の貿易都市ブルーグラス。
大きく円を描く形の市街地の周囲を壁で覆われたこの街には、円の中心にあたる部分に時計塔のある大きな広場が存在する。そしてそこから東西南北に、街への出入りをする門へと繋がる4本の大通りと、北東・北西・南東・南西方向に延びる4本の通り、計8本のメインストリートが延びている。
この街のメインストリートとなる4+4本の通りには、食糧から日用品、私生活に必要な物から旅に必要な物までありとあらゆる種類の店舗や露店が軒を連ねており、たくさんの客と呼び込みをする商人たちの声で非常ににぎわっている。
日暮れを迎え、日中と比べればだいぶ客は減ってはいるものの、それでも十分多くの人々が露店目当てに出歩き、喧騒を作り出している。龍司はその様子を眺めつつ、ときおりこみ上げる屋台に突っ込んでいきたくなる衝動を抑え、早足で真っ直ぐに目的地に向かって歩いていた。向かう先は、龍司の『命の恩人』がいる場所。すなわち、この世界に来たばかりの龍司を保護し、教え導いてくれた人間がいる場所だ。
著名な魔術師であり、それと同時に有名な薬師でもあるその人物に依頼され、龍司は薬の原料を集めるために5日程この街を離れていたのだった。本来なら3日もあれば帰ってこれたのだが、材料の一つである『ファーラビット』がなかなか出現せず、予想外に時間を食ってしまった。
若干小走りで足を進め、途中の路地を曲がって、複雑に入り組む薄暗い通路を進んでショートカット。薄暗闇の迷路の中を微塵も迷うことなく進んでいく。
そのまま窓から漏れてくる薄明りと夕食時のいい匂いの中を進み、再び大通りに出てしばらく、ようやく目的地に到着した。
パッと見た感じでは、周りの家と何も変わらないように見える、何の変哲もない一軒家。扉には一応『薬あります』と書いてある張り紙がしてあるが、とてもそんな風には見えない、本当にただの一軒家。実際、道行く冒険者たちはこの建物に目もくれることなく通り過ぎていく。
しかし、龍司はこの『家』と、この家が扱う薬と、そしてこの家の家主がいかに常識離れしているか知っていた。
トントン、とノックしてから龍司は扉を開ける。扉の内側に取り付けてあった小さな鐘が、カランカランと鳴り響いた。
敷居をまたぐ、その瞬間。龍司は自分の体が膜のようなものを通り抜けたような感覚に襲われる。どちらかといえば不快に分類されるその感覚、それに表情一つ変えることなく、建物の中に滑り込む。
建物の中は外見から想像もつかないほどに広く、とても整理整頓され、掃除が行き届いた綺麗な空間が広がっている。家主のかけた魔術によって空間が拡張されているのだ。
そして整然と並べられた机の上に、様々な種類の薬が入った小瓶がいくつも並べられていた。色とりどりの薬の結晶や液体が間接照明に照らされ、幻想的に揺らめいている。
――――『どんな怪我でも疲労でも飲めばたちどころに回復する薬』だとか、『1週間完徹できる薬』だとか、そういったとんでもない薬の横をすり抜けて、奥へ向かっていく。
酒場か何かのようなカウンターの裏に回り込み、いかにも『STAFF ONLY』的な扉に手をかけ、そのまま開けた。
「……ふむ、ようやく帰ってきたのかい」
扉の奥、やはり外見よりも広い空間におかれたソファに座り、優雅なティーブレイクを楽しんでいる初老の男性。その人物が龍司に向き直り、ニッと笑みを浮かべ、そしてどこかホッとしたような表情を浮かべて、龍司に声をかけた。
「すいません、遅くなりました。……ラザフォード先生」
「いや、気にする必要はないよ。無事に帰ってきたことが最重要だ」
男性の名前はラザフォード・ライオット。この家の主人であり、すなわち著名な魔術師――元冒険者ランクS(最高ランク)第3位――であり、有名な薬師――数々の新薬の開発者――でもある。そして同時に、この世界における龍司の命の恩人だ。
「君には大きな『力』がある。しかしそれでも、油断ならないのが『冒険』であり、そして『魔物と戦うという事』だ」
「『力を持っても、慢心せず、謙虚であれ』……先生に何回も言われましたから、しっかり心得てますよ」
右も左もわからないこの世界に突如として飛ばされた龍司を保護し、生活と教育を与え、教え導いてくれたのだ。龍司からすると、いくら感謝しても感謝しきれない人物である。
