1-8. はじめて一緒に
名前で呼ばれるのは、一体、いつ以来になるんだろうか。
小学校6年間はそれはそれは見事に同じクラスで通したものの、中学校では1年生のときだけ。
その中1のときだって、あまり話したりするような機会も無く。
――そう考えれば、小学生のころ以来になるのかもしれない。
だけど、今ボクのアタマの中を支配しているのは、そういう懐かしさなんかじゃない。
ただの困惑だった。
聖歌が、一体どういう意図で、ボクを名前で呼んだのか。
それがまったく理解できなかった。
ここ最近はいっしょに過ごす時間が増えてきたとはいえ、彼女の口からボク個人を呼ぶようなセリフを聞いた覚えが無かった。
言ってしまえば、同じ空間にいることが増えただけ。
会話と言ってもテスト前の勉強会の時のように、基本的には事務的なモノがほとんだった。
唯一そうではなかったのが、自宅最寄り駅である石瑠璃駅で待ち合わせをして、中央駅方面に遊びに行ったときくらいだろうか。
だけど、だからといって、互いのことを呼び合うような会話にはならなかったはずだ。
何故って。
それは、ボク自身がそういう会話にならないようにしたからに決まっている。
「あの……」
「……あ」
――まずい。
なぜ黙っているの?
彼女は今、そんな目でボクを見ている。
それもそうか。
ただ単純に彼女は、今日ボクが何の目的で楽器店に来たかを聞いただけのことだ。
そこに他意は無い。
余計な発想など入る余地がない。
そう考えるのが妥当だ。
こんなことを考えるなんて、ただの自意識過剰なイタいガキンチョだろう。
心の中で自分の頬を思いっきり平手打ちをして、何とか冷静に。
「んーとね。リードをね、見に来たんだ」
全然冷静じゃなかった。
日本語がたどたどしすぎる。
「リードって……、あの、アレだよね。こうするヤツ」
そう言って聖歌は口を真一文字にして、唇で何かを挟むような形を作った。
「うん」
「どの楽器の?」
「今日は、オーボエの」
「あ、じゃあ今吹いてる楽器のなんだ。こんなカタチのだよね」
今度は縦長の四角形を指で作り、またそれを唇で挟むような真似をした。
楽器奏者ではないのに、そんなことを。
小さい頃、ボクが偉そうな口ぶりでいろいろと楽器の説明をしていたのを、イヤな顔ひとつしないで聴いてくれていたことを思い出してしまう。
もしかするとその時の事をまだ覚えていてくれているのだろうか。
「そうそう。ホントは先週辺りに来たときに見つけたんだけど、持ち合わせが無くて買えなかったんだ」
「そっかー……」
言いながら彼女は一瞬だけ視線を外し、直ぐさまボクを見つめ直した。
「……あの」
「うん?」
「あたしも、ついてって良い?」
微笑みながら訊いてくる。
迷いは一瞬だった。
「いいよ、全然」
断るなんて、出来ない。
「見てて面白いかどうかわかんないけどね」
「そんなことないよ?」
「……そう? なら全然イイんだけど」
喰い気味で返され、ちょっとだけびっくりしてしまった。
「楽譜は見終わったの?」
「うん」
彼女はコドモのように頷いた。満面の笑みで。
「じゃあ、上の方に」
少しだけ迷ったが、聖歌には背を向けて階段へ向かった。
エスコートなんてするようなガラでもないし、そもそもそういう権利はボクに無かった。
「そういえば、上の楽器コーナーって初めて入るかも」
吹き抜け構造になっている部分のらせん階段を上がりながら、思い出したように聖歌が言った。
「あれ? そうなの?」
この楽器店が数年前に移転オープンでココに来てからは、当然だけど聖歌と来るのは初めてだった。
そもそも、高校生になってから彼女とふたりでこうしていっしょにいるのは、今日で2回目だという話なわけで。
ある意味当たり前な話なわけで。
「来ても楽譜とか本のところばっかりだし。……たまにピアノは見たりするけど」
「だったら下のフロアで用足りるか」
「そゆこと」
ボクだって似たようなものだ。
楽器の演奏者ではあるけれど、そこまで頻繁に足を運ぶことは無い。
平日は授業に部活。
