[短編] 新米聖女と元王子様
(母親と幼い娘の会話)
ある農村のありふれた農家。まだ若い母親が幼い娘に語り聞かせているのは、この世界における神話。
「善神ソル・ゼルム様と善なる神々に導かれて、人間たちはエルフやドワーフたちとも仲良くして、それはそれは繁栄していたの。でもそれを妬んだ悪神アルスナムが、悪なる神々と魔族たちを率いて酷いことをしたの」
それは人類社会における共通した考え方だ。人類は善。魔族は悪だと。
「妬むって、なーに? それに酷いことってー?」
「人間たちが羨ましい、その繁栄を自分のものにしたいって思ったの。それで大勢の人たちを殺したの」
「みんなで仲良くすればいいのに……」
「そうね。あなたも人を妬んでは駄目よ? みんなと仲良くしなさいね?」
「はーい!」
それは人間社会における一般的な道徳だ。それを実践できている人間がどれだけいるのかは別として。人間には悪い心もあるものなのだから。
だが人類側で語られているその神話は否定しようのない事実なのだろうか。魔族たちの側から見たら、また別の側面がある。
(神々の時代、ある神と神の会話)
「我が友よ。考え直してくれないか?」
「くどい。我が友よ。我はもう決めた」
「だが、人間たちを間引きするなんてあまりにも乱暴じゃないか」
「お前も知っているだろう。人間たちの暴虐を。知恵ある者たちは我慢を強いられ、言葉を発することができない生き物たちは搾取され滅びに晒されている。もはや猶予はない」
人間たちは繁栄を極めている。他の種族や全ての生命を踏みつけにして。それを容認できないと考える神々と種族もいるのだ。彼らの忍耐はもはや限界まで達している。
「『人』の本性は善だ。もちろん人間たちも。私たちが根気よく諭せば、人間たちも理解してくれるはずだ」
「人間にも善なる心を持つ者たちがいることは認める。だが人間の本性は悪だ。その人間たちの中にも時折善なる者が現れるに過ぎぬ。現に人間たちは自分たちを擁護しているエルフやドワーフたちまで抑圧しているではないか」
人間にも己らに否があると考え、調和をもってこの世界に生きようとする者も大勢いる。己らの欲望を最優先し、他者などどうでもいいと振る舞う人間も数多くいる。
「我が友よ。何故理解してくれないんだ……人間たちも必ず自分たちの過ちを認めてくれる」
「お前こそ何故理解しない。お前は諭せば人間たちも理解すると言うが、今まで何度我ら神々が諭したか。一万か? 一億か? もっと多いであろう。人間たちが過ちを認めることは期待できぬ。全てが人間たちの欲望に飲み込まれ、人間たちを含む全てが滅ぶ前に、動かなければならぬ」
彼らは何度も対話してきた。そのたびにもの別れに終わった。
「確かに私の努力不足は認めないといけない。人間にも悪心を持つ者たちもいることも認めないといけない。だが、人間の大多数を殺し尽くすなど、神のすることじゃないじゃないか」
「だから我もこれまで我慢してきた。その結果人間たちは際限なく増長していった。このままでは人間たちの欲望は神々すらも飲み込み、自滅へと向かうであろう」
「我が友よ……だが人間たちを間引くなんてあんまりじゃないか……」
「くどい。我が友よ。我はもう決めた」
それが、互いを友と認める二柱の偉大なる神の、決定的な決裂であった。
神々が治める光に満ちた時代。それは神話の彼方にある。神々はあるものは滅び、あるものは遙か長き眠りについたとされている。繁栄を謳歌した神々の時代における人類の栄光の痕跡は既にほとんどが失われ、強力な魔法で守られた一部のものが各地に遺跡として残るのみ。世界は人類と魔族たちが否定し合い、互いを滅ぼそうとすることを数千年も、あるいはそれ以上続けているとされている。
この地は五百年にも及ぶ歴史を誇る大国、チェスター王国の統治下にある。そこに隣接するそれ以上に巨大な国、勝利をその名に冠するヴィクトリアス帝国は突如チェスター王国に服属を要求。チェスター王国は友好国として付き合ってきた帝国の豹変に困惑し、宮廷内も混乱に見舞われつつも、要求を拒否した。
