「ハンナとレックス」
1−7 「ハンナとレックス」
それはまるで走馬灯のようで、一瞬のはずなのに自分の今までの歩みを見ているようだった。喜びも悲しみも虚しさもそこにあった。思わず目を閉じた。忘れようとして、気を失うように真っ暗になると、そこは知らない場所だった。
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【団地前】
山田ハンナは激しく後悔をしていた。いや、後悔だけではない。それ以上に自分への怒りもあった。葉太の悲痛にも似た顔が頭に浮かぶと、自分自身を情けなく思った。
傍から見れば、ハンナの顔からそのような情報を得ることはできないだろう。喜怒哀楽が薄い、変化の乏しい表情。熱のない鉄の仮面のようなそれからは、まさかこんなにも感情が、心が迸っているようには見えない。
団地から出て、ハンナは少し落ち着きを取り戻し、振り返った。大きくは見えない団地だが、街灯の少ない小さな町では、夜の幕が色濃く広がり、威圧さを増している。ハンナが見るのは団地の最上階である5階。葉太がいた部屋だ。先程の家でのことをゆっくりと思い返した。ハンナは右手首を軽くさする。制服の袖をめくると手の跡が少し残っていた。あの状態では、もはや自分の力だと火に油を注ぐだけかもしれない。助けるためには専門的な治療を受けなければ、本当に大変なことになってしまうだろうと思い、巻き込まれたという言葉が浮かびかけてすぐに頭を振った。
これは、私の長い運命のなかにある一つの使命だ。歩みの中で出会った救うべき一人なんだ。そう言い聞かせ、ハンナは自分の肩の側を見上げた。
「あれ? ・・・いない」
不用意に独り言はしないようにしていた。過去ずっと、ハンナはそれで周囲を気味悪がらせることがあったからだ。ただ、今はそのことに注意を払えないほどだった。頭の回転の早いハンナはすぐにある一点に思い当たる。
「・・・まさか」
ハンナは再び団地へと急いで向かった。
階段を一気にかけ上がり、まっすぐに葉太の部屋へと向かった。一度聞いただけの部屋番号をハンナは忘れてはおらず、迷わずにたどり着けたのは元来の記憶力の高さとそれだけ必死であったからだろう。
扉に手をかけると一瞬悲しい気持ちになる。だがすぐにドアノブを回すが鍵がかかっていた。インターフォンを押しても葉太は出てこない。
当然だ。あんなやりとりをした後に、誰が来たとしても出てくるわけがないとハンナは思う。
下唇をキュッと噛み、項垂れて額が鉄の扉に当たる。冷たいその扉とは反対にハンナの少し高めな体温がそれを否定するかのようだ。
自分に落ち着くよう声をかけて、目を閉じた。
ーお母さん? 葉太くんのお母さん。聞こえますか?
ハンナは心の中で問いかけた。その相手はこの世にいない。亡くなった葉太の母に対してだ。
ーーーたすけて、ください。
6階の通路には誰もいない。音と呼べるものは団地の外を走る数台の車と踏切の音だけだ。今ここにハンナが話しかける相手もかけられる人も、周囲には誰もいないはずなのに、どこからともなく声が聞こえる。
それはハンナだけにである。頭に直接響くように聞こえてくるのだ。
ーーたすけ、て、ください。
繰り返し、ハンナにその声が届いたとき、ある想像が浮かんだ。ハンナが一番危惧していた想像、いや予感の方が近い感覚だ。
壊れたラジオのように、ただ繰り返される「たすけてください」という葉太の母の声に、ハンナは迷わず通路にあった消化器を手にして、それを持ち上げるとドアノブにむけて叩きつけた。鈍い音とともに綺麗にねじ曲がった。すぐに消化器を置き、外れたドアノブの穴と郵便受けに手をかけて思い切り引っ張った。すると、扉は少しの抵抗だけで開いた。
「葉太くんのお母さん」
