1-2. 戻っておいで、私の時間
放課後。
いつもは何となく同じクラスで同じ吹奏楽部の高島神流といっしょに音楽室へ行くことが多いが、今日の彼女は教室の掃除当番に割り当たっている。
今日は久々にひとりだ。
実に静かで落ち着く。
飲み物は確保しておきたかったが、まずは荷物を置いてからの方がいい。
今日の割り当てになっている第2音楽室の扉を開けると、既に先客がいた。
「こんちゃーっす」
「お、早ーい。こんちはー」
「それを言ったら先輩の方が早いじゃないですか。……珍しく」
「それが余計な一言だってわかってて言ってる?」
月雁高校吹奏楽部顧問である神村篤紀先生の長女であり、ボクの1学年上の先輩――神村春紅先輩が、手に持っていたシャーペンをダーツのように構える。
――これはまずかった。
「一番乗りレベルで早いのは実際珍しいじゃないですか」
でも、折れないでおく。
「……ま、そう言われちゃうと、返せないけどね」
「でしょー?」
事実はやんわりとぶつけるに限る。
春紅先輩も、理不尽を押し通すようなタイプではないのだ。
「で? そういう瑞希くんも早いじゃん?」
「たぶん、先輩と同じですよ」
「……なるほどね?」
言いながら楽器庫へ入り、オーボエを持って先輩の元へ戻る。
先輩はすでにクラリネットケースを傍らに置いて、楽譜に書いてあるメモに蛍光ペンでマークを付けているところだった。
物書きの最中には邪魔になるのか、ミディアムロングの髪を軽くまとめていた。
「見ーせて」
「どーぞ」
特に断る理由も無い。似たような調子で言いながら自分の楽譜を見せる。
通し練習やそれぞれの練習のときに言われたポイントや、ひとりで練習していたときに気付いたことやうまく行かなかったことなど、日々の演奏の中でメモをするところが山ほどある。
それは先輩も同じで、代わりに差し出された先輩の楽譜にも細かなメモが取られていた。
「あー、なるほどねー……」
「何かありました?」
「ちょっとここのアイディアもらってイイ?」
先輩がシャーペンの先で指していたのは、自主練習中に個人的に気が付いた部分だった。
「構わないですよ」
「さんきゅ」
自主練習中のメモと言っても、単独での練習ではない。
よくお世話になっている喫茶店兼バルのマスターであり、自身も楽器経験者である工藤さんに見てもらったときに書いたものだ。
マスターは『今のミズキのメイン指導者は、俺じゃなくて顧問の先生だ』というスタンスを崩さない。
そのため、直接的にこうしろというような指示は絶対に出さない。
比喩表現や参考になるような演奏を指定するなどした上で、あとは自分で気付けという指導方法を採ってくれている。
メモはそのときに自分なりに噛み砕いて書いたモノだった。
「それにしても『敢えて流れをせき止めるように』って、面白い書き方するね」
「つっかかるんじゃなくて、『ここを聴いて!』っていう感じにする、っていう意味なんですけどね」
「こっちで意図した部分に気付かせる、的な感じよね?」
「それです」
「なるほど、合ってた」
そのあたりの素養をしっかりと持ち合わせる人だから、こういう説明をするときもラクで助かる。
さすがは音楽教師の娘さん。
自分だけがわかるようなニュアンスでしか欠けてないようなメモが多い中、それをしっかりと察することが出来るのだから、さすがだ。
普段は朗らか――というかあっけらかんとしたようなタイプの人だけに、こういう感じでズバッと決めてくるのは良いギャップだった。
徐々に集まってきた部員に挨拶を返しながら、春紅先輩は続ける。
「瑞希くん的に、定期演奏会の自己採点は何点くらい?」
「……自分の演奏に限って言えば、70点くらいですかね」
「相変わらず辛いねえ」
先輩が苦笑いを見せる。
返される反応は大方予想通りだったらしい。
「実際、結構ミスりましたしね」
「でも、ソロはバッチリ決まってたしょ? みんなも褒めてたじゃん」
「そうは言っても、ってことですよ。ソロだけじゃないですからねー、演奏は」
たしかに、自分のソロパートは上出来だったと思う。
いわゆる『本番は練習のように』と言われるように、練習通りの事が本番で出せたとは思っている。