その返答は苛烈なものだった。すでに侵略の準備をしていた帝国は即座に侵攻を開始。ほんの二ヶ月程度でチェスター王国の王都フルムは包囲された。
その日、王宮では最後の抵抗をしようと、王は四人の王子と廷臣たちの前で宣言した。だがそれに異を唱える者がいた。
王は叱責する。
「アルバート! この期に及んで臆したか!? 我らは栄光あるチェスター王家の誇りを示さねばならぬ!」
「父上。この期に及んで包囲軍に突撃して死んでも無意味と申し上げております。我らチェスター王家の者の命は、民の安全を要求するための交渉に使うべきと考えます」
「民など、我が王国が滅ぶ時はことごとく殉じるのが責務であろう!」
「父上は考え違いをされておられるようです。善神ソル・ゼルムの教えと、英雄王ローレンス・チェスターの遺訓をどうお考えですか」
一応は大人とされる十五歳にもなっていない、幼さを残しながらも整った容貌を持つ第四王子の淡々とした言葉に、王は内心で怯んでいた。怯んだことをごまかすためにも、王は怒りを露わにするしかなかった。
「ええい! 臆病者に用はない! 下がれ!」
王は第四王子を嫌っていた。この小賢しく、そして気に障ることを無遠慮に言う王子を。気の迷いから卑しい身分の女に産ませてしまったこの王子を。
アルバートの一番上の兄、王太子エリオットが格調高い口調で言う。
「アルバート。この場を去るがいい。お前は所詮下賤の女から生まれた卑しい身。お前には王家の誇りが理解できぬのであろう」
その王太子の言葉は廷臣の立ち並ぶ謁見の間にどこか空虚に響いた。
「父上。あなたは王国を滅ぼした暗君です。我らは王家の者として民に累が及ばないように最大限のことをする義務があります」
アルバート王子はチェスター王国は既に滅びたものと過去形を使った。表情を変えることもなく、その言葉はあくまで淡々としている。父王を糾弾する響きもなく、ただ事実を無感動に述べているように。
「下がれと言っているであろう! エイデン将軍! アルバートをつまみ出せ!」
「エイデン将軍。お前も父上の愚行に付き合うのか? 包囲軍に突撃して死んだところで、害はあっても理も利もないことは私よりもお前の方がわかっているだろう。無為無策にただ時間を過ごしていた父上より、皇帝の方が比較にならないほど統治者として賢明であろうことも」
「……」
王の命令を受けたエイデン将軍は、王子の容赦ない言葉に動きを止める。将軍はアルバート王子の教育役と後見役を務めていた。王宮にはエイデン将軍本人と将軍の周囲の者しか味方がいないこの王子の。
「帝国が魔王軍からチェスター王国の民を守るために侵攻すると通告してきたのも、単なる口実ではないのだろう。お前たちが孤軍奮闘したところで、帝国の援軍を受けなければ魔王軍から王国の民を守ることはできないと言っていたのはお前だ」
「……」
「お前ならば、帝国に降伏すれば配下の将兵たちと共に厚く用いられるだろう。お前がするべきことは、この腐りきって命脈の尽きたチェスター王国に殉じて無意味に死ぬことではない。帝国に仕えてでも、まもなく滅ぶこの王国の民を魔王軍の侵攻から守ることだ」
「……」
王国の滅亡は、王国自体が招いたものだとアルバート王子は考えている。たとえ帝国に滅ぼされなくとも、王国は遠からず魔王軍に滅ぼされるであろうと。
エイデン将軍も今回の帝国の侵攻にはなすすべもなかった。帝国領から王都フルムに至る土地を治める王国の貴族たちはほとんどが帝国に寝返り、王国の将軍にも帝国に寝返る者たちもおり、迫る帝国軍相手に迎撃に出ることすらできなかった。
こんな短期間で王都を包囲されてしまったことが、チェスター王国の弱体化ぶりを如実に示している。大部分の兵は弱い上に、王の下で特権を享受していた貴族たちも王国に未来はないと見切りをつけたのだ。この謁見の間にいる貴族たちも、帝国に寝返る機会を逸したと後悔しているのが本音だろう。それどころか機会があれば今からでも裏切ろうとしている者もいるだろう。