週末だって朝から晩まで部活となれば、当然だけどこの店の営業時間には間に合わない。
今日みたいに何かしらの理由で部活が午前か午後のどちらかにしかない日くらいしか、ここに来る暇なんて無かった。
「それに、あたしは吹けないし」
「あー……」
そういえばそうだった。
昔、家に来たときに何回か楽器を触ったことがあったが、聖歌はどうにも管楽器とは相性が合わなかったのを思い出す。
ものすごく悔しがる聖歌を、母さんとふたりで『聖歌には歌があるから、大丈夫』などと慰めていたっけ。
――ダメだ、ダメだ。
もう昔の話だ。
変に感傷的になるとめんどくさい。
視線を上に向けて、雪解けの水で濡れた靴底を鳴らしながら階段を上がりきれば、そこは管楽器・弦楽器コーナー。
ガラスのショーケースの中には、初めてその楽器を触る人にも安心安全な価格帯の楽器から、ちょっとゼロの数がおかしいんじゃないかと思ってしまうような楽器も入っている。
近々、さらに値段層のおかしな楽器の展示会を行うらしい。
――やばい、ちょっと気になる。
時間が合えば行こう。
「へー……」
興味深そうにショーケースの中を覗く聖歌。
店員さんを探そうかと思ったけれど、こちらのを方を先にした方が良さそうだ。
「どう? ……どう、って言われても困るか」
「ううん。キレイに並んでるの見ると、やっぱり楽しいよ?」
「それなら良いんだけど」
「いらっしゃいませ、どうぞご覧く……あ、瑞希くん」
「あ、どもです。美春さん」
「お? 来てくれたってことは、お買い上げしちゃう? しちゃってくパターン?」
「実際そうなんですけど、リアクションが面倒っ」
静かに店員さんが寄ってきたと思えば、見知った人だった。
近寄ってきたときの雰囲気なんてどこへやら。
近所のお姉さん――おばさんとは言わない――的な応対に変貌する。
「お知り合い?」
「美春さんって言って、よくお世話になってる人なんだ」
フルネームは蘇芳美春。
ここに最初に来たときに応対をしてくれて以来、ずっといろいろと楽器の面倒を見てもらっている。
ボクと、ウチの母親の、ちょうど間くらいの年齢。
前回来たときと比べて雰囲気が違うような気がしたが、なるほど、髪型か。
今日はセンターパートで、ちょっとだけウェービーだ。
「この前のって、まだ残ってます?」
「もちろんよ。っていうか、取り置きしておいたからね、こっそり」
「え。マジですか」
「マジもマジ。瑞希くんならたぶん来てくれるだろーなー、って期待を込めてね」
「さすがです」
美春さんのことだ。
恐らくボクと母さんとのやりとりを、だいたいは想像していたのだろう。
楽器の消耗品に関しては財布の紐がわりと緩くなるということなんて、百も承知か。
「広告に偽り無しだから、安心してよ?」
「もちろんですよ、そりゃあ。だから『また来ます』って言ったんですから」
「あら、嬉しい」
当たり外れが多いと言われるリードだが、ここで買うモノについては、ほとんど外れを引いたことがなかった。
単純に運が良いだけのことなのだろうけど、それでもやっぱり信頼感は違った。
こうして楽な気持ちで話せる店員さんが居るというのも大きいだろう。
ショーケースを楽しそうに見ていた聖歌も、美春さんに付いていくボクの後を興味深そうに追ってきた。
別にそのまま見ていてもらってもよかったのだが、こちらの方も気になるらしい。
それならそれで別に構わなかった。
「ところでさ、瑞希くん」
「何ですか?」
訊けば、美春さんは背後に視線をやる。
つられるようにそちらに振り向けば、当然ながらそこには聖歌が立っていた。
――何だ?
「……カノジョ?」
「!?」「!!」
真正面から見つめ合った状態になった瞬間、美春さんはボクらふたりの間に、それはそれは素晴らしいコントロールで爆弾を投げ込んできた。
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努めて「ふつう」に振舞おうとするんです。
それはもしかすると人に優しいのかもしれないですが、自分に対して甘いだけなのかもしれません。
もう少し続きます。