玄関へ入り、ハンナは呼びかける。だがすぐにしまったと思った。葉太が中にいるのに、まだなにも説明できていないのに、葉太の母を呼んでしまったからだ。だが、反省している暇もそこまで気をまわす猶予すらもあるように思えなかったのも事実である。それに部屋にいるはずの葉太は姿が現れないし、声も聞こえない。部屋の中はとても静かだ。
ハンナは一息つくと、靴を脱いで部屋にあがった。おそらくいるであろう、はじめの部屋にゆっくりと向かう。部屋の襖は開いたまま、部屋のどの部分もハンナが追い出された時と違わない。ただ一つだけ、ベランダ側にある棚の上に飾られていた母の写真。その写真立てだけがいつのまにか倒れていた。
襖をくぐるとハンナが見たのは、床に膝をついて動かない葉太の姿であった。ガクリと項垂れていて、頭にはゴーグルを着けている。そのゴーグルから伸びるコードは、大きな机にあるパソコンと繋がっていた。薄暗い部屋で唯一の青白い光を発している。
ハンナは短く息を飲み、心臓が徐々に大きく、早くなる。冷静にと自分に言い聞かせながら、葉太の肩に触れようとして手が止まる。
ふわりと花の香りがして、ただすぐに果てしない悲しみが重くハンナの両肩にのしかかってきたのだ。思わず声が漏れるが、それを堪えて、ハンナは葉太の、その上を見た。
葉太の母が、そこにいた。
一年前に病死した葉太の母『岩波 さくら』の肉体なき幽霊の姿がそこにはあった。
「よ、葉太くんのお母さん。だ、だいじょうぶ、ですから」
ハンナはなるべく安心させるような言葉を慎重に選んだ。この状況を正確に理解できる唯一の人間であるハンナだからこそ、軽率な言葉を言えないと判断したのだ。ゆっくりと、肩の重さに耐えながら一歩ずつ近寄ると、手首に巻いている数珠を軽く握り、葉太の母に触れた。すると、ハンナの肩は少しずつ重みが減っていき、それと同時に薄っすらと声が届き始めた。
ーーー ようた。ごめんね。
ー ーー ごめんね。
ハンナは、まだ修行不足だと思った。薄白色の瞳から溢れる涙が頬をつたり、一つ二つと床に落ちる。
こんなにも悲しい思いをさせてしまうのではあれば、約束などせずに、祓ってあげればよかったと思った。それは、今からでも間に合うことなのか。一瞬その考えがよぎるが、ハンナは自分の心を強く諌めた。
葉太の手に触れる。体温はちゃんとあり、脈も規則正しく打っている。ハンナは静かに息を吐いた。
「お母さん。大丈夫です。私が、必ず葉太くんを、助けますから!」
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【交差点】
感覚としては明晰夢に近い気がする。脈絡もなくいきなり交差点の真ん中に突っ立っていると、自分は認識している。周りには錆びた標識に電気の通っていない信号機、大小のビルはどれも崩れかけていて、寂れた廃墟と化している。人は片手で数えられるほどしかおらず、どの人間も地面に座り込み項垂れていた。俺は自分の腕や足を見る。試しに手のひらを拳で叩いてみると乾いた音と少しの重みがあった。
服装は初期装備であるらしい白いシャツにベージュのカーゴパンツの装い。それと赤茶色のスニーカーだ。
見た目は、それは現実の自分と同じ容姿である。ダークレコードをプレイする際、キャラクターメイクがあったが、見た目も、声までもが現実と同じものにできた。まあ、単純に容姿を変えている時間が惜しかっただけだが。
俺は一刻も早くはじめを探さなければならないのだから、あてもなく、歩き始めた。
それは唐突に響き渡った。
悲鳴と歓声の間のようなつんざく鳴き声とともにそれは現れた。
「うおっ! な、なんだこいつは」
全身を黒いローブのようなもので覆い、浮き出るように赤い瞳がこちらを睨む。唸り声は人と獣を合わせたようで、それらはあきらかに敵意を向けてきている。さらに、それは一体、二体とゾロゾロ集まってきた。