そして王も臣下たちの空気には気づいている。だから王は自暴自棄になっているのだ。
「帝国では民を慈しむ公正な統治が為されていると、建国の理想を忘れ去り不公正と非道がまかり通るチェスター王国の現状を憂いて、私に皇帝を見習うようにと言ったのもお前だ」
「……」
エイデン将軍からすれば、王は関心はできないものの悪逆と言うほどでもない凡庸な君主だ。だが貴族たちにやりたい放題をさせ、そして魔王軍から国を守ることもできない王は暗君であるというアルバート王子の言葉も、正しいと認めざるをえない。
『正解』は、アルバート王子が主張するように帝国に降伏することなのだろう。皇帝が非道な輩なら、当然降伏などもってのほかだ。だが皇帝は身勝手な野心に駆られた愚劣な統治者ではないと将軍は考えている。
「ここでお前と騎士団が父上たちと共に死ぬのは無駄死にであるどころか、有害な結果になる。父上と兄上たちが死にたいと言うなら、お前たちを道連れにせずに勝手に自決すればいい」
アルバート王子は父王と兄たちを冷然と突き放した。そこに親類に対する情愛も王に対する敬意も一切感じられなかった。エイデン将軍の顔をまっすぐに見ていたアルバート王子は、父王と兄たちが微妙に表情を動かしたことに気づかなかった。
「……アルバート殿下。申し訳ございません。私は王の臣なのです」
エイデン将軍は王の言葉には逆らえない。将軍はチェスター王国、そして王に忠誠を捧げているのだ。将軍にとって、王が冥界に赴く供をせよと命じるならば、それに従うのが彼の義務なのだ。
そして将軍はアルバート王子を連れ出そうとする。せめてこの王子は生き残らせるために。王国を再起する希望を残すためにも。
「そうか。お前を無意味に死なせたくないのだがな……掴まなくて良い。私は自分の足でこの場を去る」
「……」
アルバート王子はかすかに感情を表した。王子も後見役のエイデン将軍を尊敬し、慕っているのだ。王子もエイデン将軍には死んでほしくなかった。
そしてアルバート王子とエイデン将軍は謁見の間を出た。
「ヘンリーをアルバート殿下におつけいたします。民をお願いいたします」
エイデン将軍にできることは、我が子を王子につけることだけであった。ヘンリーはアルバート王子と兄弟同然に育ち、一歳年上の王子を兄のように慕っている。この王子ならば、王国の民を守ってくれるであろう。無意味に死にに行く無責任な自分とは違って。
「民のために動くのが、王家に生まれた私の義務だ」
アルバート王子は気負う様子もなく淡々と答える。周囲のほとんどが敵であるこの王子にとって、民のために動くのは善意や正義感によるものではなく、義務でしかないことを将軍は理解していた。この王子が気を許す相手は、将軍とヘンリーを含むごく少数の者だけだった。この王子の絶対的な味方としてせめて息子をつけてやりたかった。
将軍はアルバート王子の心を救うことができなかったことを悔いに思っている。この王子の心は絶望に凍てついている。生まれと育ちから人一倍悪意に敏感になってしまったこの王子には、王も上の王子たちも貴族たちも民衆も、ほとんどの人間は下劣な妖魔共と同列の唾棄すべき存在に見えている。
(善神ソル・ゼルムよ……願います。アルバート王子の心が救われることを……)
いつかこの王子の心を救う者が現れることを、エイデン将軍は善神ソル・ゼルムに祈った。皇帝もまだ大人にもなっていないアルバート王子を殺すほど非道ではないであろう。生きていれば、王子にも救われる時が来るかもしれない。
将軍はこの場を去る王子の後ろ姿をずっと見送っていた。
アルバート王子が退室し、廷臣たちも出陣準備のために退室した謁見の間には、王と三人の王子が残っている。
王の独り言のような言葉が響く。
「アルバートは何度も余に諫言した。あやつは正しかった。余にはそれを受け入れる度量がなかった……」
「父上。我らは死してチェスター王家の誇りを守り、アルバートは生きて王国の民を守る。それで良いではありませんか」
