6.妻子
「実は昨日、一ノ瀬の自宅と会社に行ったんだが」
自分の分のコーヒーを淹れながらリュウに話しかける。依頼人とはいえ、大学生ぐらいの若者なので自然とフランクな口調になってしまう。
「自宅には妻がいて、会社は昨年退職してると言われた」
「え? 退職って……どうしてですか?」
「受付の人に聞いたんだが、理由までは分からないそうだ」
「自宅には奥さんがいたんですね」
「そう名乗っていた。一ノ瀬友枝さん本人かは確認できていない。子どもの存在も未確認だが、近所の人の話だと6年前に奥さんが妊娠してたらしい。生まれていれば6歳のはずだが……10歳と間違うだろうか? しかも親が」
「はあ? どういうことですか?」
「一ノ瀬が依頼に来たとき、10歳の息子の姿が見えないと言っていたんだ」
「10歳の息子……」
「親が子どもの年齢を間違うのかと思って」
「ありえないですね」
だよなぁ、と口の中で呟いてやっと淹れたてのコーヒーにありついた。
「明日、もう一度一ノ瀬の勤めていた会社に行ってみるよ。あと、自宅にも行ってみるかな」
「僕も一緒に行っていいですか?」
「ああ、構わないが」
駅まで歩くというリュウと一緒に事務所を出る。バー・タンニーンのドアを開け、一杯どうかと誘ったが、リュウは「電車がなくなるので」と申し訳なさそうに言ってビルを出て行った。
「いらっしゃい。逃げられましたね」
テツローがテーブルを拭きながらニヤニヤしてこっちを見ていた。マスターは無表情でカウンターの奥でグラスを拭いている。バーの仕事は拭くことばかりなのかと問いたくなる。
「おいマスター、こいつまだクビにしてないのか」
「まあまあ、テツローくんも大変なんですよ」
マスターが苦笑しながら氷とグラスを並べる。注文しなくても準備してもらえるのが常連の利点だ。
「そそ、俺、大変なの。親がいないから苦学生やってんの」
テツローはテーブルを拭き終えたのか、奥の調理コーナーに引っ込んで行った。
「昼はラーメン屋、夜はここで働いて、単位も落としてないんですよ。ああ見えてなかなか優秀なんです」
親が自分の子を自慢するように、マスターが酒を作りながら言う。いつも軽口をたたいて気楽にやってるのかと思ったら、人にはいろいろあるもんだ。
「仕事で儲かったら奨学金を出してやろう」
マスターだけに聞こえるよう小声で言ったつもりだったが。
「うわあ、太っ腹ですね。期待してますよ」
奥の調理コーナーからテツローの声が聞こえた。地獄耳か。
***
翌日。リュウと一緒に「九星ホールディングス」のエントランスに入ると、受付カウンターの女性が「あ」と言いながら立ち上がった。昨日と同じ女性だ。カウンターの横には40歳前後の男性が立っていた。
「探偵さん。いまちょうど、一ノ瀬さんの同僚の方にお話ししてたんです」
「どうも、柿崎と申します」
男性に促され、エントランスの奥にある休憩コーナーに向かう。ありがたいことに時間をとってくれるらしい。
「お忙しいところ恐縮です。蜂須賀と申します」
名刺交換をしながらテーブルを挟んでソファに腰掛ける。
「お役に立てるか分かりませんが、一ノ瀬のことを調べてるんですか?」
探偵というと胡散臭がられるかと思ったが、意外にもウエルカムだった。一ノ瀬の死亡事件について調べてると勘違いしている様子だが、そこはまあ説明する必要はないだろう。
「まあ、そんなところです。失礼ですが、一ノ瀬さんとはどういうご関係で?」
「同期です。入社してから同じ部署になったり異動したりありましたが、お互いずっと本社勤めでした」
「差し支えなければ、年齢を伺っても?」
「今年40ですけど……?」
「一ノ瀬さんも?」
「はい、同じでした」
どうしてそんなことを聞くのだろうという顔をしている。そもそも一ノ瀬が妙な見栄なんて張らなければ、聞く必要のないことだったのに。昨日のニュースで見たとおり、やっぱり10歳もサバを読んでいたのか。
「一ノ瀬さんが退職された理由はご存じですか?」
「いえ、それが分からないんです。急だったので私もショックでした」
「奥様とお会いしたことは?」
「どっちのですか?」
――ん? どっちとは?
「前の奥さんとは何度か社内イベントで一緒になったり、家飲みに誘われたりして、仲良くさせてもらってました。今の奥さんはあまり外に出るタイプではないようで、お会いしたことはないんです」
「一ノ瀬さん、離婚して再婚されてたんですか?」
「はい、そうですけど?」
知らなかったんですか、と逆に驚かれた。知らなかった。
「離婚されたのって、いつ頃か分かりますか?」
「たしか、永年勤続で表彰された頃だから、10年ぐらい前ですかね」
「お子さんのことはご存じですか?」
「前の奥さんとのお子さんには会ったことがあります。社内イベントに参加してくれたので。たしか離婚するときに一ノ瀬が引き取ったものの、再婚するときに遠い親戚に預けたって言ってました」
分かりやすすぎる厄介払いだ。何となく身勝手な男というレッテルを貼ってしまった。
「今の奥さんとの間にもお子さんがいらっしゃるようですが」
「そうなんですか? それは聞いたことがなかったです」
「最後にもう一つ、前の奥さんの名前ってご存じですか?」
「はい。ともえさんです。一ノ瀬友枝。モデルみたいにキレイな方です」
つながった。依頼人が探していたのは、10年前に離婚した妻だったようだ。
「不躾なお願いですが、もし残っていれば、社内イベントの時の写真など見せてもらうことはできますか? さすがに個人情報なんで難しいとは重々承知しているのですが……」
「いいですよ。記録用に会社のサーバーに残ってると思うんで。あとで探して送りますね」
柿崎に丁寧に礼を言って九星ホールディングスのエントランスを出る。
見上げると、太陽がほぼ真上に来ていた。
「10年前に離婚した妻を探す男。なぜ10年経ったいま探している?」
「さあ?」
「昔そんな感じのドラマだか映画があったな。親が子どもを探すんだけど、親以外の誰もが「そんな子は知らない」と言うんだ。それで、親は自分が正しいのか周りが正しいのか分からなくなりながらも、必死で子どもを探す」
「オチは?」
「……忘れた。でも、すごく怖かった。必死に我が子を探しているのに、周りみんなが「そんな子は知らない、見たこともない」と口をそろえる。まるで最初からいなかったみたいに」
「ひと1人の存在が消えてしまう恐怖ですね」
「イリュージョンじゃあるまいし、人間が消えるわけないのにな」
「ほんとですね。でも、一ノ瀬彰悟さんは、子どもではなく妻を探してるんですよね」
「どっちも探してると思うよ。家族なんだから」