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7.妻

「じゃあ、僕、そろそろ帰ります」


 リュウが駅方向の道を指さしながら言う。


「ああ。俺は一ノ瀬さんの自宅に行ってみる。何か分かったら連絡するよ」


 そもそも何で付いてきたんだろう。依頼者であって助手ではないので、捜査に付き合ってもらう必要はないのだが、探偵業への好奇心だろうか。


 歩き出すリュウの背中をしばし見送ってから、反対方向へと歩き出した。


 ***


 前回は怪しまれただけで玄関も開けてもらえなかったので、どう話を持っていこうかと試行錯誤しているうちに一ノ瀬の家の前に着いてしまった。


 インターホンを押そうとしたところで、タイミングよく玄関が開いた。


 疲れ切った顔をした化粧っけのない女性が現れる。年齢は40歳前後か。外出する様子もないので、郵便物でも取りに来たところだろうか。今日はツイてる。


「こんにちは。一ノ瀬さんの奥様ですね?」


「はあ、どちらさまですか?」


「実は私、一ノ瀬さんに頼まれてある調査をしておりまして」


 名刺を差し出す。一ノ瀬の妻は怪訝そうに「探偵」の文字が入った名刺と俺の顔を見比べた。


「主人が……?」


「この度は大変でしたね。少しお話伺えませんか?」


「ご存じかと思いますが、主人は亡くなりました。私にお話できることがあるとは思えませんけど」


「一ノ瀬さんの前の奥様と、息子さんに関する調査なんです」


 前の妻と息子、と聞いて表情が固まった。歓迎するべき話題ではないのだろう。


「前の奥様と息子さんの所在をご存じありませんか?」


 長話に応じてくれる雰囲気ではないので、聞きたいことをストレートに言ってしまう。案の定、一ノ瀬の妻は気が進まなそうな顔をしながらも、渋々答えてくれた。


「前の奥様がどうしてるかは存じません。息子は、再婚した当初は一緒に暮らしてましたが、私が、その……妊娠したので、遠い親戚に預けました。どこに住んでるかはわかりません」


