中身と外身
本を読むときにどのように読むだろうか。本でなくとも何かを認識する時に。本の内容を重視するのか、それとも本と本の関係を重視するのかで世界観が全く違ってくるだろう。この二者はおそらく全く別の世界が見えているのだと思われる。ねじれていて接点が無いようにも思える。同じ本を読んでいるのにここまで違うことがあり得るのだろうか。
本の内容を重視する場合、フィクションと現実の境目がはっきりしている。ここまでは現実、ここからはフィクションとしっかり区別して読んでいる。そして本を読むことでフィクションの世界を新しく生み出し、そこに飛び込む。現実世界の自分をフィクションの世界の主人公に投影し、変身する。一旦飛び込んでしまえば、もうそこが現実世界なのである。外の元の現実世界は忘れ去られ、フィクションの世界こそが現実となる。いわばもう一つの現実世界として機能しているのである。入れ子構造になっている。現実の中にフィクションがあるのだ。現実がしっかりと支えているために、安心してフィクションの世界に飛び込むことができ、自由自在に戻ってくることもできる。現実で辛いことや嫌なことがあった時にフィクションの世界に逃げたり、隠れたりすることもできる。多かれ少なかれそのような場所はほぼ全ての人が持っているだろう。意識しているかしていないか、積極的か消極的かはさておき。万人が退去してくる場所、これを傷と呼ぶことにしよう。傷が癒えることは決してない。ここで体験したことは事実である。その人にとって。なぜならここはもう一つの現実なのだから。転んだらやっぱり痛いし、りんごは変わりなく美味しい。季節は過ぎゆくし、もちろん止まることも戻ることもありうる。傷は癒やされることはないが、忘れ去られる。傷が痛むのなら傷へ逃げ込んでしまえ。豊かな世界を全身で享受している。その身で持って体験しているのだ。ありえたはずの世界を。失われた世界を。二度と現れることのない美しい世界を。空虚で歪んだ物悲しい世界を。傷に逃げ込むこと自体は悪いことではない。均衡を保つためには必要なことだ。用法容量を守りさえすれば。
一方、本と本の関係を重視する場合、本の中身を覗いてはいけない。見るとしても精々背表紙ぐらいだ。なぜ見てはならないのか。それは司書だからだ。本を司る者だからだ。誘惑に駆られて地べたに寝そべり本を読み耽っている司書を見たことがあるだろうか。おそらくないだろう。一人ぐらいはいるかもしれないが。鶴の機織りを覗いてはいけないのだ。そして、本がどのような立ち位置なのかをざっくりと把握するのだ。ジャンル、年代、その中でも枝葉で言えば先端に近いのか、末端に近いのかを他の本との関わりから汲み取るのだ。世界に100冊しか本がないとしたらその中でどのあたりに当たるのかを推測するのだ。そしたら本棚にそっとしまっておく。再び日の目を見る時が来るまで。このような者らにとっては現実=フィクションなのだ。両者は不可分に混じり合っている。何せ現実世界にはありもしない本と本の繋がりを見出すことなぞフィクションの作用そのものではないか。本の中身に豊かな世界が広がっていようがいまいがやることは変わらない。分からないことは分からないのだ。駄々をこねたところで同じこと。司書にとっては、ひょっとしたらフィクションが現実を作っているのかもしれない。語りえなかったもの、語られなかったもののために働いているのだから。そうでなければなぜ。
現実とフィクションを交えた世界観を入れ子構造という比喩を借りて表現したが比喩はあくまで比喩であり、ちっとも近づいた気がしない。むしろ離れていっているのではあるまいか。そうはいっても仕方がない。手持ちのもので何とかするのだ。
では無駄足になるかもしれないが別の見方をしよう。世界を一つの細胞とみなす。本も比喩なら中身と外身も比喩。本が世界の要素、中身と外身が境界の内外を指すとしよう。中身(現実)を重視する者から見た世界は膜が現実、網が要素、核がフィクションまたは現実である。現実から始まり、本という世界の要素ないしは変換装置を伝ってフィクションへやって来る。しかし、このフィクションというのはあくまでももう一つの現実という側面を色濃く反映している。そして帰る時も同様である。現実に始まり現実に終わる。どこまでいっても現実。ここでいうフィクションとは文字通り作り話なのだ。軽い。軽やかだ。白い羽が生えているみたいに。
一方、外身 (フィクション)を重視する者から見た世界は膜がフィクション、網が現実、核が要素またはフィクションである。フィクションに始まり、現実を経由してフィクションに終わる。核と膜は繋がっているように思われ、同じものであると信じている。それが錯覚であるなどと誰が言えよう。しかし、そっくりそのまま同じことが誰にだって言える。そう。やはり重すぎるのだ。バランスが悪い。シーソーも片側に傾いたまま。胃がもたれる。なによりフィクション自体がそのようなことを望んでいないのかもしれない。
ねじれているだけで見ているものは同じだという月並みな表現に逃げることもするまい。これらは交わっていないのだから。始点も違ければ終点も違う。しかし、奇妙な対称性に気づくだろう。ねじれているのに対称なんてことがあり得るのだろうか。ねじれたドーナツ。いや、ねじれているからこそ対称なのだ。無論それが対称でなくとも美しいだろう。そう言える気概と胆力を持ち合わせたいものだ。




