笑えば、祓える
その瞬間、転げまわるように少年は笑った。
「あっはっはっは!
ひーぃっひっひ!
それ以上は言わないでください。
お腹がよじれて、死んじゃいます!」
いつの間にか、私もつられて笑っていた。
黒い染みは静かに霧散する。
少年は笑いをこらえながらブランコを漕いだ。
「あはは、前に進んだら、後ろに戻るのが、当たり前ですよ!」
私はブランコの上に立ち上がって思い切り漕いだ。
「ははは。そうだよな、少年。
前に進んだつもりで、後ろに行くことだってあるよな」
少年も立ち上がり、体を大きく逸らすようにブランコを大きく漕いでみせた。
「あはははは。また同じこと言ってる。
どれだけブランコが好きなんですか」
私は夕暮れに染まる空に、革靴を蹴り上げた。
コツン。
固い地面に当たって、革靴は小気味よい音を奏でた。
──太陽の光が鬱蒼とした雑居ビルに沈むまで、少年と全力でブランコを漕いだ。
隣のブランコが、きぃきぃと音を立てながら静まっていく。
夜は、今日も寂しさを連れてきた。
「それでは、またここで!
いい音が、響くといいですね!」
少年はぴょんとブランコから飛び降りる。
……砂の音は、まったくしない。
着地したはずの場所に、足跡がなかった。
「またな」
振った手は重たく、白い息は夜空を漂う。
少年は、脇目も振らず闇の奥へ駆けていった。
静寂が公園に落ちた。
遊具は役目を失い、その影を虚ろにさせていく。
やがて、ジジジっとざらついた音の街灯とともに刹那の静寂は破られた。
ぬるい風が、枯れ葉を宙に浮かべ、砂がゆっくりと渦を巻く。
公園を囲う木々は、さやさやと会話して私を睨んでいた。
「いつになったら、消してくれるんだ?」
捻くれた声が私の背中を冷やした。
「もう少し、時間をください」
そう言いながら腰を折る。
「それ、何回言うつもりだ?
お前はいいよな。この街を出られて。俺はずっと縛られてる。やってらんないね」
”その陰口も何回目だ”と私は小さく呟いた。
「──調べはついてる。次は向こうのトンネルだ」
先輩は彼方の山を指差した。
「わかりました。
それでは、行ってまいります」
右肩に乾いた痛みが走った。
先輩のその手は、とても冷たい。
けれど、このやり取りだけが私を温めてくれる。
先輩は、この街に縛られたままの霊だ。
私もまた、
この街から離れられない人間だった。
──住宅街を離れた山の中。
静まり返ったトンネルに、コツコツと革靴の音を響かせる。
これを履いている限り、彼らは隠れられない。
ここに、いる。
冷えた空気の中に漂う、濁った気配。
トンネルは溜まりやすい。
空の輝きが届かないから。
等間隔に設置された非常口。
そこは彼らの住処だ。
すると暗がりのドアから、ぬっと人影が出てきた。
ドアは、閉じたまま。
私は歩きながら、声を響かせた。
「こんばんは。少々お話を聞かせていただいても?」
黒い長髪の女性は、ぎこちなく首を回してこちらを向いた。
トンネルのライトが、急に明滅する。
「わ、わたしが、見えるのですか?」
その瞬間、頭上の灯りだけがチカッと強く光った。
私はいつも通り口角をにっと上げる。
「ええ。見えますし、聞こえます。
はじめまして、私は累と言います。お名前を伺っても?」
すると女性は、ギギギギと音が鳴るかのように首を震わせながら、ゆたりと歩み寄ってきた。
革靴が、じりと道路を削る。
女性は、ふっと笑った。
「その靴、心地よい音が響きますね。
私は真希と言います。
──このトンネルに……囚われてるみたいです」
近くで見ると、まだ幼さの残る顔だった。
声も、高校生くらいに聞こえる。
私はバレないようにかかとを道路におろした。
「いつ頃からここにいるか、覚えていますか?」
真希は俯いたまま首を横に振った。
その顔はどこか怯えていた。
「……わからないです。いつの間にか、ここにいたので」
そう言いながら、真希は両手の指を擦り合わせた。
その瞬間、足元にどろりとした風が通り抜けた。
トンネルの奥から、腐敗した臭いがわずかに届く。
私は真希を腕で制して、トンネルの奥に進んだ。
「少しだけ、そこで待っていてください」
頭上のライトがブザーのように鳴り響く。
黄色い光は少しだけ、赤く染まった。
すると黒い染みが端からゆっくりと広がった。
濡れた影のように地面を這い、私の足元へと集まってくる。
黒い染みは、人の未練が固まったもの。
それは人の笑いを奪う。
「──おいていけ」
低い声が、トンネルの奥から滲み出た。
黒い染みは、獣のような速さでこちらへ伸びてくる。
私はトンネルの壁を強く蹴った。
──カツーン。
革靴の硬い音が、トンネルの奥まで突き抜ける。
だが染みは止まらない。
私の足元へと波のように押し寄せる。
「おいて、いけ」
私はその場で足を踏み鳴らした。
カツ、カツ、カツン。
甲高い音が連続して響く。
真希は、不思議そうにこちらを見ていた。
「あれ……累さん?