「いつか冥界で再会する時、アルバートはまた私たちを叱るのでしょうけどね」
「ええ。私たちは手の施しようのない愚か者だと」
王も上の王子たちも知性が劣悪なわけではない。彼らも理解していた。自分たちは間違っているのだと。だが彼らには自分たちの過ちを認めて行動を改める勇気がなかった。アルバートが正しく、自分たちが間違っていると理解してしまったからこそ、彼らは感情的に反発した。彼らは過ちを理解しても改められない自分たちこそが愚か者であることがわかっていた。
「皇帝もアルバートまでは殺さないでしょう。アルバートならば、帝国傘下としてであってもチェスター王国を再興できるかもしれません。私たちが生き残っても、足を引っ張ることしかできないでしょう」
一番上の王子、王太子エリオットは、王の宣言にアルバートが反対した時に内心ではほっとしていた。これならばチェスター王家の血筋を残すことができると。彼はそろそろ王太子妃を迎えようと考えていた頃で、妃も子もいない。自分は、そしてアルバートを除く彼の弟たちも、亡国の王子として生きることにも帝国傘下として王国を残すことにも耐えられそうにない。だがアルバートならば耐えられるであろう。だから彼はあの場からアルバートを追い出しにかかった。王が無理にアルバートにも出陣を命じてしまわないように。彼は王のことを必ずしも信じてはいなかった。
「チェスター王国は、余を含む王家も貴族たちも腐敗した者たちは排除されなければならないのであろうな……アルバートの言うように、余は暗君なのであろう。余がエイデン将軍たちを道連れにしようとしていることも、愚行なのであろう。だが、余はこれ以外の道を選べぬ……」
「できるだけ多く、腐敗した者共も道連れにして行きましょう。せめてアルバートが今後やりにくくならないように」
「ええ。それがアルバートを邪険に扱ってきた愚かな私たちにできる唯一の償いでしょう」
彼ら自身は、民にとって悪逆だったと言うほどではない。だが彼らは自分たちを取り巻く貴族たちの不正と非道を知りながら見逃していた。それをどうにかしようとすれば、貴族たちは連合して王家に歯向かうであろうことが怖かった。そして彼ら自身、取り巻きたちに囲まれて己の権威を確認できていたことに喜びを感じていたことも否定はできない。貴族たちも自分たちに絶対の忠誠心を持っていたわけではないことには気づいていたのだが。
彼らも心のどこかでアルバートのことを認めてはいた。死を覚悟することによって、彼らは初めてそれを口に出すことができた。アルバートの前で口に出すことはできなかったのだが。たとえアルバートに謝っても、今更許されるわけもないことを彼らはわかっていた。それでも謝っても、アルバートは感情を動かされることもなく冷然と聞くだけであろうことも。
「王国の民はアルバートに任せるとしよう。愚かな王である余は退場しなければならぬ」
「私も父上にお供します」
「正直に言うと、死ぬのは怖いですけどね」
「あっはっは! 高慢で嫌みたらしい兄上も死は怖いですか! 私も死ぬのは怖いです!」
「はっはっはっは! 然り」
「ははは! 死ぬのが怖いのは私だけではないと知って、安心しました」
彼ら四人は一斉に朗らかに笑う。彼らも王族である以前に人間なのだから、死ぬのは怖い。それが本音だ。
ここに来て彼らは、アルバートも含めて自分たちは王家の一員である前に一つの家族であるという連帯意識を感じていた。それは初めてかもしれない感情だった。
ひとしきり笑い合って、王がこぼす。
「余はもっと早くそなたらともアルバートとも向き合わなければならなかった……手遅れになってから気づくとは、余もつくづく愚かよな……」
「それは我らもです。唯一、我らに対する情を失ってしまったアルバートのみが、諫言という形であっても我らと向き合っていたのは皮肉なものです。そしてアルバートに我らに対する情を失わせたのは我ら自身でした……」