「妊娠されたんですね」


 そういえば近所で聞き込みしたときにそんな話を耳にしていたな、と思い当たる。


「産めませんでしたけど。でも、産めなかったことって証明できませんよね。母子手帳も捨ててしまいましたし、戸籍にも載ってませんから」


 地雷だったらしい。一ノ瀬の妻の口調が重く棘を持ったものになる。


「一ノ瀬さんが前の奥様と息子さんを探していた理由に心当たりはありますか?」


「ありません!」


 即答。もうこれ以上話を聞くのは無理か、と思いかけたとき。


「どうしました?」


 背後から男性の声が聞こえた。振り返ると、仕立ての良いスーツ姿の男性が立っていた。年のころは30代半ばぐらいか。丸顔にあまり似合わない口ひげを生やしている。


「宗太くん」


 一ノ瀬の妻がほっとしたような表情になる。

 そこで、先日近所の人から聞いた一ノ瀬の妻の不倫疑惑を思い出した。和製クラーク・ゲーブル。ベンツに乗ってきたのだろうか。


「玄関先ですみません。私、こういう者でして」


 名刺を差し出しながら軽く頭を下げる。


「亡くなった一ノ瀬さんからある調査を頼まれていた者です」


「一ノ瀬さんから? 麻由子さんに関する調査ですか?」


 名刺を受け取り、自分も名刺を差し出しながら男は一ノ瀬の妻を目で示した。一ノ瀬の妻は「麻由子」という名前だったのか。


「いえ、前の奥様と息子さんに関する調査です」


 男の差し出した名刺には、病院の名前と「医師」という記載があった。名前は松山宗太まつやまそうた

 医者ってことは、ますますベンツが濃厚だ。いや、それはどうでもいいんだけど、不倫相手だとすると、堂々と名刺を出すとはなかなかに神経の太いやつだ。


「僕は麻由子さんのいとこで、一ノ瀬さんの病気のことを相談されてました」


 顔に出ていたのか、あっさり牽制された。不倫相手じゃなかったのか。


「一ノ瀬さん、病気だったんですか?」


「ええ、まあ。お互い、仕事柄、守秘義務がありますよね。察してください」


 それを言われたら話が進まなくなるじゃないか。これ以上の質問は諦めるしかない。


 その時、黙って俺と松山のやり取りを見ていた麻由子が口を開いた。


「蜂須賀さん。主人は、10年前に離婚した奥様と、6年前に親戚に預けた息子を探していたんですね」


「え、あ、はい。そうです」


「なぜ、10年も経ってから奥様を探しているのか理由を言ってましたか?」


「いえ、それは伺ってません」


 理由どころか、10年前に離婚したことすら言っていなかった。


「そうですか。たぶんそれは、主人が認知症を発症していたからだと思います」


「え?」


 思いがけない言葉に、麻由子と松山の顔を交互に見てしまった。


「会社を辞めた理由もそれなんですが、主人、記憶が曖昧になってしまって。前の奥様と離婚したことを忘れて、わたしが誰か分からなくなることもありました」


 後半は涙声だった。松山が心配そうに麻由子の背中に手を当てる。


「なので、主人の依頼はキャンセルしてください。そもそも主人は亡くなってますし、費用のお支払いがまだでしたら私がお支払い……します……から……」


 両手で顔をおおって泣き出してしまった。


「もうそっとしておいてもらえませんか?」


 松山が有無を言わせぬ口調で言い、麻由子を支えて玄関へ入れた。


「おつらいところ失礼しました」


 俺は閉じかけた玄関に向かって頭を下げると、一ノ瀬家を後にした。


 ***


「すると、何ですか、被害者……一ノ瀬さんは、認知症だったということですか」


 みーやんがビールのグラスをカウンターに置きながら言う。仕事が終わってからタンニーンで待ち合わせて飲み始めたところだ。話題は自然と一ノ瀬彰悟の事件のことになっている。


「ああ、そうらしい。警察ではもうつかんでる情報じゃなかったのか」


「だって自分、人員不足で駆り出されただけなんで、事件のことはあまり聞かされてないんす。現場に黄色いテープ貼ったり、近所の聞き込み要員っすよ」


 マスターが野菜スティックのグラスを静かに差し出す。みーやんが続けた。


「確かに聞き込みしてるときに、最近一ノ瀬の様子がおかしいって証言はありましたけど、まさか認知症だったとは。ハッチ先輩と同じくらいの年齢ですよね」


「だな。俺も驚いた」


「前妻と離婚したのが10年前で、今の奥さんは6年前に妊娠してて、同じ頃に前妻との息子を親戚に預けた、と。その時預けた子が10歳ぐらいだったってことですか?」


 みーやんが律儀に指を折りながら数えている。


「どうだろうな。前妻と離婚したあたりの記憶だとすると、離婚した時点で息子が10歳だったんじゃないか」


「だとすると、6年前に親戚に預けた子は14歳ぐらいだった、と」


「いまは20歳ぐらいになってるだろうな」


 テツローが枝豆の皿を差し出す。20歳ぐらい、というワードに引っ張られ、何となくテツローの顔を見た。大学生だったらこれくらいの年齢なんだろうな、と見たことがない一ノ瀬の息子の面影を重ねる。


「マスターなら、用事があるとかで出かけましたよ。お代わり作りますか?」


 視線の意味を勘違いしたのか、テツローが営業スマイルを浮かべる。俺は「まだいい」と手を挙げ、みーやんに向き直った。


「一ノ瀬の息子を見つけられれば、前妻……友枝さんの居場所も分かると思うんだよな」


「そうですねぇ。母親ですもんね」


 頷きながらグラスを傾ける。


 その時、誰に言うともなくこぼれ落ちたようなテツローの呟きが耳に入った。


「マスター、なんか様子が変なんだよなぁ……」


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