さっきから、いったい何をしているのですか?」
黒い染みが、私の足首を舐めた。
ぬるりとした感触が、靴の中まで染み込んでくる。
何本もの手の形が、影の中で蠢いていた。
指が、こちらを掴もうと“数を増やしていく”。
私は頭をかきながら、無理やり笑った。
「いやあ、その……最近タップダンスにハマってましてね」
さらに強く踏み鳴らす。
「トンネルって、その……よく響くじゃないですか」
真希は一瞬きょとんとしてから、吹き出した。
「あはっ……」
黒い染みが、私の指に飛びついた。
ぐしゃり。
指先に焼けるような痛みが走る。
私は構わず足を鳴らす。
カツン!
カツン!
──カツン!
「初対面で急にタップダンス!?
トンネルは、よく響く!?
あはは、そんな真面目な顔で当たり前のことを!」
黒い染みは腕まで這い上がってきた。
「──指をくれ」
足が痺れ、靴のリズムが一瞬崩れる。
──まずい。
私は無理やり体を回し、ぎこちないステップを踏んだ。
カツ
カツカツ
カツン!
両手まで使って、大袈裟にポーズを取る。
「ほら、こういうのもあるんですよ」
ついに真希は腹を抱えて笑い出した。
「あはははは!!」
その瞬間だった。
黒い染みが、怯えたように揺れた。
トンネルのライトが一斉に明るくなる。
黒い染みが、じゅっと音を立てて蒸発していく。
腕に絡みついていた影も、煙のように消えていった。
「あははは……!」
真希は涙を拭きながら笑い続けている。
トンネルの黒い染みは完全に消えていた。
私は肩で息をしながら、壁にもたれた。
「はぁ……はぁ……危なかった」
真希は私に向けて手を叩きながら笑っている。
「累さん。とてもよかったです。その、急に始まったタップダンス。ふふふ」
すると彼女は急に目を大きくさせた。
あれっ、と不思議そうに肩を回し、その場で足踏みをした。
「身体が、とても軽い。
──笑っていたら……私、開放されたみたいです」
ライトの明かりは、元の照度に戻っていく。
「真希さん。あなたはもう、自由だ。
地縛を解くこと。それが私の仕事です」
真希は顔の表情を見失ったように見えた。
「この靴はね。生きている人間の音を強く響かせるんです。
“音は境界を作る”。だから、あいつらは近づけない。
笑いこそが生きた証です」
真希は驚きながらつぶやいた。
「私、まだ……笑えたんだ。
ここでずっと、ひとりでした」
真希は、ぺこりと頭を下げると、何かを思い出したようにトンネルを去っていった。
伸縮のない影。鳴らない足音。
それがないだけで、人の存在は虚ろになる。
非常口の表示灯は鈍く光っている。
暗がりは未練を溜めやすい。
これで少しでも明るく、なるといいのだが。
ひんやりとした静寂。
冷たい風がトンネルを駆け抜けた。
その風は私の周りで渦を作る。
少しだけ、トンネルが冷えた。
「まだ、役目を果たさないのか?」
嫌味な声がまた、背中から聞こえた。
「いるなら手伝ってくださいよ。結構危なかったんですから」
背中にバンッという痛みが走った。
「それができりゃ……俺だけで解決してる」
笑えなくなった人ほど、この街に縛られる。
だから私は、笑わせる。
この街は、もう少しだけ明るくなれる。
──先輩はまた、この街に潜む黒い染みを探しに消えた。
街が、淡く輝く。
ビルの隙間から朝日が覗いた。
温かい日差しによって影が伸びていく。
全身に鳥肌が立つ。
ゆっくりと光に溶けていく。
それがとても心地いい。
──コツン。
その音は、まだ終わっていなかった。