王家という特殊な家族では、家族の情など顧みられないこともある。だが死を覚悟した彼らは最後になって後悔していた。もっと早く家族で向き合っておけば良かったと。アルバートがエイデン将軍には情を示したのに、自分たちには一切の情を示さずに冷然と切り捨てたことには、彼らはショックを受けていた。
王は玉座に座ったまま腕を掲げる。三人の王子たちはその様子を不思議そうに見ている。
「我、民を守る者なり。我が祖ローレンス・チェスターよ。我にそのお力を貸したまえ」
その王の言葉に、豪奢な玉座の背から何かが浮かび上がる。そして王は出現した一振りの剣をその手に取る。露出している柄の部分もその剣が収められた鞘も一応の装飾はあるが、わざわざ玉座に隠されていたとは思えない質素なものだ。
「父上。その剣は?」
「英雄王の宝剣だ。これをアルバートに託そうと思う」
「それが……アルバートならば、その剣に恥じぬ行いをしてくれるでしょう」
「うむ。アルバートはエイデン将軍を慕っている。将軍から渡させよう。父としてそなたらにもアルバートにも何もしてやれなかったのは、今更ながら悔やまれるな……」
「父上……」
その剣は、歴史ある大国チェスター王国の宝剣と言うには地味だ。チェスター王家初代ローレンス・チェスターは、王位に就く前は一介の田舎貴族だった。彼が振るっていたその剣も華美ではなく実用性を重視したもので、付与された魔法も特別と言うほどのものではない。
その剣はチェスター王国を守護するものとして玉座に隠され、王のみにその所在と取り出し方が伝えられてきた。遙か昔はその剣も王国の象徴として重要な儀式では取り出されていたのだが、見栄えがしないといつしかそれが人目に触れることはなくなった。
そして王と三人の王子は祈りを捧げる姿勢を取る。
「善神ソル・ゼルムよ。伏して願います。我が子アルバートに良き未来があらんことを」
「願います。我らの弟、アルバートに良い未来があらんことを」
「願います。私たちがその性格を歪めてしまったのであろうアルバートの心が救われることを」
「願います。アルバートに幸福があらんことを」
そして彼らは善神ソル・ゼルムに願う。一人残されるアルバートの幸福を、真摯に。自分たちは無責任に死に行く。自分たちはもう許されようとは思わないし、許されないだろう。ならば自分たちは悪として死のう。だがせめてアルバートには幸せになってほしかった。
王と三人の王子は降伏を良しとせず、騎士団と共に大軍に向かって突撃、壮烈な戦死を遂げた。絶望に震える王都の人々を、成人していないという理由で王宮に残された第四王子アルバートが混乱を収め、一歳年下の従者たった一人を連れて包囲軍の本営に赴き、降伏を申し出た。
「私はチェスター王国第四王子アルバート・チェスター! 私の命と引き換えに、チェスター王国の民に非道を働かないことを求める!」
大人にもなっていない王子の堂々とした態度に感服した包囲軍の将軍は降伏を認め、王都への攻撃をしないこと、そしてチェスター王国の民にも非道な行いをしないことを約束した。
王都はそれ以上の抵抗はせずに開城し、唯一残されたアルバート王子は帝都に移送された。これをもってチェスター王国は滅んだ。
それから十年ほどがたつ。アルバート王子の現在の所在は不明。帝都の一角に幽閉されているとも言われている。
かつてのチェスター王国の民が旧王国領と呼ぶ地域。ヴィクトリアス帝国との国境だった場所からそう離れていない地方の、森に切り開かれた街道の付近。
そこにいるのは美しい少女だ。明るい金色の髪と美しい青い瞳を持つ、大人と呼ぶにはまだ少し早い少女。素朴ながらも仕立ての丁寧な服は、裕福とは言えないまでも貧しい出ではないことを想像させる。その口には猿ぐつわを噛まされ、後ろ手に縛られており、目に恐怖の涙を浮かべている。
「まだガキだが、いい女だぁ。久しぶりの女だぁ。金はなさそうだが、楽しませてもらおうぜぇ」
「親分。俺たちにも楽しませてくれよぉ」
「おう。まずは俺だぁ」
少女を下卑た笑いを浮かべた男たちが見下ろす。野盗だ。その数九人。野盗たちは周囲の警戒もせずに、少女に対して獣欲を向けようとしている。
