1.プロローグ
コトリ
勝手口から物音が聞こえ、女性はイスを持ち上げたままの体勢で動きを止めた。
何事もないと確認したい気持ちと、わざわざイスを置いて調べに行くのが面倒くさい気持ちで、しばしためらう。
その時、居間と台所を仕切っている引き戸がスッと軽い音を立てて開いた。
「誰だい?」
自宅への侵入者にかけたと思えないほど、声に緊張感がない。むしろ、引き戸を開けた人物の方がびっくりしてその場で動きを止めた。
「誰だい?」
2度目の呼びかけに、侵入者はうろたえながらも壁に沿って居間に入ってきた。
「あ、あの、真っ暗だったから誰もいないと思って……」
夜だというのに部屋の電気が点いていなかったのだ。侵入者は、居間に入ってすぐの壁に電灯のスイッチを探り当て、部屋の明かりを点けた。
部屋が明るくなると、イスを抱えた体勢で侵入者の方に顔を向けている老女の姿が浮かび上がった。顔を向けてはいるが、目の焦点は合っていない。
「いったい何の用だい?」
老女はなおもイスを持ったまま侵入者に問いかけた。侵入者は老女と視線が合わないことに戸惑いながらも、老女の持っているイス、そしてその頭上にあるものを見つけて小さく息を飲んだ。
「ばあちゃん、死のうとしてんのか?」
鴨居から輪になった紐が下がっている。老女がイスの上に立つとちょうど首が掛かる高さだ。
「知らないやつにばあちゃん呼ばわりされる覚えはないよ」
「なあ、自殺しようとしてんのか?」
「どうせ空き巣だろう。この家にあるもの、好きに持っていくといいさ」
「ねえ、僕の顔ちゃんと見てよ。死んじゃダメだって」
「うるさいねぇ。目の見えない婆に何を見ろと言うのさ」
目の見えない、と聞いて、侵入者――若い男は、老女の顔をまじまじと見つめた。焦点が合っていないのではなく、合わせられなかったのだ。
「目が見えないって、怖い?」
「怖いもんか。空き巣がどんな顔してるか見えないから、むしろ怖くないね」
「僕は目が見えてるのに、怖いものばっかりだよ」
老女は持っていたイスを置くと、小さく首を振りながら台所に向かった。
「せっかく準備したのに気が削がれちまったよ。お茶でも飲むかい?」
「はい。あと、何か食べたいです」
「はあ? 図々しい空き巣だねぇ……」
老女は億劫そうに肩をすくめ、台所に入って行った。