学校
「……」
私と礼子は声を失う。
さっきまで楽しく会話していた人間が忽然と消えた。
その場所には、最初から何もいなかったかのように何もない。
礼子はテーブルを叩き、歯噛みする。
「あたしのせいだ!あたしが雇うなんて言うから!」
キーボードを拳で叩く。
「ふざけんな!出てこいよ」
声だけが虚しく部屋に消えていく。
私は礼子の肩をそっと抱き寄せた。
「何なんだよ……」
礼子の拳は力なく、私の胸に落ちていった。
「まだ、完全に消えたわけじゃない」
空間が確かに歪んでいた。
今もそこだけ、空気が揺れている。
霊が霧散するとどこに行くのかはわからない。
けれど、諦めることだけは違う気がした。
「うん。突き止めなくちゃ。
先輩は廃寺を調べていると連絡がありました。
なので累さんは、学校をお願いします」
私は立ち上がり、前を見つめた。
真希の何を伝えたかったのだろうか。
あのときの私は……
コツン。
乾いた音が足元で鳴った。
テーブルの下をのぞき込み、それを探す。
するとそこには、灰色の骨が落ちていた。
私はそれを拾い上げ、礼子に見せる。
「それって──」
私はその骨をじっくりと観察する。
人の骨に似ているが、関節の突起はない。
先端は少しだけ、半透明に見えた。
木の香りがわずかに鼻をかすめた。
少年にもらったポケットの中の骨が少しだけ、熱を持った気がした。
私は事務所を出た。
確かな決意を胸に、学校に向けて街を歩く。
気がつけば太陽は、雑居ビルに沈もうとしていた。
街の影は静かに伸びていく。
すれ違う人々の足取りは重い。
鬱蒼とした感情が、身体から滲んでいた。
怒りや疲れが、街に溶け出しているようだった。
黒い染みは、人の未練によって生まれる。
そう思っていた。
けれど私は、どこか間違っている気がしていた。
──学校についた頃には、完全な闇があたりを覆っていた。
街灯の明かりすら、校庭の奥には届かない。
ピコン。
スマホが鳴った。
見ると礼子からチャットが入っていた。
”累さん、気をつけてください。
その学校が廃校になってから、行方不明者が何人も出ています”
スマホをポケットにしまう。
それとともに、拳をゆっくりと握りしめた。
私はペンライトを付け、廃校となった校舎に足を踏み入れた。
ぎぃと腐りかけたドアが鳴る。
校舎の玄関には、何台もの下駄箱が口を開いていた。
上履きが、ところどころに入っている。
どれも埃をかぶり、黒くくすんでいた。
ひとつだけ、異様に蜘蛛の巣が張った下駄箱があった。
そこにはひとつだけ、スニーカーが入っていた。
下駄箱を横目に廊下を歩く。
みし、と歪んだ木の廊下は悲鳴を上げた。
急に背中へ鳥肌が這い上がってきた。
……いる。
私は、革靴を踏み込む。
だが、ぎぃと低い音だけが校舎の奥底に吸い込まれていった。
木造の古い校舎は、革靴の音を拒絶していた。
その瞬間、バタリと玄関のドアが閉まった。
ガタガタと下駄箱は音を立てる。
私は教室に逃げ込んだ。
霊と対話するには、姿を見せるしかない。
対話できなければ、浄化もできない。
教室内をペンライトで照らす。
私の目論見は、外れた。
ロッカーや清掃用具入れすら、木製で腐り落ちていた。
等間隔に並んだ机も椅子も、ベコベコに歪んでいる。
ガラララッ。
教室の反対側の扉が開いた。
追ってきている。
その音は、悪意を持って私を威嚇していた。
「仕方ないよな。失礼する!」
私は教卓の前で飛び上がり、黒板を思い切り蹴った。
ガツン!
鈍い音が教室に響く。
一瞬だけ、数人の学生が教室に立っている光景が浮かんだ。
その顔は私を見て、驚いているように見えた。
「…あれ?……人じゃなかっ──」
学生たちの声が少しだけ聞こえた。
やはり綺麗に響かなければ効果が薄い。
ぎぃぎぃと床がなる。
ひりつくような殺気が迫ってくる。
私はその音から遠ざかるように後ずさりした。
すると、ベコンと大きな音とともに目の前の机がひしゃげた。
「おいおい、まじか……」
教室から飛び出し廊下を走った。
暗い廊下が何本も分岐している。
完全に学生たちは私に敵意を持っている。
複数の足音は私を追いかけてきた。
「敵意はない!落ち着いて話そう」
後ろの足音に向けて告げるが、いっこうに殺気が消えることがなかった。
私は校舎を駆け回った。
しかし、どの教室も木製のものばかり。
すると、廊下の正面から足音が鳴った。
廊下がべこりとへこむ。
ぶんっと重い音を耳が捉えた。
とっさに頭を下げる。
凄まじい破裂音とともに壁が砕けた。
ぶんっと上空の空気が唸った。
後ろに飛ぶ。
床がバキバキにへこんだ。
息が苦しい。
このままでは、やられる。
その瞬間、背中がみしと軋み、私は教室の中に吹き飛んだ。
背中が焼けるように熱い。
痛みが視界を塞ぐ。
その間も足音は私に迫っていた。
ペンライトは彼方を照らしている。
すでに、立てる気はしなかった。
私は手探りで足に手を回し、ぐっと力を込めた。
駆け寄る足音は、目の前に迫った。
その瞬間、私は革靴を目の前に放り投げた。
カツーン。
その瞬間、金属バットを持った学生たちは姿を現した。
「やっぱり人だ!みんな止まれ」
金属バットを持った学生は、戸惑った顔を浮かべていた。
……ぎぎぎぎぎ。
床板が軋みながら盛り上がる。
まずい。
教室の隅から黒い染みの気配が漂ってきた。
私は息をひとつ吐き、できることを探した。
身体は教室の床に沈んでいる。
立つことは、できそうもない。
ペンライトも失っている。
革靴の効果も残り少ない。
学生たちは怯えている。
頭の中を絶望が掛け巡る。
だが、まだ口と手だけは動く。
ぬちゃり。
床についた足に鈍い痛みが走った。
太ももに熱がこもる。
頭の中は、白く明滅した。
「お前ら、これを、打て!」
身体の痛みが神経を突き刺す。
私はポケットに痺れだした手を入れ、それを学生に投げた。
コツーン。
骨はバットに打たれた。
コツンコツン。
乾いた骨は木製の校舎でも綺麗な音を奏でた。
腐った木すら、その音を拒めなかった。
痛みが少しだけ引いた。
無理にでも明るい声を紡ぐ。
「ナイスバッティング!やるじゃないか!」
学生たちは、活気を取り戻した。
久しぶりのスポーツの熱気は、不安を打ち消していく。
……あと一押し。
「磯野!野球しようぜ」
数人が笑った。
学生たちは一斉にツッコミを入れた。
「誰がカツオやねん!」
すると、大きな笑いが教室を包み込んだ。
その瞬間──
黒い染みは床の中に消えていった。




