霧散
私は、病院内を調査して手帳にまとめると子どもたちと病院を出た。
地縛が解けた子どもたち。
病院から解放されて、走り回っていた。
私は礼子にチャットを送った。
ピコン。
スマホをポケットへ戻した途端に着信音が鳴る。
チャットを見て、息を飲む。
私の居場所も次の行動も、礼子にはわかっているらしい。
先方への連絡も済ませてくれている。
もはや怖い。
私は礼子の指示に従って、最寄りの寺を訪ねた。
「こんにちは、累と申します。この度はお引き受けいただき、ありがとうございます」
住職は深々と頭を下げた。
私は住職に、子どもたちを預けた。
各地の寺とは、契約している。
子どもの地縛霊を救ったら、近くの寺が引き取ることを。
礼子には子どもたちの名前を伝えていた。
寺の人間は、おりんや木魚などの音を使って、霊を見ているらしい。
私には聞こえないものが、彼らには聞こえるのだろう。
──私は荒廃とした病院を横目に、事務所へと戻った。
「ただいま戻りました」
相変わらずその声は、狭い事務所の埃に消えた。
けれど一拍置いて、聞き慣れない言葉が返ってきた。
「お邪魔してます」
来客用のソファーに座っていた長い黒髪の女性はすっと立ち上がった。
青いワンピースが可愛らしい。
振り向いた顔には、とびっきりの笑顔を浮かべていた。
トンネルで見たあの怯えた顔とは、まるで別人だった。
「真希ちゃんってすごいんですよ!幻の喫茶店を全部知ってるんです!」
礼子は事務所に訪れた真希とすでに打ち解けているようだった。
「で、病院どうでしたか?」
私は真希の正面のソファーに腰を下ろした。
「おいおい、真希さんがいるのに仕事の話か?」
礼子はクルクルと椅子で回りながら右手を上げる。
「真希ちゃん、ここで働いてくれるって。
だから、雇っといた」
ボサボサ頭はまた勝手なことを言ってのける。
私は真希を見つめた。
「本当にいいのか?」
真希は「はいっ!」と快活に答える。
「もう久しぶりの自由は楽しみました。それにここにいないと……ちょっと寂しいんです」
霊は特定の人にしか見えない。
私は口を強く結ぶ。
そして、手を前に出した。
「それじゃあ、よろしく」
真希は、私の手を両手で包んだ。
「よろしくお願いします!」
──私はこの事務所のことと、これまでの経緯を真希に話すと、机の上に手帳を広げた。
じっくりと病院の中を思い出す。
置き去りのカルテ。
散乱した医療報告書。
明らかにそこは移転ではなかった。
抜け殻。
そう表現する方が合っている気がした。
けれど医療器具だけは、見つけられなかった。
聴診器も包帯もハサミすらない。
唯一見つけたもの。
それは子どもたちが転がした、注射器だけ。
真希は手帳を覗き込み、感嘆の声を上げた。
「すごい!詳細に記録しているのですね。写真もついてる」
私は得意げに口を開く。
「後で思い起こしたときに、情景が思い浮かぶようにしているんだ。
私は少し忘れっぽいから……」
そこで言葉が詰まった。
この事務所に入った当時の情景が、頭から抜け落ちている気がした。
……いや。
それにしても、抜け落ち方が不自然だった。
「これ、ちょっとおかしくないですか?」
真希は手帳を指差す。
「医療報告書の名前とカルテの名前が、一人も一致しない」
私は写真をつぶさに見比べる。
確かに、名前が合わなかった。
背中がじわりと冷える。
それは偶然では済まない数だった。
「特定の人が連れてこられていた?」
礼子はキーボードを叩きながら言う。
「真希ちゃん。よく見えてるね」
モニターには医療報告書に書かれた人の情報が表示された。
住所
生年月日
血液型
その住所は、病院とはかけ離れていた。
あまりにも遠い。
礼子の言うとおり、連れてこられた可能性が高い。
「あっ!」
真希はモニターを指差す。
「たぶんこの人たち、みんな中学校が一緒です」
空気がわずかに重くなる。
礼子はこの街の地図を映した。
「確かに、この中学校に住所が近い。
だけど、ここって……」
礼子は私の目を見た。
そこは礼子が目をつけていた学校だった。
5年前に、廃校になっている。
私は疑問を口にした。
「なんで、同じだとわかったの?」
真希は即答する。
「だって、ここ、私の母校ですから」
心臓が低く鳴った。
廃校に通っているはずはない。
私はある疑問を投げかけた。
「真希さん。今、西暦何年だっけ?」
その答えに私と礼子は絶句した。
──五年間の記憶が、失われている。
喉の奥がひどく乾いた。
時計の針がどこか狂っている気がした。
トンネルでの日々は、虚ろで、感覚がなかったという。
廃校になる前の学校は、野球が盛んないたって普通な学校だったらしい。
みな、そこから連れてこられていた。
先生がそこに、いたのだろうか。
「先輩と累さんが追っている、先生って誰ですか?」
──コツン。
事務所に音が鳴った。
一瞬、みんな気に留めたが、礼子は構わずキーボードを叩いた。
モニターには、医師たちの名前が映し出された。
あの病院で働いていた医師を離職した順に。
「特定の誰かではないよ。
黒い染みが発生した場所には”先生”と呼称する人間が関与していることが多いんだ」
真希は急に天井を見つめた。
その視線は、誰かと目を合わせているようだった。
「それじゃあこの中にいるのかも」
礼子は一人一人の情報をつぶさに観察している。
どこから情報を集めているのだろうか。
礼子を怒らせることだけはしないと、心の中で誓った。
「そこには、きっといない。
昔先輩と一つの企業を調べ上げた。
けれど、どこにも”先生”は見当たらなかった。だからきっと──」
コツン。
音が、また鳴った。
事務所の照明はちかちかと瞬く。
冷たい風がどこからか吹き抜けた。
「先生はすでに死んでいる」
真希は「あっ!」と声を上げた。
「私、トンネルでの記憶がほとんどなかったのですが、少しだけ思い出しました」
事務所の資料が宙を舞った。
礼子は顔をしかめる。
「先輩!もっと静かに──」
すると、真希の身体がぐりゃりと歪んだ。
「あのときの累さんは……」
真希の声はそこで途絶えた。
次の瞬間──
真希は何かを掴もうと手を伸ばす。
けれどその身体は、
空間ごと押し潰されるように霧散した。




