9.語り
混乱しながらも帰巣本能に従って歩いた結果、自分の探偵事務所に戻ってきた。
定位置のソファに座り、飲み損なっていた朝のコーヒーを淹れる。もう昼のコーヒーだが。
マスターと話したいが、警察署に行っても会わせてくれるわけがない。探偵には何の権限もないのだ。
――コンコン。
ノックの音がする。返事を待たずにドアが開き、そこに立っていたのは……。
「リュウ」
「こんにちは。蜂須賀さんにはお世話になったのでご挨拶に来ました」
「おう、そうか。コーヒーでも飲むか」
自分でも驚くほど冷静な声だった。予感があったのかもしれない。
「そうですね、いただきます」
リュウにソファを勧めながらコーヒーを淹れる。
「お前の本当の名前は、一ノ瀬龍也だったんだな」
テーブルに2つのマグカップを置き、その隣にスマホを置いた。画面には一ノ瀬一家の写真が表示されている。
「はい。やっぱりバレてましたか」
「そして、一ノ瀬友枝さん――お前の母さんは、男性として生きていた」
「さすがに驚きました」
ソファに向かい合って腰を下ろす。龍也は寂しげな表情でじっとスマホの画面を見つめていた。
「お前が探したかったのは、10年前に家を出た友枝さんだったのか」
「そうです。母に会って、なぜ僕を捨てたのか聞きたかった」
「友枝さんの実家に行った時、近所の人から聞いたんだが、時々怪しい男が友枝さんの実家の様子を窺ってたらしいぞ。たぶんそれは――」
「母だったんでしょうね」
「お前のことが心配で様子を見に行ってたんだろう」
「だったら声をかけてほしかったですね。たとえ男性の姿であっても」
拗ねてる、とか不貞腐れてる、というよりも、ただただ寂しいという口調だった。続けて龍也は言った。
「昨日、母と話しました」
***
母が家を出た後、何年かして新しい母ができました。
でも、新しい母は僕のことを受け入れてくれず、妊娠したタイミングで僕を家から追い出そうとしたんです。
父は少し困ったような顔をしたものの、新しい母に逆らえず僕を施設に入れました。
対外的には「遠くの親戚に預けた」ということにしてあったようですが。
施設での暮らしに馴染めなかった僕は、すぐにそこを飛び出し、母方の祖母を訪ねました。
和枝ばあちゃんは、僕が孫だと気づかなかった。目が見えないせいだと思いたいが、それだけじゃないのは痛いほどわかっていた。僕との関わりが少なかったせいなんです。
それでも、和枝ばあちゃんは僕と一緒に暮らしてくれたから、感謝はしています。
和枝ばあちゃんが死んでしばらくして、父と探偵がやってきました。
やっと僕を探しに来てくれたのかと喜びましたが、ぬか喜びでした。あまつさえ、父は僕が息子だということに気づきませんでした。
玄関の電気を点けたら、明るいところで僕の顔を見たら、気付いてくれると思ったのに。
電気のスイッチを押す手が震えたけど……。
やっぱり、父は僕に気づかなかった。完全に僕を忘れてしまっていたんです。
母に捨てられ、祖母に気づいてもらえず、父に忘れられ。僕の存在って何なんだろう。
悲しいとか寂しいを通り越して、一気に怒りが沸きあがりました。
父の後をつけ、1人になったタイミングで声をかけました。
なんで僕が分からないのか、それでも親なのか、と詰め寄りました。
でも、それでも、父は僕を思い出してはくれなかった。
僕を押し退けて帰ろうとしたので、押し返したら、階段から落ちてしまいました。
次の日、父が死亡したというニュースを見て、母を探してもらうために探偵事務所を訪ねました。
探偵事務所の近くのバーで、ドアの隙間からマスターを見ました。
マスターもこっちを見たので、一瞬だけ目が合いました。
僕にはすぐに母だと分かりました。
10年ぶりでも、性別が変わっていても、ほんの一瞬しか見えなかったとしても。
母だ。間違いない。
翌日、母を呼び出して話をしました。人目に付きたくなかったので、駅前のカラオケで。
「お母さんなの?」
そう聞くと、母は「ごめん」とだけ言ってずっと泣いていました。
下手な言い訳をされなかったので、僕の怒りは宙ぶらりんになってしまいました。
ただ、母だけが、僕を覚えていて、気づいてくれたんです。
***
龍也の言葉が止まった。
「一ノ瀬彰悟を階段から落としたのはお前だったのか」
「そうです。でも、罪を逃れようなんて思ってなかった。母に会えたら自首するつもりでした」
「それをマスターに……友枝さんに言ったのか?」
「はい。そしたら、母が勝手に自首してしまった。つくづく何を考えてるのか分からない人です」
「何をって、そりゃ、母親らしいことをしたかったんだろ」
「息子をかばって自首することがですか? 罪を償わせるのが本当の親じゃないんですか?」
「そりゃ正論だが、親だって人間だからな」
「そもそも正しい親って何ですか? 僕を捨てた女と、僕を忘れた男は間違ってますか?」
「それでも友枝さんは、お前のために何かしたかったんだろう」
「今さら、ふざけるなって話ですよ」
言葉は乱暴だったが、龍也の目からは涙がこぼれそうになっていた。
「で、お前はどうしたいんだ?」
「警察に行きます。逃げませんから1人で大丈夫ですよ」
「そんなことは心配してない」
わざわざここに来て話をするぐらいだから、逃げようと思っていないのは明白だ。
「調査費用はこれで足りますか?」
龍也が茶封筒をテーブルに置く。俺は首を横に振った。
「いらん。結局、母さんを見つけたのはお前じゃないか。俺は仕事をしていない」
「そういうわけにはいきません。受け取ってください」
なかなかに強固だ。俺は大人なので折れることにした。
「じゃあ、一旦預かっておく。罪を償ったらこれで一杯飲もう」
「それはいいですね。ぜひ」
龍也は薄い笑みを浮かべると、立ち上がり、一礼して事務所を出て行った。
窓際に立ち、ビルを出ていく龍也の後姿を見送る。その足取りはしっかりしていた。