5.依頼、再び
依頼人が死亡した。依頼人は費用を支払ってくれるから依頼人だ。死亡したら費用は支払ってくれないからもう依頼人ではない。つまり、調査を続ける必要はない。
自分に言い聞かせながら歩いていたが、気付くと「一ノ瀬」と表札のかかった家の前に立っていた。無意識に来てしまったらしい。探偵としての好奇心か、1日分の調査費への未練か。
帰ろう。踵を返すと、ちょうどこちらを見ていた女性と目が合った。向かいの家の玄関の前に立ち、エプロン姿で手には回覧板らしきファイル。どこの町内にでも出没するおしゃべり好きのおばちゃんだ。
「警察の方ですか?」
「いえ、探偵です。蜂須賀と申します」
名刺を出す。どこで顧客をゲットできるか分からないから、できるだけ名刺はバラまくようにしている。
「まあ、探偵さん! 初めて見ました。やっぱり一ノ瀬さんの件で?」
「そんなところですね。一ノ瀬さんとは親しくされてましたか?」
「顔を見たら挨拶する程度ですけどね。ご主人はお仕事で忙しくされてましたし、奥さまはあまりご近所付き合いの得意なタイプではないみたいですし」
「お子さんはどうですか?」
「え? 一ノ瀬さん、お子さんいらしたんですか?」
「10歳の男の子がいると伺ってます」
「おかしいですね。うちにも小学生の娘がいますけど、一ノ瀬さんにお子さんがいたなんて初耳です。一緒に住んでらっしゃらなかったんですか?」
依頼に来たとき一ノ瀬は子どものことを「妻と一緒に行ってしまったのか」と言っていた。つまり、一緒に住んでいたはずだ。俺は首をひねった。
「うちが越してきたのが6年前なんですけど、一ノ瀬さんのお宅にご挨拶に行ったとき、奥さんが妊娠してる様子でした。でも、その後お子さんの姿が見えないので、てっきり……あの、残念だったのかな、と思ってて」
言外に流産をにおわせて声を低くする。さらに秘密を打ち明けるような重々しい口調で続けた。
「これは言っていいか分からないんですが……。ご主人が会社に行っている間に、男性が出入りしてるのを何度か見かけましたよ」
それが言いたかったのか。ここにも張り込みをする主婦がいたわけだ。
「顔は見ましたか?」
「何度か出入りしてた男性は、クラーク・ゲーブルを和風にした感じですかね。インテリって言うんですか? 良い大学を出て稼いでるって顔してました。車は絶対にベンツですよ、ベンツ。たぶんですけど」
いまいち人相が浮かばない。そもそもクラーク・ゲーブルはどんなに薄めても和風にはならない。しかも絶対にたぶんベンツなんて、人物を特定する情報としてはまったくもって意味がない。
***
調査費用を出してくれる人がいないので仕事は終わりだ。昨日1日タダ働きになってしまったのは残念だが、運が悪かったと諦めるしかない。
自分に言い聞かせながら歩いていたが、気付くと「九星ホールディングス」と看板のかかったビルの前に立っていた。一ノ瀬彰悟が依頼書に記載した勤務先だ。
やはり一ノ瀬の死が気になる。本格的な調査はしないまでも、せっかくここまで来たのだから、ちょっとだけ話を聞いておこう。ちょっとだけだ。これが最後だ。
ビルの正面入口からエントランスに入り、受付カウンターに座っている女性に近づく。名刺を差し出しながら「一ノ瀬彰悟さんのことでお話を伺いたいのですが」と伝えたところで、女性の笑顔が曇った。
「一ノ瀬さんですか? あの、大変申し上げにくいのですが、一ノ瀬さんは昨年退職されております」
「え、退職? それはどうして?」
「さぁ……。個人の事情ですから、そこまでは存じ上げません」
「あなたは一ノ瀬さんと面識があった?」
「それは、まあ、こちらの担当ですから、全社員の顔と名前、所属は把握しております」
「同僚とか、仲の良かった人と連絡は取れるかな?」
「連絡先をお教えすることはできませんが、探偵さんに連絡をするようお伝えすることはできます」
それではお願いします、と言いかけて言葉を飲み込んだ。依頼人は死んでいる。今回の仕事はチャラだ。これ以上首を突っ込んでも1円にもならない。俺の嫌いなタダ働きになるだけだ。
「いえ、連絡は結構です。お邪魔しました」
そう言って踵を返し、九星ホールディングスのビルを後にした。
***
事務所に戻り、スッキリしない気持ちでコーヒーを淹れていると。
――コンコン。
ノックの音。どうぞ、と声をかけると、恐る恐るドアが開いて若い男が顔を覗かせる。見覚えがあると思ったら、昨日、一ノ瀬の妻の実家で出会った長尾リュウという若者だった。
「突然すいません。探偵さんにお願いしたいことがあって」
「どうぞ」
誰彼構わず名刺をバラまいた成果か。リュウに室内のソファを勧めると、不安そうにきょろきょろと辺りを見回しながら入って来た。俺は淹れたばかりのコーヒーを客用のカップに入れて差し出す。
「あの、実は僕、……嘘をついてました」
リュウはコーヒーに手を付けるより先に、沈痛な面持ちで切り出した。俺は自分のコーヒーを諦め、リュウの向かいに腰を下ろすと話の続きを促した。
「僕、和江ばあちゃんの遠い親戚ってのは嘘です。6年前、ばあちゃんの家に空き巣に入ったんです。そしたらばあちゃん、死のうとしてて……」
6年前。リュウは14歳だったが、家庭の事情で学校に通っていなかったらしい。
毎日の食事にも困り、思いつめて空き巣に入った家で、目の見えない老女が首をくくろうとしていた。そこでお互いの身の上話をするうち、何となく一緒に暮らし始めたのだそうだ。
「ばあちゃん、ケンカ別れした友枝さんと仲直りしたがってました。それを友枝さんに伝えたいんです。ばあちゃんが最期まで気にかけてたって」
「事情はよく分かりました」
「昨日、探偵さんと一ノ瀬さんが来て、友枝さんが行方不明だって知って。そしたら今朝のニュースで、一ノ瀬さんが死んだって。――探偵さん、引き続き友枝さんを探すんですか?」
「依頼人が亡くなってしまったので、中断せざるを得ないでしょうね」
「だったら僕が依頼します。僕、ばあちゃんに何も恩返しができてないんです。ばあちゃんの代わりにお願いします。友枝さんを探してください」
長尾和江の娘、つまり一ノ瀬彰悟の妻を探してほしいという依頼だ。一ノ瀬の件はちょうど気になっていたことでもあるので、俺は二つ返事で引き受けた。