だけど、その直後に小さなミスを続けてしまったところだけは、納得が行かなかった。
本当はもっと低い点数でもいいくらいだ。
全体に迷惑をかけてしまうことにも繋がりかねないようなミスは、やはりやってはならない。
「きちんと決めきれないのは、やっぱりまだまだ実力不足ってことですよ」
「案外、完璧主義者だよね。瑞希くんって」
上塗りをされるように、さらに苦笑いを返されてしまった。
「そんなことは、無いと思いますけどね」
「君が言うのは『普段は』ってところでしょ? 違う違う。演奏とか、音楽とか、そういうところよ」
「いやー……、いや、そんなことは」
「今、ちょっと迷ったじゃん?」
バレた。
実際問題、そこまでパーフェクトを目指しているわけではない。
それは胸を張って言える。
断言できると言ってもいい。
「そりゃーねー。たまーに、ちょっとズボラっぽいところあったり、ドジったりもするけどね」
「……よく知ってますね」
「まぁねえ。中学からの付き合いだし?」
その通りだった。
中学生特有かもしれないようなちょっとイタい過去みたいなものは無いはずなのでその辺は良いのだが、日常的な部分でのミスとかを突かれると耳が痛い。
「階段の上から楽譜を全部ばらまいたときは、笑ったなー」
「やめてください……」
それは今でも思い出すと顔が熱くなる。
紙吹雪か何かのようにひらひらと落ちていく楽譜を呆然と見つめていたボクは、間違いなく滑稽だった。
「まー、根を詰めすぎない方が良いとは思うよ?」
「りょーかいです。春紅先輩くらいにしますね」
「……それは、私がテキトーだとでも言いたいのかしらぁ?」
ゆらりと、先輩の目に火が灯った気がした。
「違いますってば。そう言うなら、先輩もその辺の自己評価、結構辛いと思いますよ?」
「え? そう?」
セーフ。
お気に召したらしい。
しかし、何だか妙に腰回りをくねくねさせている。
別におべっかを使ったわけではないのだが、そういうリアクションされると逆にボクがウソを言った様な気分になってしまう。
「こんちはーっ!」
がらりと勢いよくドアが開き、同時に誰かが飛び込んでくる。
――誰か、なんてぼかす必要は無い。
声だけでも充分に判る。
視界の端の方で、勝ち気なショートヘアが揺れている。
高島神流の襲来だった。
「あー! 何かイチャついてるー!」
出会い頭に何を言ってるんだ、どこにイチャついてるヤツが――。
そんなことを思いつつ神流の方を見れば、神流はこちらをガン見していた。
ガッツリと視線が交錯したと思ったら、神流はこちらに向かってダッシュしてくる。
どうしたんだと思う間もなく神流は、ボクと春紅先輩の間に割り込むように立つと、ボクの両肩をがっちりと掴んだ。
――は?
「ハルカ先輩はミズキを取らないで!」
――え?
「ミズキはハルカ先輩を取らないで!」
――うん?
「……いや、じゃあどうしろと」
「安心して、神流」
困惑するボクを余所に、どこか通じ合った感のある先輩。
「私は神流のモノよ」
「……ああ、そういう方向性ね」
ハイテンションのままでがっちりとハグを交わすふたり。
周りは完全に無視を決め込んだ。
いいなぁ、そういう風に部外者になれる立場に居られるのは。
半分くらい当事者にされてしまっている状態だから逃げ場がない。
――ほら。何かを期待するような視線で、春紅先輩と神流がこちらを見てきた。
何をしろというのか。
まさか、その中に入れとでも言うのか。
さすがに、そんなことできるわけがないだろう。
他の男子部員なら、喜んで特攻するヤツがいるとも思うが、そんな後先考えないことをしたくはない。
軽く滅ぼされてしまいかねない。
何となく部活が始まる前から疲れてしまったような気がするが、仕方が無い。
ため息を吐きながら思い出す。
そういえば飲み物を買うのを忘れていた。
何とか気持ちをリセットするためにも、自販機を目指すことにした。
お読みいただきましてありがとうございます。
月雁高校吹奏楽部の日常風景でございました。
……それにしても神流さんってば、紛らわしいことを言いますねえ。