野盗の頭目が少女に手を伸ばした時、その声は木々の間に響いた。
『光壁よ、守れ』
少女も野盗たちも理解できない言語のその言葉と共に、少女を守るように光の壁が出現する。
「な、なんだ!?」
「敵か!?」
「まさか魔法か!?」
野盗たちは事態を理解できずに狼狽する。それでも自分たちに危機が迫っていることは察し、身につけた剣や鉈を抜く。木に立てかけてあった弓と矢筒に手を伸ばす者もいる。
そこに木々の間から一人の男が近づいて来た。冒険者らしき剣と盾を携えた男。動きやすさを重視したのか、騎士のような全身を覆う重厚な鎧ではなく、要所を金属板で補強した鎧を纏っている。男が持つ剣は見るからにただの剣という様子ではない。その髪は黒く、瞳は灰色だ。それは端正な青年だった。
絶望に沈んでいた少女の目に希望が宿る。助けてもらえるのではないかと。
「なんでぇ。たった一人かよ」
「親分。あいつ、いい武器を持ってそうですぜ。殺して奪っちまおう」
野盗たちは敵が一人ということに安心して、笑いを浮かべる。
少女は希望から一転、不安に震える。もしかしたら自分だけではなくあの青年も死ぬかもしれない。自分が乱暴されて殺されるであろうことはもちろん怖いが、自分のために誰かが死ぬことも怖い。少女は善神ソル・ゼルムに祈る。青年の無事を。青年が無事なら自分も助かるだろうという打算など考えもせず。
「降伏しろ。そうすればお前たちは生かして街の衛兵に引き渡す」
「はっはっはっは! 傑作だぜ! たった一人で俺たちに降参しろだってよ!」
青年の無感情な言葉に、頭目は大笑する。自分たちが勝つに決まっている、そう思うからこその笑いだった。手下たちも追従の笑いを浮かべる。
青年はそれを気にするそぶりを見せない。
「降伏しないならば死ね。『氷槍よ、貫け』」
怒りどころか冷ややかさすら感じられない、淡々とした声。
青年の前に先端が尖った多数の氷塊が出現し、野盗たちに向かって飛翔する。頭目と七人の手下たちは、自分たちが思い違いをしていたことに気づかないまま、武器を構えることもできずにあっさりと死んだ。青年の放った氷の槍に貫かれて。
少女は恐怖に目をつむる。その光景はあまりにも惨たらしく見えた。
野盗は一人だけ残っている。青年は恐怖に動きを止めた残り一人に剣を突きつけ、言葉を発する。
『汝、心を晒せ』
その言葉の意味も、少女も野盗の生き残りもわからなかった。少女はおそらくそれは魔法の詠唱なのだろうと思った。
「ひっ……」
「お前たちに他に仲間はいるか?」
「い、いねぇ」
「お前たちは数日前に商人の荷馬車を襲ったか?」
「あ、ああ。馬車と荷物は俺たちのねぐらに置いてある。ば、場所を教えるから、命は助けてくれ!」
「それはどこだ?」
「す、すぐそこの小川を遡った先にある、使われなくなった猟師小屋だ」
「お前たちはその少女の他に誰か捕まえているか?」
「い、いねぇ。た、頼む! 命は助けてくれ! 俺たちも村が妖魔共に襲われてこうしないと生き残れなかったんだ!」
「お前たちは人を殺したか?」
「……」
「お前たちが襲った荷馬車の者たちはどうした?」
「……」
「ここで殺した者たちはどうした?」
「……」
その沈黙と、恐怖に怯えたその野盗の表情が、心を読むことはできない少女にも事実を明らかにさせた。
「自分の不幸をもって、無辜の他人を殺していい理由にはならない。死ね」
青年は感情を表すこともせず、淡々と最後の野盗を斬り殺す。野盗は軽量な皮鎧を纏っているが、鎧など無かったかのように切り裂かれ、血を吹き出して倒れ伏す。それは青年にとって人を殺すという禁忌的な儀式ではなく、作業でしかなかったのだろう。青年が持つ剣は、付与されている魔法によるものか着いた血が霧散する。
青年が少女の前に立つ。少女は青年が怖い。凶悪な野盗相手とはいえ、表情も変えずに九人もの人を殺した青年が。当然青年も少女が自分を見て怯えているのは気づいているだろう。だが青年は表情を変えない。いつしか少女を守るように囲っていた光の壁も消えていた。