「……あ、それで、言われたものはしっかり取ってきましたよ」
そう言って、龍司は左手をひょいと振った。いつの間にかその手にはショルダーバッグのような物体が現れていた。中に手を突っ込み、がさごそと中身を漁る。
「……えっと、『緑晶石』に『セルナ樹の葉っぱ』、そして『ファーラビットの毛皮』です」
「ありがとう。急な依頼だったのによく引き受けてくれた。助かったよ。これが報酬の『万能薬』だ」
「いえいえ。また何かあったら言ってください」
笑って、小瓶に入った透き通る青色の液体を受け取る龍司。バッグに薬を入れ、もう一度手を振るとそのバッグは姿を消していた。
「それじゃあ、今日はこれで」
「何だ、もう帰るのかい? 少しゆっくりしていってくれても構わないが」
「いやー、ちょっと待たせてる人間が……」
「ふむ、……それはもしかして、あの子かな?」
好々爺然としたやわらかな笑みを浮かべ、ラザフォードは部屋の脇にあるベッドを指差した。つられるように視線を向けた龍司は、ベッドの上で誰かが横になっていることに気づく。
「ああ……はい、あいつです。何でここに?」
そう言って、龍司はベッドに近づいていく。
そこで安らかな寝息を立てているのは1人の少女だった。
龍司の友人、ミュートが溺愛してやまない妹であり、そしてミュート同様に龍司のこの世界で出来た初めての友人の1人だ。
普段はポニーテールでまとめられている栗色の艶やかな長髪が、今は枕元に広がっている。
「君とは別のおつかいのついでだよ。久しぶりに一緒にお茶を飲んでいたんだが……ここ2、3日、ずっと君の事が心配で寝不足だったみたいでね、さっき寝てしまったんだ。そろそろ良い時間だし、起こしてあげてくれないか」
「……わかりました」
トントン、と龍司は優しく少女の肩をたたき、耳元で呼びかけてみる。
するとかすかな身じろぎの後、少女はゆっくりと体を起こした。
艶のある長い栗色の髪の毛がサラリと流れた。男10人とすれ違えば9人(残り1人は女の子に興味が無いのだろう)は振り返るような、やや幼さの残る整った顔に眠たそうな表情を浮かべ、ゆらゆら首を揺らしている。頭のてっぺんでぴょこんとはねる髪の毛と相まって、とても可憐な姿だ。ミュートがシスコンと化してしまうのもわからないではなくなってしまう。瞬かせるまぶたの奥には美しい空色の瞳が見え隠れし、はだけた服の隙間からはほんのりと赤みの差した健康的な白い素肌と女性特有の膨らみが見えて、龍司の心臓はドキリと跳ねる。
「あー……、ただいま、ミーナ」
動揺を押し殺し、龍司は少女――ミーナ・ウェルステッドに声をかけた。
「……おかえり、りゅーじ」
ミーナはふわあ、と大きく欠伸をして目をこする。
「帰り、遅かったね」
そう言うと、眠気を振り払うようにふるふると頭を振って、ミーナはベッドに腰掛けるように座りなおした。揺らす頭に合わせて美しい長髪がさらさらと流れ、とろんとしていた目も、少しずつしっかりしたものに変わってくる。
「でも、無事でよかった」
「……うん、心配かけて悪かった。ごめんな」
「だいじょうぶ。こればっかりは仕方ないから」
そう言って、ふんわりと、花が咲くようにミーナは微笑んだ。
「でも今度は……一緒に行くから」
「マジか? ……うーん、それは、まあ、……ミュートが良いって言えば」
「ふふふ、約束だよ」
今度は悪戯っぽい笑みを浮かべ、ミーナはそう言った。
▽▽▽▽
ラザフォードの家を辞し、龍司とミーナの2人は日の落ちた路地道をミーナの家に向かって歩く。
「で、本当に次ついてくるのか?」
「うん! そのつもり!」
すっかり目を覚ました様子のミーナが、ポニーテールをぴょこぴょこ揺らしつつ歩きながらそう答えた。
「せっかくリュージと、……まあおまけでお兄ちゃんと、一緒に勉強して冒険者になったんだし、パーティー組みたいと思ってたんだ。でもお兄ちゃん、騎士団なんかに入っちゃったから忙しそうでダメだし。お父さんもお母さんも、……まあ特にお兄ちゃんがなんだけど、一人旅って聞くといい顔しないから」
「……そりゃあ娘とか妹が1人で旅したいとか言ったら普通の家族はいい顔しないだろうな」
(シスコンならなおさら、ね)
ミュートの事を思い浮かべつつ、苦笑いをして、龍司はそう呟いた。
