「ダークレコード」
1−4 「ダークレコード」
家に戻ってからすぐにバイトの仕度をした。いつも休日のバイトは15時からのシフトが多い。そのため時間までに家事や課題をする余裕があったりするのだが、今日は朝方にバイト先から電話があって「早くはいってほしい」と連絡があった。まあ急なシフト変更はバイトにはつきものだ。せっせと手を動かして準備を終えて玄関を出ようとしたとき、ガタンと物音がした。妹の部屋からだった。
「ベッドから落ちたか?」
妹の生活リズムは昼夜逆転になりがちだ。特にゲームをやり込んだり遅くまで動画を見ていたりすると、めちゃくちゃになる。一瞬時間を確認して、俺は靴を脱いだ。
「おい、はじめ。大丈夫か?」
返事はなく「開けるぞ」とだけ言い妹の部屋を開けた。
部屋は薄暗く、はじめはベッドの上で寝ている。右手がダランとベッドのヘリから垂れている。床には箱が落ちていて、どうやら不安定に積まれていたダンボールが落ちた音だとわかった。
「はじめ、俺バイトに行ってくるからな」
声をかけても起きる気配はない。足元にあった箱を手に取ると昨日、宅配で届いた小包で、それを部屋のテーブルに置いた。
「まったく。起きろー。飯食えー」
はじめの肩を軽く揺するが起きない。口元から規則正しいゆっくりとした寝息が聞こえる。俺はため息を吐きつつも、はじめの手をベッドに戻して薄いタオルケットをかけた。部屋を出るときに微かな声で「ようた」と聞こえた。
なんで夢のなかで名前呼び捨てしてんだよ。俺はそっと襖を閉じた。
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おおたけ屋に出勤して休憩室で仕事着に着替えていると、事務の小倉さんが慌ててやってきた。俺の顔を見るや「ごめんねえ!」と手を合わせる。走ってきたせいか少し息がきれていた。
「おつかれさまです。ぜんぜん、大丈夫っすよ」
エプロンの紐を前で結びながら愛想よく言うと、息を整えた小倉さんが険しい顔を浮かべて小声で「ちょっとこっち」と手招きをする。そしてそのまま事務室まで連れられると、誰もいないことを確認してから扉を閉めた。その警戒ぶりに内心、バイトの規則を破ったことが学校にバレたのかとヒヤヒヤしていたが、どうやらそれは想像ちがいだった。
「ごめんね急にシフト変えてもらっちゃって。・・・それでね。実は、大竹さんの息子さんが倒れちゃったみたいで」
「えっ! そうなんですか! 病気とか事故ですか?」
「詳しいことはわからないけど、だから店長も休まないといけないみたいで。と、とにかく大変なのよ!」
小柄な小倉さんは両手の拳を握りギュッと自分の体を寄せて、さらに小さくなる。
「なんも説明なくて。・・・なんかバタバタしてたのよ。でも、だから今日は店長もバイトリーダーもいないから。・・・それで」
小倉さんは少し間を空けて「どうしよ」と頬に手を当てる。眉は下がり瞳もどこかしょんぼりとしていて、誰が見ても困っているのだとわかる。小倉さんはいつも挙動が大きい。
「そうなんすね。・・・あー、全然、俺時間大丈夫なんで。なんか必要なことあったら言ってください!」
そう言うとパッと表情が明るくなり、顔には「よかった」と書いてあるようだった。
「ほ、ほんと!? ごめんね。あっ! でも息子さんが倒れたことは他のパートの人には言ってないから、くれぐれも内緒にしておいてね。変に噂になっても嫌だし」
「ええ、わかりました」
小倉さんは最後に「ほんっとうにありがとうね」と俺の腕を軽くポンっと叩いて事務室を出ていった。小倉さんも大変なのだろう。しかし、今日は何時に帰れるのだろうか。
俺は、妹に帰りが遅くなることをメッセージで送ると事務室を出た。
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岩波はじめがダークレコードをプレイしたのは二年前のことだ。VRゲーム自体が初めてなこともあり、それも含めてやる前は「どんなもんかな?」と少し斜に構えたようにみていた。はじめのすこし天邪鬼な性格がでたのだろう。発売してから一年後に神アップデートがされたとネット上で話題になり、それから瞬く間に最高のゲームだと多くの人が評価し始めた。だからこそ若干、嫌煙していたのだ。しかし、ネットで流れるゲーム動画を見た途端、我慢できなくなった。
初めてログインしたとき、一瞬にして感動を味わった。これが本当にゲームなのかと疑いたくなるほどで、街に立ち、駆け回り、両手を上にあげたとき、生きていると錯覚させられるほどにダークレコードは現実だった。はじめにとって人生で一番感動したゲームとなった。