『汝、人なりや? 汝、心を晒せ』
青年はまた少女にはわからない言語の言葉を二回発する。魔法だろう。少女はなぜ自分が魔法を使われたのか理解できなかった。少女は混乱していた。自分は本当に助かったのだろうかと。
そこに草や枯葉を踏む重い足音、そして金属がこすれ合う音が聞こえて来た。少女はその音を初めて聞いたが、それは金属製の鎧を着た者が動くと出る特有の音だった。
姿を現したのは、鉄の塊のような重厚な鎧に身を包んだ偉丈夫だった。この偉丈夫も魔法剣士の青年と同じくらいの歳に見えた。
現れた偉丈夫が声を発する。
「バート。俺を待たずに終わらせたのか? その子がいたから動いたんだろうけど」
「ああ。こいつらが目的の賊共だった。この少女も捕まってはいたが怪我はないようだ。もう少し遅かったら危うかったが」
少女を助けた魔法剣士の名はバートというようだ。
少女はこの青年たちが自分を助けてくれたことは理解した。まだ猿ぐつわを噛まされ、後ろ手に縛られたままで、礼を言おうにも声を出すことはできなかったけれど。
「ヘクター。周囲の警戒を頼む。この賊共に他に仲間はいないようだが、一応だ」
「わかった。そいつらの心は読んだんだな? その子も」
「ああ。この少女は単なる被害者のようだ」
「まあこの状況でその子が敵とは思えないけどな」
偉丈夫の名はヘクターというようだ。指示されたヘクターという青年は油断なく辺りを警戒する。
バートという青年は少女も敵の恐れがあると警戒していた。保護対象と思っていた相手が実は敵という事例はたまにある。
少女は自分の心も読まれたと知り、自分も疑われたことが悲しかった。
「君の拘束を解く。動かないでくれ」
バートは剣を鞘に収め、少女の前に膝をつく。そして少女の猿ぐつわを外し、手を縛っている縄も解く。怯えている少女に対し、バートは安心させるために微笑みを浮かべることも優しい言葉をかけることもなく、淡々と作業をする。
それでも少女は勇気を振り絞って声を出す。
「あ、あの……た、助けていただいてありがとうございます……」
その声はか細く、途切れ途切れだ。
バートという青年と視線を合わせ、暗い影を感じさせる灰色の瞳を見たら、ふと少女の心に浮かぶ言葉があった。
「王子……様……?」
少女はなんで自分がこんなことを言い出したのか、自分でも理解できなかった。
バートはピクリと眉を動かす。
「は……はっはっはっは! バート、あんたが王子様だってよ!」
「私たちは単なる冒険者だ」
「あ……す……すいません……」
少女は恥ずかしさに声も消え入りそうになる。
周囲の警戒を解かないままのヘクターの笑いと言葉に、ほんの少しのわざとらしさがあることに、少女は気づかなかった。
「あの……私はホリー・クリスタルと言います。助けていただいて、本当にありがとうございます」
「私は魔法剣士のバートだ。私にとっては礼を言われるほどのことではないが、君にとってはそうではないだろう。その礼の言葉は受け取っておこう」
「俺は見た目通りの戦士のヘクターだ。バート、その子、手に縄が食い込んで傷ができているじゃないか」
「そうだな。治そう。『水精と地精よ、癒やせ』」
「あ……ありがとうございます」
ホリーはバートはひねくれた性格の人なのかもしれないと少々失礼なことを思った。でもバートが魔法を使って、傷がきれいに癒えて痛みも消えたことには素直に感嘆し、感謝した。魔法に詳しくない彼女は、この感想も心を読まれているのか読まれていないのかもわからなかった。
「あ……すいません。私、自分でも癒やせたのに……」
「む? 君は見習い神官か何かか」
「はい……つい最近神聖魔法を使えるようになって」
「そうか。それは余計なことをしたかもしれない。神聖魔法を使える神官にとって、他人から癒やされることは屈辱と思うかもしれない」
「い、いえ。そんなことはありません。ありがとうございます」