「そう。だからそういう意味でもパーティーは組みたかったの」
後ろで手を組んで龍司の方を振り向いて、上目づかいでミーナは微笑む。視線が交錯して、龍司は顔が熱くなるのを感じた。
「そっか……。それなら「それならオレ達とパーティー組もうぜお嬢ちゃん!」……なんだ?」
突然、空気をぶち壊しにするような粗野な大声が路地に響いた。声のする方を振り向いてみれば、そこには汚らしい格好をした3人の男が立っている。格好こそ汚らしいが、体は筋骨隆々としており、一番小柄な男でも龍司より一回りは肩幅が広い。大都市の路地裏、都会の闇にまぎれて犯罪を繰り返すチンピラどもだろうか。
「いやー、ちょうど女の子を探してたんだよ! なあアニキ?」
3人の中で最も小柄な、素手の男がまず口を開いた。
「……ちょっと若すぎんじゃねぇか? どう思うよにーちゃん?」
次に、最も長身の、巨大な金槌のような武器を背負った男が反応した。
「何言ってんだおめぇ。ちょうど『食い』時じゃねぇか! ぺろっと犯しちまいてぇぜ! なあ弟たちよ!」
他2人の言葉を受け、最後に口を開いたのは3人の中で最も隆々とした男だ。ミーナの腰よりも太いのではないかというほどの腕と太もも。その背には巨大な鉈が背負われていた。
「て、ことでだそこの細っこいアンちゃんよぉ。……死にたくなかったらさっさとお家に帰るこった!」
「それともあれか? かっこつけてオレらと勝負でもするのか? 無理無理、諦めなって。なあアニキ?」
「ま、そうだな。俺たち兄弟の邪魔をするなら手加減はしない。なあ、にーちゃん?」
「うーむ、よくわかってるじゃねぇか! 流石は俺の弟たちだ!」
ガッハッハ! と声を合せて笑う、目に剣呑な濁った光を宿らせた3人のならず者たち。それを見た龍司とミーナは頭に手を当てて、はぁ、とため息をついた。
そして2人はならず者たちに向き合った。先程までの和気あいあいとした雰囲気は欠片もなく、底冷えするような冷気を孕んだ鋭い視線を男たちに向ける。
「あん? 何だ? やろうって……」
鉈男の言葉が言い終わらないうちに龍司は地面を蹴り、飛び出していた。
「ッ!?」
無駄に修羅場は潜り抜けているのか、素早い反応を見せ防御の構えを取る鉈男。しかし、力強い飛び出しの、その勢いを乗せた龍司の強烈な回し蹴りは、ガードの上から男の体を吹っ飛ばした。
「ガ、ッ……!?」
吹き飛ばされた男の体がボールか何かのように路地を転がっていく。数回バウンドしてようやく止まった鉈男。人が死ぬような威力を出したわけでもなし、気絶したようでピクリとも動かない。たった一撃で、龍司は自分より何回りも大きい屈強な男を戦闘不能状態に追い込んでいた。
「「なっ……!?」」
突然の出来事に、残る2人はそろって驚愕の声を上げる。しかし龍司の動きは止まらない。ゆるりと腕を伸ばし、手の平が金槌男の体に触れた、その瞬間。
ズバッチィ!!という稲妻のような音と閃光が路地裏に溢れた。ドサリ、と男の体が地面に転がる。雷の魔術で感電させ、意識を奪い取ったのだ。
「ッ、チクショウ!」
と、硬直から解放された残り1人、素手の男がミーナ目がけて飛び掛かった。
(せめて俺1人でもこいつを誘拐して、アニキたちの仇を……!)
少女1人の誘拐など簡単なことだ。大柄な男が突然飛びかかってくれば、普通の少女など腰を抜かす。その隙に少女をとっ捕まえる。何て事は無い。今までやってきたことを、繰り返せばいいのだ。今コイツを人質にすれば、後は目の前の男は手出しはできない。そうしたら後はじっくりと嬲ってやればいい。
ほら、目の前には可憐な少女の恐怖におびえた表情が……
――――しかし、目の前の少女の表情は男が予想していたものとは似ても似つかないものだった。
――――少女は、口角を吊り上げて、ニヤリと笑っていた。
「な」
なんだ、と男は声に出そうとして、しかし最後まで言い終えることはできなかった。少女の手元で光が瞬いたかと思うと、男の腹部に大きな衝撃が叩き込まれたからだ。男の体がくの字に折れ曲がり、ぼろきれか何かのように地面に投げ出される。
「ぐ……が……」
地面に転がる男、ブラックアウトしていく意識の中で彼が最後に認識したのは、光で形作られた弓を構える少女の姿だった。