物語の個性消失
小説を読んでいると、ある瞬間から文章そのものが気になり始めることがある。
物語が破綻しているわけではない。
設定にも違いがある。主人公の能力も、置かれた環境も、目指しているものも作品ごとに異なる。文章も一応は読みやすく、何が起きているのか分からないわけでもない。
それでも、どこかで読んだような感覚が残る。
同じ展開だからではない。
同じ設定だからでもない。
表現の組み立て方や、登場人物が物事を理解するまでの流れに、AIが生成した文章に特有の似通い方を感じるのだ。
最初は、単なる言い回しの問題として現れる。
必要以上に状況を整理する文章。
感情や関係性を、少し距離を置いた言葉でまとめる文章。
直前までの出来事から意味を抽出し、いかにも一つの結論へ到達したように締める文章。
一文ずつ見れば、おかしいとは限らない。
説明として間違っているとも限らない。
しかし、それが何度も続くと、登場人物がその場で考えているというより、出来事の意味を外側から整理した文章を読まされているように感じる。
主人公の行動も、必ずしも合理的ではない。
冷静な判断ばかりするわけでもなく、感情的になることも、失敗することもある。
それでも、どこかずれている。
問題は、正しいか間違っているかではない。
その人物が、なぜその瞬間に、その理解や感情へ到達したのかが見えにくいことだ。
何かを疑う。
誰かを信用する。
怒る。
傷つく。
反省する。
覚悟を決める。
それぞれの反応には、表面的な理由が書かれていることもある。
だが、理由が書かれていることと、その人物の内側から自然に反応が生まれたことは同じではない。
説明は成立している。
展開もつながっている。
それなのに、人間の思考や感情がそこを通ったという感触が薄い。
私には、人物が自分の価値観から行動したというより、先に用意された反応を、その場に合わせて与えられたように見える。
それは、過程を飛び越えた正解とは少し違う。
正解ですらない場合もある。
ただ、本来ならその人物が持つ情報、経験、性格、思い込み、感情の蓄積を通らなければ出てこないはずの反応が、途中のどこかを省略して現れる。
主人公が賢いからでもない。
メタ思考が得意だからでもない。
作者が意図的に特異な思考回路を与えたようにも見えない。
人が自分の内側から答えを作ったというより、すでに形になった答えや反応を、人物へ接続したように感じるのだ。
その違和感を一度認識すると、私は物語へ集中しにくくなる。
次に何が起こるのかではなく、次にどのような文章で整理されるのかを意識してしまう。
登場人物が何を感じるのかではなく、AIがこの場面をどのように処理したのかを探してしまう。
物語を読む視線が、制作過程を推測する視線へ変わる。
その時点で、私にとって作品の価値は大きく下がる。
私は、AIを使った小説だから価値がないと考えているわけではない。
作者の判断が完全に消えているとも思わない。
設定を選び、展開を決め、生成された文章を採用するか修正するかを判断しているのは作者だろう。
しかし、AIがある程度まで物語を整理した後で作者が判断する場合、最初に示される表現や思考の型は、別の作者がAIを使ったときにも似たものになりやすい。
作者ごとに選択は違っても、選択する前の素材が似ている。
その結果、設定には個性があっても、文章の運び方や人物の反応に共通した特徴が残る。
異なる世界を舞台にしているのに、どこか同じ手触りがする。
異なる人生を歩んできたはずの人物なのに、理解の仕方や感情の処理に、同じ生成元の気配がある。
私が小説に求めているものは、完成された答えだけではない。
個性的な物語と、異なる価値観である。
同じ出来事を見ても、何を重要だと感じるかは人によって違う。
どの情報を信じるかも、何を恐れるかも、どこで諦めるかも違う。
理屈では説明できない選択にも、その人物が生きてきた過程が表れる。
私は結果よりも、その多種多様な過程に意味を感じる。
だから、人物の反応が正しいかどうかだけでは、作品を評価できない。
間違っていても、その人物にしかできない間違いなら面白い。