ホリーは恥じ入るが、彼女が忘れていたのも無理はない。彼女はつい最近まで魔法など使えないただの村娘だったのだから。彼女は後で落ち着いたら、善神ソル・ゼルムに頼もしい冒険者たちが助けてくれたことの報告と、自分が助かったのは善神の加護かもしれないと感謝の祈りを捧げようと決めた。
「で、バート。依頼の荷物がどこにあるかわかったか?」
「ああ。こいつらは近くの小川を遡った先にある使われなくなった猟師小屋をねぐらにしていたようで、そこに荷物と荷馬車もあるようだ」
その会話にホリーは思い出す。彼らは自分を助けるために来てくれたのではなく、自分を助けたのはついでなのだと。それで助けてもらった感謝の念が薄れるわけではないけれど、バートが感謝されるほどでもないと言った理由も理解できた。
「この辺りは治安は悪くないと聞いてたのになぁ。だけどこいつら、野盗というよりは猟師みたいな格好だな。弓も人数分あるし」
「こいつらは妖魔共に襲われて壊滅した村の猟師だったようだ。食い扶持を求めて移動していたようだが、例の荷馬車を奪って獲物に目が眩んで、欲が出てここに居座ろうとしていたようだ」
「はぁ……やだやだ。そういう話を聞くと気が滅入るねぇ」
ヘクターは厳つい見た目に似合わず人がいいのだろう。その声と表情は本気で嫌だと思っているようなうんざりしたものだ。
ホリーは怖くて死体から目を逸らしていたけれど、確かに野盗たちの格好は彼女の村にいる猟師たちと似たようなものだった。ホリーは襲われた身であるのに、野盗たちに憐れみも感じていた。野盗たちも本当ならこんな死に方をしなくても良かったはずなのにと。
「こいつらは己の悪心に飲まれ、自らの選択で悪に成り下がった。そんな人間はいくらでもいる。大半の人間はその性根は妖魔共と大差は無い。心の醜さと欲望を建前で覆い隠すか、隠すことを思いもしないかの違いだけだ。心の美しい人間や本当に立派な人間もいることは否定しないが」
「はぁ……バート。いつも言っているけど、あんたは人間不信も度が過ぎる」
「悪いな。これが私の性分だ」
ホリーは悲しかった。自分を助けてくれた恩人がそんな考え方をしていることに。そして自分も妖魔と大差ないと思われているかもしれないことに。だがホリーにも譲れないことはある。バートの暗いものを感じさせる灰色の瞳をしっかり見る。そして勇気を振り絞って口に出す。
「あの……いい人はいっぱいいます。人の本性は善だと、善神ソル・ゼルム様も教えています。悪い人もいることは事実なんでしょうけど……」
ホリーは人の善性を信じている。それは彼女が善神の敬虔な信者であるからということもあるだろう。そして彼女はそれを信じるに足る教えであると、十四年という未来の方が遙かに長いであろうこれまでの人生でも思って来た。悪い人もいると、思い知ったばかりではあるけれど。
バートもホリーの目を見て答える。
「君が人を信じるのは尊いことだと思う。それは善神の教えにもかなうことだ。君は君の信じる道を行くといい。だが私は人の善性を信じることはできない」
「……」
「お嬢さん。許してやってくれ。この人は極度の人間不信なんだ」
「……はい」
バートはホリーを否定しない。ホリーには、バートの淡々とした声色が少し緩んで、真摯に自分を後押ししてくれているように聞こえた。たとえ彼が彼女の考えとは相容れないと断言していても。
ホリーにとって、バートは不思議な人だ。この人は自分の思いを肯定してくれるのに、その上で人間の本性は悪だと考えている。この人は彼女が見たこともない人だ。
これが、後に数奇な人生を辿ることになるまだ未熟な新米聖女と仲間の出会いだった。
この話は拙作『新米聖女と元王子様 ~人間は善か? それとも悪か?~』の始め数話を短編として編集したものです。
この話を気に入ってくださった方は、長編の方も読んでいただけるとうれしいです。
新米聖女と元王子様 ~人間は善か? それとも悪か?~
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