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【ダークレコード】
霧の大都市『アーサーブランク』のメインストリートから南側にずっと下がると、大きな交差点がある。そこは新規プレイヤーが最初に必ずスポーンされる場所である。しかし、その交差点は殺風景な場所ということもあり、本来ここに人が留まることは滅多にない。
だが、今ここにはプレイヤーが大勢いる。いや、集められているといった方が正しいだろう。
同日の9時にアップデートが明けて、さらに日曜日ということもありプレイヤーの期待とタイミングがこの人数に表れているようだ。
現在の時刻、9時55分。
しかし、そこはダークレコードを待ちに待ったという歓喜の様相はなかった。
「おい! どういうことだよ! 全然ちがうじゃねえか!!」
怒号とともに男は言った。それは男一人のものではなく、ほかのプレイヤーからも口々に声があがっている。
「ねえ、レベルも能力もお金もぜんぶ無くなってるんだけど」
「ステータスからなにまで、ぜんぶ初期化している。・・・これバグ?」
「ふざけんなっ! 俺の時間と金を返せっ!! いくら課金したと思ってんだ!!」
「ていうかさー。運営からの説明はまだなの?」
怒りと困惑が混ざった感情がプレイヤーひとりひとりから溢れ出している。皆がダークレコード内での仮の姿、アバターに身を包んでいるが、それは現実と区分けすることができないほど、忠実な感情表現であった。
そんな共通した感情のプレイヤーたちは同様の画面が目の前に映し出される。それは運営からの通達だった。
『10時に現在起きていることについて説明する。そのため交差点に強制スポーンをする』
「おいおい、意味わかんねえよ。しかも・・・なんでログアウトできないんだ?」
唐突に起こったそれを発見できたのはごく僅かである。ただ、その上空に浮かぶ異変は確実に広がり、一人が指をさした。何もないはずの空間にチリチリと音をたてながらプラズマが走る。細い電子の線がミミズ状にウネウネと動きだすと急速に描写が開始され、それがヒト型に成形されていく。それを、気づけば皆が見ていた。怒号の声も困惑の呟きもなくなる。誰もなにも発せずにいて、その光景を眺めていた。
ー あー ーーあー 「あー、聞こえるかプレイヤー諸君」
モヤのかかった声がすぐにクリアになる。
上空に現れたのは『獅子原レイジ』であった。宙にプロジェクションマッピングのように映し出される獅子原博士をプレイヤーたちは知らない。白衣をきた白髪の男はいったい何者なのだろうかという疑問に、獅子原博士は答えるように静かに話し始めた。
「まず、名乗ろう。私は獅子原レイジ。このゲームの開発に携わった者だ。諸君らは今、混乱のなかにいるだろう。当然のことだ。
そのことについて、申し訳ないと思っている。今起こっていることは、私の実験によるバグ、いや、副反応と言った方が正しいかもしれない」
実験? 副反応? 淡々と語られる獅子原博士の言葉にプレイヤーたちは不思議な緊張感に包まれていた。
これはどこまでがゲームなのか。どこまでがフィクションでどこまでが事実なのか。
「そこで、私からひとつ君たちに事実を伝える。君たちの人生は今からこのダークレコードになる」
獅子原博士は、そんな現実味のない言葉を淡々と口にする。
ふざけるなっ! 誰かが声を荒らげた。一つ石が投げられると、それを皮切りに次々に口を開き始めた。
「これがサプライズかあ!? バグなら直せ! さっさと元に戻せ!」
怒号のなか、獅子原博士は構わず説明していく。轟々としたプレイヤーたちの声が重なろうが、罵詈雑言を浴びようが一定の早さで、言葉も乱れずにつづけて、まるで録音したものを流しているようだった。
「申し訳ない。だが君たちの人生は始まってしまった。それが止まることはない。そしてこのゲームからログアウトすることはできない。
・・・ああ、そうか。現実も仮想も、どちらも人生という列車から降りることはできないのだな」
「はあっ!? どういうっ」
「さて、時間がない。私はやるべきことがある。いま話したことは全プレイヤーに文面として配布する。おそらく皆、混乱のせいで禄に話を聞いていないだろう。確認したまえ。最後に、・・・改めて君たちに」
少しでも、素晴らしい世界を創造することを祈る。
非難が鳴り止まぬなか、獅子原博士はその言葉を残して、消えた。
テレビの電源を落としたようにプツンと一瞬で姿は消えて、そこは何もない見慣れたダークレコードの空に戻った。だが、いつもの空であるはずなのに、プレイヤーたちにとっては違う。これからなにが起こるのかわからないという未知の不安と不明さが浮かんでいた。
「・・・お兄ちゃん」