「敵だよな。意思疎通ができそうにないし。ていうか、これって、やばいんじゃ」
ジリジリと後ろに下がるがそれは意味のない動きだ。それは細長く黒い鉤爪を伸ばし、俺に向かって飛びかかってきた。反射的に目を瞑り腕で防ごうと構えるが、自分の体に衝撃は一向になく、代わりにズシンという打撃音と風切り音が聞こえた。
「おい、大丈夫かっ! てかなんでお前がここにいるんだよ。葉太!」
聞き馴染みのない声に自分の名前を呼ばられたことよりも、目の前で起きていることの方が驚きであった。白髪のオールバックに褐色の肌、紅色の皮装備の上からもわかるほど筋骨隆々のたくましい体躯で、丸太のような太い腕からは不自然にも回転音が鳴り、空気の渦をまとっている。そして、さっきの黒いやつは吹き飛ばされて地面に伏しているが、すぐに小さなドット状に雲散して消えた。
「すげえな。・・・あ? ていうかあんた。誰だ?」
「俺だよ俺! って、ちょっと待て。まずはこいつらすぐに片づけっから」
そう言うと褐色の男は次々に黒いやつを殴り倒していった。全てを一撃で粉砕していく様を見ながら、この男がどうして自分の名前を知っているのかと考えていた。
「ふう。いっちょあがり。おい、怪我はないか? 葉太」
褐色の男はそう言って俺の前に来る。今しがた敵を倒した時のまとっていた風はなくなっていた。
「誰だあんたは。なんで俺の名前を知ってる?」
「ああ、わからないよな。岡田だよ。あっ、ここではレックスっていう名前だけど」
「岡田? ・・・同じクラスの?」
「そうそう」
岡田は、そう言って笑顔で頷く。学校での岡田の顔を思い返しながら目の前にいる褐色の大男を見比べる。眉間と目尻には険しい皺が入り眼光が鋭く歴戦の戦士のような風貌が、いつも教室で見るヘラヘラとした岡田の顔とは到底重ならなかった。
「うそだあ」
「いやウソじゃねえよ! てか俺のことより、なんで葉太がいるんだよ。お前このゲームのこと全然知らなかったじゃねえか。しかも見た目まで同じだしさ」
「えっ、あいや、・・・ちょっと色々あってな。ていうか丁度いいな。なあ、俺に色々教えてくれよ」
こうして話していると確かに岡田の面影もあった。見た目は違っても喋り方や雰囲気は変わらないのだな。
「えー? 教えるのは別にいいけど。でもなんだよ。今始めたばっかりって」
「詳しいことはあとで話すけど。・・・実は妹がさ、このゲームやっててな。・・・はじめを探しにきたんだよ」
・・・・・・
・・・ああ、そうか。
少しの沈黙のあと、ゆっくりと小さい声で岡田は言った。
「なあ、リアルだとさ。ログアウトできないってなってるけど本当にそうなのか?」
「んっ、あ、ああ。・・・まあな。俺も何度も試したけどできなかった。他の人のなかでもログアウトできた人はいない。ここに閉じ込められちまった」
「そうか。でも岡田はあれだな。なんていうか慣れてるっていうか、馴染んでるな」
「・・・まあな。正直こうなっちまって、かなりまいったけど。でも何にもしないわけにもいかないし、なんであれ、生きていかなきゃいけないことには変わらないからな」
そう言うと岡田は歩き始めた。
「どこ行くんだよ」
「ここじゃなんだから、ついて来いよ。ちょっと話そうぜ。このゲームのことも教えてやるからよ」
先を歩く岡田の背中は、ゴツゴツと筋肉が隆起している。なんか、岡田のくせに頼りがいがありそうなのが、ムカつくな。
「あっ、そうだ。ここでは俺のことレックスって呼んでくれ。意味あるかわからんけど一応リアルバレしたくないからな。お前は? 名前なににした?」
「ああ、気をつけるよ。俺は、イワナミヨウタだけど」
「ええ~」
呆れた顔の岡田改めてレックスと、交差点を離れていった。