遠回りでも、その価値観から避けられない道なら読みたい。
理解できない行動であっても、その人間なりの経路が見えるなら、理解しようと思える。
反対に、行動の理由が説明されていても、そこへ至る固有の経路が感じられなければ、その人物は私の中で生き始めない。
AI小説特有の表現を強く感じたとき、私が失うのは物語への信頼である。
この人物は、この人物自身の人生から考えているのか。
それとも、物語を成立させるために生成された反応を与えられているだけなのか。
その疑問が生まれる。
疑問が確信に近づくほど、設定の違いは表面的なものに見えてくる。
名前が違う。
能力が違う。
世界が違う。
それでも、物語を動かしている思考と表現の型が同じなら、私には個性のある作品として感じにくい。
やがて私は、続きを読むのをやめる。
文章が下手だからではない。
展開が破綻しているからでもない。
登場人物の声を追っていたはずなのに、いつの間にか、その背後にある生成の癖を聞き取ってしまったからだ。
一度それに気づくと、もう元には戻れない。
主人公が迷えば、次にどのような言葉で感情を整理するのかが見える。
誰かと衝突すれば、どのように双方の事情を並べ、どのような理解へ着地するのかが予想できる。
物語の先を読んでいるのではない。
文章が作られる順番を追っている。
その感覚が強くなった瞬間、登場人物は遠ざかる。
名前もある。
過去もある。
守りたいものも、恐れているものも設定されている。
それでも、その人物が自分の足でそこまで歩いてきたようには見えなくなる。
道だけが先に作られ、その上へ人物を置いたように感じる。
私は小説に、目的地の珍しさだけを求めているのではない。
誰が、どの道を、どのように歩いたのかを読みたい。
途中で間違えてもいい。
引き返してもいい。
他人には理解できない理由で、遠回りをしてもいい。
その足跡が、その人物にしか残せないものであればいい。
画面を閉じた後も、少しだけ物語のことを考えた。
設定は嫌いではなかった。
結末も、知ればきっとそれなりに納得できたのだろう。
けれど、続きを開こうとは思わなかった。
先に何があるかではなく、そこへ続く足跡が、もう知っている形に見えてしまったからだ。
物語が終わったわけではない。
私の中で、その道を歩いている人がいなくなったのだ。
だからといって、私はAIを小説に利用すること自体を拒否するつもりはない。
AIには、文章を整える力がある。
矛盾や間違いを見つけ、表現を修正し、散らばったアイデアを一つの形へまとめることもできる。
使い方次第では、作者一人では見落としていた部分を補い、作品をより良いものへ近づけることもあるだろう。
ただ、忘れてはいけないことがある。
物語の道を作るのは、作者である。
登場人物がどこで迷い、何を恐れ、何を信じ、どのような価値観から道を選ぶのか。
その過程までAIに委ねてしまえば、道は整っていても、その作品にしかない足跡は薄れていく。
AIがするのは、作者が作った道を整えることだ。
崩れた部分を直し、不自然な箇所を修正し、必要なら別の可能性を示す。
しかし、どこへ向かうのか。
なぜその道を選ぶのか。
そこで何を感じ、何を失い、何を得るのか。
それを決めるのは、作者でなければならない。
AIを使うことそのものが問題なのではない。
AIを使った結果、物語の個性や、人物固有の過程を失い、作品の価値を貶めてしまうことが問題なのだ。
少なくとも、私はそう考えている。
道を整える者は、AIでもいい。
だが、その道を作り、最初の足跡を残す者まで、AIにしてはいけない。
もっとも、これはAIで書かれた小説だけの問題ではない。
人間が一人で書いていても、流行の型をなぞり、無難な反応を並べ、物語を整えることばかり優先すれば、作者の姿は見えなくなる。
AIが生み出した問題というより、以前から存在した問題を、AIがより簡単に、より大量に起こせるようにしたのだと思う。
だから私が見ているのは、AIを使った痕跡そのものではない。
作品の中に、その作者と人物にしか通れない道が残っているかどうかである。




